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プロレスとカナダ人 寄稿:陶山宣明

プロレスとカナダ人

陶山 宣明(帝京平成大学)

 20世紀に米国を中心にして繁栄したプロレス産業ではベビーフェイス(善玉)とヒール(悪役)の対立が基本的な構造となり、観客の感情にうまく訴えられる役柄が最高のギミックとして使われる。例えば、反日感情強かりし頃には、グレート東郷が下駄履きの田吾作スタイルで登場し、ゴングが鳴る前に仕掛ける卑怯な奇襲戦法を得意としていた。凶器攻撃も含めて反則技の連発で白人レスラーを追い詰めるのだけれども、最後には東郷がこてんぱんにやっつけられるのを楽しみ、ファンは胸のすくような思いをしてGMやフォードのエンジンを吹かして家路を急いだのである。
 もし18世紀や19世紀にプロレスがあれば、米国ではカナダ人が悪玉になり、逆にカナダの体育館で顰蹙を買うのは米国人だったかもしれない。が、アングルとして利用できるだけの二国間の敵対意識は大衆レベルでとうに消滅していた。テレビが普及してから総じてカナダ社会はイギリスよりもアメリカ文化の影響を受けるようになり、スポーツやエンターテインメントでは国境が感じられなくなる程に加米はアングロアメリカとして同質化した。かくして、カナダの主要都市ではMSGやロスのオリンピックオーデトリアムに負けず劣らずのレスリングの熱戦が繰り広げられたのであった。
 2メートル近い身長があったベンとマイクのシャープ兄弟が来日し世界タッグ選手権を闘った時には、誰もが一目でも力道山の空手チョップを見ようとして、街頭テレビは黒山の人だかりとなった。敗戦国民は「小さい日本人」が「大きいアメリカ人」をなぎ倒す光景に酔い痴れ、プロレスには爆発的な人気が出たのである。限られた通のみが、本当はシャープ兄弟がハミルトン出身のカナダ人であることをしかと認識していた。二人とも既に鬼籍に入っているが、彼らの名前は某家電メーカーの会社名として今日までしっかりと日本で生き永らえていると云う真しやかな説が巷間で流布している。
 力道山は選手としてだけではなく経営者としての才覚も回り、世界の強豪を一堂に会して優勝を競い合うワールドリーグ戦を創案し巨利を博した。ここでは「外人」が複数の国から来ていることを宣伝材料として利用し、大半が北米のプロレスラーをその先祖の血筋や或いは全くのでっち上げで様々な国の代表とした。第3回大会でカナダ代表として参加したのはその多くが謎に包まれたグレート・アントニオだったが、クロアチア生れの難民でカナダに帰化してモントリオールに住んでいたことはどうやら間違いないようである。実際カナダ人であっても、キラー・コワルスキーはポーランド代表、ワルドー・フォン・エリックはドイツ代表などと都合よく情報操作された。このトロント生れのエリックがドイツ系であったことは確かで、後にグレート・トージョーと日独戦犯コンビを結成して豪州マット界で暴れまくっている。
 1966年から69年まで当時世界最高峰であったNWA世界王者の座に君臨した荒法師ジン・キニスキーはエドモントン出身だが、日本に来る時もジャケットの背中にCANADAの6文字を縫いつけて自分が米国人ではなくカナダ人であることを強くアッピールしていた。そうした立ち振舞が本国カナダでナショナリズムが高揚していた時期と符合するのは、決して偶然とは言えないのではないか。その「ミスター・カナダ」の称号を受け継いだのがシャープ兄弟のマイクの息子で、シニアがカナダ人であることをむしろ隠していたのに対して、ジュニアは売り物にしたという時の流れが興味深い。
 ジャイアント馬場とアントニオ猪木の宿敵(盟友?)アブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンは共にカナダ人である。ブッチャーはウィンザーで産声を上げ生まれながらのカナダ人であるのにも拘わらず、怪奇性を高めるべくスーダンの「黒い呪術師」のイメージを作り上げていた。シンはインド・パンジャブ州からの移民でトロント郊外に居を定めて養鶏業、不動産業、プロレスの三足の草鞋を履いて巨額の富を蓄えたが、到着時にはポケットに入っていた数ドルが全財産だったというから大変なサクセス・ストーリーである。二人の極道は愛憎相半ばするキャラクターとして人口に膾炙していたし、今でも多くの日本人の心に深く刻まれ続けている。
 パット・パターソンはその英語っぽい名前、輝ける金髪、派手なオーバーアクションなどから誰もが典型のアメリカ人だと思っていたが、実名ピエール・クレルモンで地の髪の毛の色は茶褐色のモントリオール出身フランコフォンであった。ジャンボ鶴田とAWA世界チャンピオンベルトを争ったリック・マーテルはケベックシティー出身の仏系カナダ人(本名リシャール・ヴィニョー)だったが、自分のバックグラウンドを正確に喧伝することもなく日本及び北米全土で縦横無尽に活躍した。90年代になって遂に、自らをケベック・ナショナリズムの権化と称しユリの紋章を配したケベック旗を大きく振りかざしてステージに上がるシルヴァン・グルニエが現れた。
(関東地区ニューズレター第2号より転載)

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