メニュー 閉じる

カナダ豆事典

+印を開いて、目的の項目をご覧ください。「ヴ」ではじまる項目は「ア行ウ段」に配置されています。

ア行

ICCS
国際カナダ研究協議会 参照

アイスワイン(Icewine)
自然凍結したブドウから作られ、濃縮された甘味と芳醇な香りが特徴的なアルコール度数7~12%のデザートワインである。1794年にドイツのフランケン地方で、寒波に襲われ凍ったブドウを収穫し、偶然に糖度の高いワインが出来たのが始まりと言われる。1800年半ばにはドイツのラインガウ地方においてドイツ語でeiswein=アイスワインの名称が誕生している。通常のワイン用ブドウから果実の重量の55~85%の果汁が得られるのに対して、マイナス8℃以下、時にはマイナス12℃になる夜から夜明けにかけて凍ったまま収穫したブドウから得られる凝縮された果汁はわずか10~20%で、発酵期間はワインより長い3~6か月である。カナダへはドイツからの移民によって伝えられ、1970年代、気候が温暖で土壌の質が適したことで果実栽培が盛んなブリティッシュ・コロンビア州のオカナガン渓谷でカナダ初のアイスワインが醸造された。また、オンタリオ州ナイアガラ地方では1984年から始まり、ワイナリー“Inniskillin”が1991年に製造したアイスワインがフランスで開催されたワインエキスポで受賞、一躍注目されるようになった。カナダは、現在世界で最も多くアイスワインを製造している国である。(友武栄理子)

アイスホッケー(Ice Hockey)
ラクロスとともにカナダの国技となるスポーツで、現地では単にホッケーと呼ばれる。19世紀初めに先住民や英国移民たちが氷上で嗜んでいたある種の遊びから100年を経て現在の形をとったというのが通説で、氷上で各チーム6人の選手たちがパックをスティックで敵陣のゴールに入れることを競う。敵チームの選手へのヒット(タックル)が許されるなど、荒っぽさも魅力の1つ。プロリーグであるナショナル・ホッケー・リーグ(NHL)は北米全土の32チーム(2021年)で構成されており、そのうちの7チームがカナダに拠点をもっている。チームのほとんどはアメリカの都市に拠点をおいているが、選手の過半数はカナダ人で、そのなかには歴代最多得点を誇るウェイン・グレツキー(Wayne Gretzky)や現役最高フォワードといわれるコナー・マクデイヴィッド(Connor McDavid)も含まれる。(立川陽仁)

アイマックス(IMAX)
トロントにあるアイマックス・システム会社が1968年に開発した映像技術。70ミリフィルムを採用し、1コマは従来の35ミリフィルムの10倍の画像サイズを有する画期的なものである。フィルムは特殊な映写機にかけられ水平移行する仕組みになっており、壮大な規模の映像を映すことができる。アイマックスを利用した本格的映画館は、1971年にトロント市にあるオンタリオ・プレースの中に最初設置され、以後エドモントン市の宇宙科学館内、ナイアガラ・フオール市のピラミッド館内、さらにはフロリダのディズニーランドをはじめ全米10カ所に開設されている。(南良成)

赤毛のアン
プリンス・エドワード島生まれの女流作家ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery,1874-1942)の代表作Anne of Green Gables(1908)の邦題であり、主人公の特徴を捉えた名称。Anne of Green Gablesを直訳すると『緑の切り妻屋根のアン』となるが、村岡花子(1893-1968)が1952年に『赤毛のアン』とはじめて日本語に訳したことで、日本でも大人気の作品となった。作品の舞台は、プリンス・エドワード島のキャベンデッシュをモデルにした村であるアヴォンリー。赤毛でそばかすのある孤児アン・シャーリー(Anne Shirley)が、手違いで、男の子がほしいと思っていた緑の切り妻屋根の家に住むカスバ―ト(Cuthbert)家のマシュー(Matthew)とマリラ(Marilla)の老兄妹のもとへやってくるところから物語ははじまる。想像力豊かなアンはさまざまな失敗を繰り返しながらも、心の友となるダイアナ(Diana)や勉強面でのよきライバルであるギルバート(Gilbert)など友人にも恵まれ、マシューとマリラに愛情を注がれながら、賢く心豊かに成長していく。
 作者であるモンゴメリ自身の生い立ちと重なる部分も多い。いくつもの出版社に持ち込んで、何度も断られたが、ボストンの出版社から1908年に出版されると、一躍世界的なベストセラーとなり、多くの版を重ねるだけではなく、世界中の様々な言語で翻訳され、映画、舞台、ミュージカル、テレビなどにも何度も上演され、最近ではネット配信ドラマなども製作され現在に至る。『赤毛のアン』の続編も出版されており、アン・シリーズとして愛されている。プリンス・エドワード島の美しい自然描写も作品の魅力の一つで、多くの観光客が作品ゆかりの地を訪れている。(石井英津子)

アカディア人 (Acadian)
アカディアに居住したフランス系入植者たちのこと。アカディアとは現在のカナダ沿海州、ニュー・ブランズウィック、ノヴァ・スコシアおよびアメリカのメイン州の一部を含む地域の古い呼び名である。その地域への最初の入植は、1604年にP.ド・モンとS.シャンプランによって組織されたフランス人たちによるもので、拠点はパサマソディ湾の島に設立された。翌年、現在のノヴァ・スコシアのアナポリス・ロイヤルに移され、以後アカディア人の将来にとり重要な地、現今においてもフランス系カナダ人の故郷となっている。その地の領有を狙う英国とフランスとの永年の抗争は、1713年のユトレヒト条約で一部を残し英国領となることで決着したかにみえたが、1755年の七年戦争の終わりまで続く。その際、反乱を危惧した英国はフランス系住民の忠誠を求めたが得られず、多くの住民を強制移住させる。その悲劇はロングフェローの『エヴァンジェリン』(1847)に詩われる。(多湖正紀)

アカディア大学(Acadia University)
ノヴァ・スコシア州にある、1838年創立の州立大学。州都ハリファックスの国際空港から車で約1時間のウォルフビルに位置するカナダでも歴史ある大学のひとつである。教養、理学、工学、プロフェッショナル・スタディーズの4つの学部があり、学生数は約3,800人ほどである。新入生の60%以上はカナダ東部出身であるが、海外からの学生も全体の約10%を占めている。(宇都宮浩司)

アカディア人の追放(Expulsion of the Acadians)
1713年に英領となった後もノヴァ・スコシアに居住していたアカディア人は、英国の5度にわたる忠誠宣誓の強要を拒否して、40年以上中立の立場を維持し、「中立のフランス人」と呼ばれていた。しかし、フレンチ・アンド・インディアン戦争勃発後、ノヴァ・スコシア総督C・ローレンスは彼らに無条件の忠誠宣誓を求めた。彼らがこれを拒否したため、1755年8月、強制追放が命じられた。その結果、人口の4分の3以上、約11,000人が13植民地やフランス、イギリスへ離散した。ルイジアナの「ケイジャン」は彼らの子孫である。フレンチ・アンド・インディアン戦争の終結後、約8,000人が帰還し、今日、第2のフランス系カナダ人グループとして、独自の社会を築いている。(木野淳子)

アカン,ユベール(Aquin, Hubert 1929-1977)
作家。モントリオールに生まれる。モントリオール大学で哲学、パリで政治学を学んだ後、様々なポストを遍歴する。ラジオ・カナダやカナダ国立映画制作庁(NFB, ONF)で映画のシナリオなどを手がけ、ケベック州立大学モントリオール校で教鞭をとり、ラ・プレス出版社の文学部門で編集長を務めるがいずれもほどなく職を離れた。ケベック独立運動に積極的に参加したことで知られ、ケベックの近代化を推し進める独立派知識人として影響を与えた。1964年には過激な政治的行動のため拘留された。拘留されている最中に初めて書いた小説『来るべきエピソード』(Prochain episode 1965)は錯綜した筋をもつ強烈な作風で発表と同時に内外に大きな衝撃を与えた。1969年には小説『記憶の穴』(1968)によってカナダ総督文学賞を受賞するが、政治的な理由で授与されることを拒んだ。アカンの作品は、いずれも複雑なプロットや構成から成り、しばしば病的な雰囲気さえ漂う研ぎ澄まされた明晰さと不透明さが入り混じる独特の作風で、ある種の戦闘性を備えていた。自殺願望にとりつかれ、幾つかの作品を残して1977年に自殺した。(真田桂子)

アジア系カナダ人(アジア系移民)(Asian Canadians)
民族的出自をアジアに持つカナダ人。2016年国勢調査によるとアジア系カナダ人は約610万人で、その人口規模はカナダ総人口約3,500万人の約18%を占めるまでに拡大している。内訳は、南アジア系約200万人(インド系137万、パキスタン系22万など)、中国系約177万人、フィリピン系84万人、ベトナム系24万人、パキスタン系22万人、韓国系20万人、日系12万人、パキスタン系7万4千人等となっている。近年ではインド系移民の増加が著しい。日系は100年以上の歴史をもつが、第2次世界大戦時の日系人強制移住以来、新規移民に占める割合は減少した。カナダでは毎年5月がアジア遺産月間(Asian Heritage Month)とされており、各地でアジア系カナダ人のカナダ社会への貢献について学ぶイベントが行われる。(森川眞規雄/大岡栄美)

アジア太平洋カナダ研究ネットワーク(Pacific Asia Network of Canadian Studies:PANCS)
 2007年に設立されたカナダ研究のネットワークのひとつで、カナダ研究国際協議会の地域組織。加盟学会は、日本カナダ学会 (JACS) に加えて、韓国カナダ学会 (KACS)、中国カナダ学会 (ACSC)、台湾カナダ学会 (ACST)、オーストラリア・ニュージーランド・カナダ学会 (ACSANZ)、インド・カナダ学会 (InACS)、イスラエル・カナダ学会 (IsACS)の7学会であり、毎年若手研究者育成を目的とした院生セミナーを主催し、優秀論文を出版している。2007年の香港大会を皮切りに、ニューデリー、ブリスベン、大阪、エルサレム、ソウルで開催された。同様な地域ネットワークとして、ヨーロッパ・カナダ研究ネットワーク(ENCS: European Network for Canadian Studies)とラテンアメリカ・カナダ研究ネットワーク(LANCS: Latin American Network for Canadian Studies)がある。特にENCSとは院生大会の最優秀報告者をそれぞれの大会に相互派遣する地域間交流も行われたが、2012年のカナダ理解促進プログラムの廃止以降、活動は休止状態である。(下村雄紀)

アシェヴァク, ケノジュアク (Kenojuak Ashevak)
カナダのイヌイット・アートを代表する女流アーティスト(1927-2013)。ケノジュアク・アシェヴァクは1927年にバフィン島南部で生まれ、1966年に子供を学校に行かせるために家族でケープドーセット(キンガイト)に移り住んだ。1950年代にイヌイットに版画制作を紹介したジェイムズ・ヒューストンとその妻の勧めで版画の原画や絵、石製彫刻を制作するようになった。代表作のひとつである版画“Enchanted Owl ”(1960)は1970年にカナダの86セント切手の図柄に、版画”Owl’s Bouquet”(2007)は2017年にカナダ建国150年記念の10ドル紙幣の図柄に採用された。特に彼女はフクロウなどの鳥を描いた作品を数多く残した。彼女の作品はカナダ国立美術館やオンタリオ美術館、メトロポリタン美術館やブルックリン博物館に所蔵されている。(岸上伸啓)

アッパー・カナダ(Upper Canada)
現在のオンタリオ州の母体となった1791年から1841年に存在した英領北アメリカ植民地の1つ。アメリカ独立革命の結果、独立に反対した王党派(ロイヤリスト)約1万人が、ケベック植民地西部に移住した。さらにアメリカからの移民の増加によって英語系人口が増加したため、フランス式の土地所有制度やフランス民法によるケベック法に基づく統治体制に不満が生じた。そこで、イギリスは1791年カナダ法(立憲条令)で、主にフランス系のロワー・カナダ植民地と、おおむねイギリス系のアッパー・カナダ植民地に分割し、両植民地に選出制議会も設置した。植民地を統治した初代副総督J・シムコー(John G. Simcoe)は、アッパー・カナダを「イギリスの写し」にしようとしたが、植民地発展のための人口増加策として、アメリカからの移住を奨励した。その結果、1812年戦争直前にはアッパー・カナダの人口の大半は土地目当てのアメリカ系移民となった。そのためアメリカ合衆国との間の1812年戦争でも、中立の立場をとった者が多かったが、アメリカ合衆国に寝返ることはなかった。
 1830年代に入って、ようやくイギリスからの移民が本格的に流入した。英領北アメリカ各植民地では、議会の権限の限定と、総督とその周囲の一部が政治を支配する寡頭制に対し、1830年代以降に政治改革運動が本格化した。その中で、アッパー・カナダでは急進化したW・L・マッケンジーがアメリカ的制度の導入を主張し、1837年に反乱を起こしたが、多くの住民の支持は得られなかった。イギリスは、アッパー、ロワー両カナダの不満を調査したダラム総督の『ダラム報告(1839年)』に従い、1840年の連合法で、フランス系を同化させようと両植民地を統合し、連合カナダ植民地とした。その統治体制も一本化したが、旧アッパー・カナダはカナダ・ウェスト、旧ロワー・カナダはカナダ・イーストと二つの行政区となり、最終的に1867年カナダ自治領誕生時には、二つの州に分かれることになる。(木野淳子)

アトウッド,マーガレット(Atwood, Margaret 1939- )
現代カナダ文学界にあって、国の内外を通じて最も高名な詩人、小説家、評論家である。オタワに生まれ、昆虫学者の父親に従って、北部森林地帯にしばしば滞在した。
 1946年にトロントに移る。トロント大学でノースロップ・フライ(Northrop Frye)の影響を受け、神話と原型を追求して初期の詩作を行った。1966年発表の詩集『サークルゲーム』The Circle Gameはカナダ総督文学賞を得た。
 1969年に小説第1作『食べられる女』The Edible Womanを発表し、現代男性中心社会の風刺を特異な文体で表現した。第2作の『浮上』Surfacing(1972)は、広く彼女の名を高めた作品であるが、科学技術対自然、アメリカ対カナダという対立のテーマを通して、主人公である女性の自己発見の物語として読まれている。これらのテーマは、様々な変容を示しながら、詩集『武力外交』Power Politics(1973)、小説『女巫(かんなぎ)』Lady Oracle(1976)、小説『肉体の傷』Bodily Harm(1981)と発展していく。この間に発表したカナダ文学案内書『生き残る』Survival(1972)において彼女は、カナダ文学は、生き残るために苦悩する敗者をアイデンティティのテーマとしてきたとする。この理論は、彼女自身の作品にも当てはまるが、その後の作品で、近未来のSFとして映画にもなった小説『侍女の物語』Handmai’s Tale(1985)や彼女の自叙伝と言われる小説『猫目石』Cat’s Eye(1988)においては、単なる敗者に終らず、逆襲の試みがなされて、新しい境地を開いている。アウトウッドは児童文学作品の発行やTVドラマの製作にも携わったが、カナダ作家協会の副会長を務めたり、国際アムネスティに参加するなど、社会的な活動にも積極的である。総督賞のほかモルソン賞(Molson Prize)などの数々の賞を得ている。(浅井 晃)

アブラム平原の戦い
1759年9月13日、フレンチ・アンド・インディアン戦争中、ヌーヴェル・フランスの重要な拠点の一つ、ケベックの攻防を決したイギリスとフランスの戦い。同年7月、ウォルフ将軍率いる英軍はケベック攻略のためセント・ローレンス川をさかのぼったが、崖の上にいるモンカルム下の仏軍を攻めあぐね、攻防戦は3ヵ月近く続いた。9月13日、英軍はようやくケベックより3キロ上流に崖をよじ登る小道を発見し、上陸してアブラム平原に集結した。モンカルムはこれに対し、全戦力の集結を待たず戦わざるをえなかった。また、数的には両軍とも約4,500名であったが、英軍の正規軍に対し、仏軍は訓練の不十分な民兵が中心であったことも敗因となった。激しい戦いで、両軍の指導者が戦死し、9月18日にケベックは陥落した。翌1760年にモントリオールが降伏し、ヌーヴェル・フランスは1763年にイギリスの植民地となった。(木野淳子)

アムラン,マルク=アンドレ(Hamelin, Marc-Andre 1961-)
超絶技巧で知られるケベック州出身のピアニスト。1961年9月5日、モントリオール生まれ。同地のヴァンサン・ダンディ音楽学校、フィラデルフィアのテンプル大学に学ぶ。1985年、カーネギー・ホール国際アメリカ音楽コンクール優勝。古今の超難曲や忘れられた作曲家の作品ばかりを演奏・録音し、技巧的に困難をほとんど感じさせない逸材として知られてきたが、1994年の英ハイペリオンとの録音契約以降、有名曲も積極的に取り上げている。作曲も行い、出版譜もある。1997年初来日。2003年、カナダ勲章オフィサー。翌年、ケベック勲章シュヴァリエを受章。(宮澤淳一)

アメリカ村(Amerikamura)
和歌山県日高郡美浜町三尾は、北米大陸(主としてカナダ)へ多くの村人を送り出した「移民母村-アメリカ村」として知られている。移民の歴史は1888年(明治21)に始まり、三尾からカナダへ移民するものは年々増加し続けた。1930年(昭和5)には村内人口の約半数がカナダに居住した経験をもつと記録され、「村ごとの移住」と呼ぶものに近いものになった。きっかけは村内出身の工野儀兵衛が大志を抱き、明治21年に単身カナダへ渡航したことにある。「カナダでの漁業は有望である」との工野の呼び寄せで、翌年には儀兵衛の兄弟2名を筆頭に村から8名が渡航した。その後、移住する者は年々増加し、1926年(昭和元年)になると、三尾出身者の在カナダ人口(1350人)は在村人口(1212人)に匹敵するほどまでになったのである。
 彼らの多くがカナダでも漁業に従事し、大体隔年、または3年毎に秋鮭終了後の10月から11月に帰国し、翌年の3月に再渡加した。当初、ほとんどの村人たちはいわゆる「出稼ぎ移民」であったが、太平洋戦争の敗戦を契機として、日本へ帰国した者とカナダ永住を選択したものに分かれた。1941年(昭和16年)に太平洋戦争がはじまり、その翌年、西部沿岸地域から日系人は強制立ち退きとなり、多くの者が強制収容された。そして戦後の1946年(昭和21年)に第1回の日系人引揚げが始まり、1947年(昭和22)の送還船で三尾出身者380名が引き揚げてきた。戦後は1949年(昭和24)から、親類等の呼び寄せで再渡加が始まり、1951年(昭和26)末までに104名(アメリカ10名、カナダ94名)、1957年(昭和32)までに計160名が渡航し、さらに1962年(昭和37)までを合計すると350名が渡航している。それ以降は、1970年の1名を最後として移民を目的とした渡航者は記録されていない。
 以上のように三尾の村人は、三尾からカナダ、そしてカナダから三尾へというように文字通りグローバルな移動を続けてきた。しかし、彼らの生活は移住先でも極めて出身地域色に富んだ「ローカルな生活」であったと言える。現在(1997年)では、移民目的でのカナダへの移動、あるいは三尾での生活を目的としたカナダからの帰国移民者は見られない。しかしながら、カナダから三尾へは墓参・親戚訪問を兼ねての観光旅行、三尾からカナダへも親戚訪問などを目的とした旅行に出かけている。また、葬儀の際は三尾とカナダで数多い香典のやりとりがあり、結びつきは強い。(山田 千香子)

アメリカ・メキシコ・カナダ協定(USMCA)
「カナダ・アメリカ・メキシコ協定(CUSMA)」参照。

アラスカ国境問題
アラスカ南端を太平洋沿いにブリティッシュ・コロンビア州へ北緯54度40分まで伸びる「パンハンドル」部分をめぐる合衆国との国境紛争。複雑な海岸線を持つこの部分は、1896年に金鉱が発見されたクロンダイクへの海路の入口として米加間での深刻な争点となった。合衆国が多数の峡湾を顧慮することなしに、沿岸部分全体の領有を主張したのに対し、カナダは幾つかの湾頭部分、とりわけユーコン川からクロンダイク川への入口となるリン・キャナルの領有を求めて譲らなかった。
 1898年からケベック市で開催された英米合同委員会(カナダ代表も参加)での交渉が翌年2月に失敗すると、問題は国際司法裁判に委ねられた。米英双方から3名ずつが裁定委員に任命され、イギリス側の2名はカナダ人が占めたが、主席代表には英国高等法院の長官アルヴァーストン卿が就任する。他方アメリカ大統領ルーズヴェルトは、裁定委員には「公正な法律家」を任命するとの事前合意にもかかわらず、3人とも対加強硬論者を任命して挑戦的な姿勢をあらわにした。カナダが恐れた通り、1903年10月20日に発表された裁定は合衆国側の主張をほぼ全面的に受け入れたものとなり、2名のカナダ人委員は裁定への署名を拒否して、公正な裁定の約束を踏みにじった合衆国と、これに屈服したアルヴァーストンとに抗議の意を表する。
 国境問題についてのカナダの主張の論拠は必ずしも強固だったとはいえない。しかしほぼ全面的に合衆国に有利な裁定が下されたことは、英米二大列強の狭間におかれたカナダ自治領の外交的な脆弱さを改めて明らかにした。折からの南ア戦争と米西戦争の中での英米協調の必要が、カナダ利害を犠牲にしたのである。カナダの外交的自立の必要を痛感した首相ローリエは、以降本国に対し、一層の外交的独立を要求し、本国利害から離れた独自の対米外交の可能性を模索することとなる。(木村和男)

アルカン,ドゥニ(Arcand, Denys 1941- )
モントリオール大学卒業後、カナダ国立映画庁に就職。当時記録映画とアニメーション製作しか手がけていなかった同庁で、長編劇場用映画を製作した「ケベック監督四人衆」の一人。1980年代に発表した『アメリカ帝国の滅亡』 Le Déclin de l’empire américain (1986)、『モントリオールのジーザス』Jésus de Montréal (1989)がカンヌ国際映画祭で受賞し、国際的映画監督の仲間入りを果たした。(馬場広信)

アルゴンキン(Algonquin)
この名称は、言語分類上、アルゴンキン語族としてこの言語を使う先住民諸集団全体を指す場合と、この言語族に属し、アルゴンキンと呼ばれる自律的な一集団を指す場合とがある。前者には、オジブワ、クリー、ブラックフットなどの20を超える諸集団が含まれ、カナダ東部からロッキー山脈東麓にわたる広大な地域に分散して居住している。他方後者は、ケベック州とオンタリオ州の境を流れるオタワ川上流地方に居住し、オジブワ語の方言を用いる一先住民族で、総人口は1996年に1万457人、自称はアニシナペクあるいはアニシナべクである。歴史的には毛皮交易をめぐって17世紀以降イロコイと激しく対立したことで知られる。(富田虎男)

アルバータ州(Alberta)
カナダ西部に位置するアルバータ州は、面積66万1,848km2、人口446万4,170人 (2021年)を擁し、プレーリー3州のひとつで、州都はエドモントン。州最大の都市であるカルガリーをはじめ、都市部に人口が集中している。1905年に連邦政府(カナダ自治領―Dominion of Canada)に加入。アルバータの由来は、ルイーズ・キャロライン・アルバータ(Louise Caroline Alberta)王女に因んでいる。主要な産業には、鉱業、オイルサンドなどのエネルギー産業、農業・畜産業に加え、観光産業などがあげられる。観光資源としては、カナディアン・ロッキー山脈自然公園群(Canadian Rocky Mountain Parks)などの世界自然遺産がある。(下村雄紀)

アルバータ大学(University of Alberta)
アルバータの州都エドモントンにある総合大学。州創設3年後の1908年に設立された。2021年現在、エドモントンとカムローズの2市に計5つのキャンパスを有し、200を超える学部プログラムと500を超える大学院プログラムで、4万人以上の学生・大学院生が学んでいる。150もの建物を擁するメインキャンパス(ノースキャンパス)はノース・サスカチュワン川の河畔にあり、教職員7,500人と学生・大学院生3万5千人が在籍している。UBCやカールトン大学(オタワ)の創始メンバーの1人でもある初代学長ヘンリー・マーシャル・トーリーは、初代州首相アレクサンダー・キャメロン・ラザフォードの意向も受けて、非宗教的(secular)な共学校を開校した。開学に際しては、女性に門戸を開かない課程やプログラムの設置を禁じており、第1期学生45名のうち7名が女性であった。カナダの研究大学としてトップ5にランキングされ、国立ナノテクノロジー研究所が置かれている他、古生物学、森林学、地質学、石油工学、医学などの領域では世界的に高い評価を得ている。(田中俊弘)

アロフォン(Allophone)
カナダ統計局は「アロフォンallophone」を「英語とフランス語以外の言語を母語とする人々」と定義している。近年、アジアからの移民が増え、英語とフランス語以外の言語を母語とする移民が増加している。この状況は2016年の最新の国勢調査の母語別人口に反映され、英語とフランス語以外を母語とするカナダ国民・永住者の総人口に占める比率(21.1%)は、フランス語母語話者(20.6%)の比率を上回るまでになった。
 「アングロフォン」と「フランコフォン」と同様に、「アロフォン」も一般的には「家庭言語home language」(「家で最も話す言語」)の定義が当てはまり、「普段の生活で英語とフランス語以外の言語を話す人々」と緩やかに認識されている。移民はトロント、モントリオール、ヴァンクーヴァーなどの大都市に収集するため、オンタリオ州、ケベック州、ブリティッシュ・コロンビア州においてアロフォンが人口に占める比率が高い。
 英語とフランス語以外の言語を母語とする移民の子供たちは、カナダで生まれた場合、あるいは幼少期にカナダに移住した場合、学齢期以前は家庭で親の母語を最も話す傾向があるが、学校に行くようになると英語圏では英語の方が、フランス語圏(特にケベック州)ではフランス語の方が強くなり、徐々に家庭でも英語またはフランス語で話すようになる事例が多い。つまり、これらの移民の子供たちは、子供のころはアロフォン、成長するにつれて、英語圏ではアングロフォンに、フランス語圏ではフランコフォンになる傾向がある。(矢頭典枝)

アンカ,ポール(Anka, Paul Albert 1941- )
オタワ生まれ。カナダを代表するシンガーソングライターで、音楽殿堂入りを果たし、オタワにはその名を冠した通りがある。幼い頃から両親が経営するレストランで歌っていたが、1957年「ダイアナ」を引っさげてアメリカでデビュー、乗りの良さでたちまち全米2位の大ヒットとなった。以来、1958「君は我が運命」、1959「ロンリー・ボーイ」とヒットを連発、1960年代にかけて、今で言うオールディーズを代表する存在だった。作曲の評価も高く、シナトラの「マイ・ウエイ」、マイケル・ジャクソンの「This is It」や、映画の主題曲「The Longest Day」はよく知られている。(後藤紀夫)

アングロコンフォーミティ(Anglo-conformity)
多くの移民を受け入れてきた社会で多様な文化的背景をもつ人々を既存の社会に同化させ統合をはかる同化理論の一つ。米国、カナダ、オーストラリアなどイギリス系の人々が基礎を築き主流を占めてきた社会では、イギリス系以外の人種・民族集団もイギリス的(アングロ)文化に順応すること(コンフォーミティ)が求められた歴史がある。カナダでは19世紀末にほぼ全土が連邦政府のもとに統一され、国民統合の柱としてイギリス的価値や生活様式がカナダ人の基準となった。背景には、米国がめざしていた「メルティング・ポット」に対する不信もあった。しかし20世紀後半、非イギリス系住民の反発によって、カナダの特徴を表す表現としてモザイク論や多文化主義にとってかわられ、イギリス的要素は重視されなくなる。さらに21世紀には、「多様性」の尊重が共通の理念となり、特定の文化に焦点を絞るエスニック・スタディーズなどの扱いも微妙になりつつある。(高村宏子)

アングロフォン(Anglophone)
カナダでは「アングロフォンanglophone」と「フランコフォンfrancophone」という語を普通に耳にする。カナダ統計局は「アングロフォン」を「英語を母語とする人々」、「フランコフォン」を「フランス語を母語とする人々」と定義しているが、カナダ統計局の「母語mother tongue」の定義は、「幼少期に家庭で最初に習得し、現在も理解できる言語」である。これに対し、カナダ統計局は、「家庭言語home language」を「家で最も話す言語」と定義している。一般的には、「アングロフォン」は「普段の生活で英語を話す人」、「フランコフォン」は「普段の生活でフランス語を話す人」と緩やかに解釈されているため、カナダ統計局の「家庭言語」の定義の方が当てはまる。
 この意味での「アングロフォン」は2016年の国勢調査によれば、カナダの総人口の63.7%を占めている。地域別にアングロフォンの人口をみれば、大西洋沿岸のニューファンドランド・ラブラドール州が98%、ノヴァスコシア州では94.7%、プリンスエドワード・アイランド州では94.1%と極めて高く、平原州のマニトバ州は82.1%、サスカチュワン州は89.1%、アルバータ州は82.6%、移民が集中するオンタリオ州とブリティッシュ・コロンビア州ではそれぞれ77.6%と79%となっている。カナダで唯一のフランス語圏ケベック州ではアングロフォンの比率は9.7%と極めて低く、フランコフォン人口が約3分の1を占めるニューブランズウィック州では68.7%となっている。また、北方の三準州では、ユーコン準州とノースウェスト準州はそれぞれ90.7%と87.7%と高く、イヌイットが多いヌナヴト準州では46.7%と低い。(矢頭典枝)

イエズス会
1534年にフランスで結成されたカトリック教会の男子修道士たちの組織で、宣教活動と神学、ラテン語、古典文学、哲学などの高等教育を行う学校設立を目的とした。北米大陸においては毛皮交易などフランスと関わりを持っていた先住民にキリスト教を広めた者たちの中心的存在であった。フランスから北米に渡って来た18人のイエズス会修道士たちは、1639~49年に現在のオンタリオ州、ヒューロン湖付近でヒューロン族を相手に宣教活動を行った。そして対立するイロコイ族に同盟者とみなされ、1642年~49年にかけて8人が殺害された。彼ら殉教者8人は「カナダの守護聖人」とされる。『レラシオン』は、パリのイエズス会本部との間でやり取りされた書簡をまとめて1632~1672年に発行された出版物で、17世紀のヌーヴェル・フランスにおけるイエズス会の活動記録である。(友武栄理子)

イエローナイフ(Yellowknife)
ノースウエスト準州の準州都。世界で10番目に大きなグレートスレーブ湖の湖畔に位置する。名称は周辺に住んでいた先住民族イエローナイフに由来する。2026年現在の人口は2万弱で、同準州の政治経済の中心地。19世紀のゴールドラッシュによって人口が増え始め、1930年代にはカナダ西部極北圏の中心的な町となる。金鉱開発で栄え、1967年に準州都になる。2004年には最後の金鉱が閉鎖されたが、1991年に見つかったダイヤモンドの鉱業事業が順調に伸び、繁栄している。同市は西部極北圏の入り口であり、オーロラ観光の場所としても有名である。(岸上伸啓)

イカルイト(Iqaluit)
カナダ北東部、ヌナヴト準州の小都市で同準州の州都。人口7,740人(2016年)。バフィン島南部のフロビッシャー湾の湾奥部に位置し、かつてはこの都市の名称にもフロビッシャーベイの名が用いられていた。住民の多くはイヌイットで、イカルイトはイヌクティトゥト語で「魚のいる場所」を意味する。1999年のヌナヴト準州成立にあたって、ここが同準州の州都と定められたことから、以後の発展が著しい。準州内のいくつかの小集落への定期航空路に加えて、オタワ・モントリオール・イエローナイフ(ノースウエスト準州の州都)などとの間にも定期航空路が開かれている。(山田 誠)

イヌイット(Inuit)
カナダの極北地方に住む先住民。かつては「エスキモー」として呼ばれていたが、それがクリーやオジブワの言葉で「生肉を喰らう人」という蔑称であるとしてカナダでは1970年代より母語で「人間たち」を意味する「イヌイット」を公式の民族名称として使用するようになった。彼らは1982年憲法で、インディアン(ファースト・ネーションズ)とメティスとともにカナダの先住民として承認されている。現在の人口は約6.5万人で、そのうちのほぼ70%がヌナヴト準州、ノースウエスト準州、ヌナヴィク(ケベック州極北部)とラブラドルのカナダ極北地域に住んでいる。その他の約30%はオタワやモントリオール、エドモントンなどに移動し、カナダ南部地域で生活を営んでいる。極北地域に住む人々は現代的な技術や道具を受容しつつも、狩猟や漁労に従事し、独特の世界観を保持している。彼らは滑石彫刻や版画を制作する極北のアーティストとして国際的な評価を得ている。また、イヌイットの伝統文化として氷雪の家イグルーや皮舟のカヤック、防寒具アノラックもよく知られている。(岸上伸啓)

イマージョン・プログラム
語学以外の教科の授業を、母語以外の言語を媒体として行う教育方式。1965年9月、ケベック州モントリオール郊外の英語圏サン・ランベール校で、フランス語イマージョン・プログラムが26名の幼稚園児クラスで実験的に実施された。この成功が報告されると同プログラムはカナダ全土に広がり、今日ではカナダの初等・中等教育機関における登録率は1割以上となっている。プログラムの形態は、州や地域社会の状況によって様々であるが、早期イマージョンが主流である。幼稚園年長あるいは小学校1年生から開始され、2年生までは英語を除く全教科の授業をフランス語で、3年生からは一部の教科は英語で、最終学年ではフランス語と英語による授業がほぼ半分ずつ行われる。能力の到達度については、多くの生徒は中等教育終了時にフランス語の実践的コミュニケーション能力を十分に習得し、英語も通常プログラムの生徒と同等レベルに習得し、学力も年齢相当に身につける。かつては教育に関心が高い英語母語話者が中心でありエリート教育とも言われたが、今日は児童・生徒の母語は多様である。非常に人気が高いが、教員不足のためプログラム拡大は困難となっている。(時田朋子)

移民政策・移民法
1871年の国勢調査では360万人であったカナダの総人口は、100年後、2,150万人となった。この間にほぼ930万人が移民として到来したのである。この数字だけからでも、カナダにとって移民政策がいかに重要であったかがわかる。カナダの移民政策はカナダの人口政策を顕著に表している。つまり、歴史的に政府は国家としての種々の目標を達成するために移民法を制定してきたのである。19世紀の間は、カナダへの移民の入国は大体において無制限であった。ことに1896年以降、移民大臣クリフォード・シフトンが中心になって移民奨励策が推進された。犯罪者および不道徳な階級の人々、乞食および公共の負担となる可能性のある貧困者、病人、契約労働者の入国は禁止されており、1885年には、人頭税を課すことで中国人の入国を制限する中国人移民法が制定されるなど、制限はあった。しかし、港を通らず陸路入国する者は対象外であった例にみられるように、制限は厳格ではなかった。1911年の新移民法では、上記の制限が厳格にされると同時に、カナダにとって「望ましくない者」??カナダの慣習および理想に同化しない者、失業者やカナダの生活水準の低下をもたらす者??の入国が禁止された。アジアからの移民もこのカテゴリーに含まれていたと考えられ、「白人のカナダ」の維持を目指す移民政策であったことがわかる。この政策は、1967年にいわゆる「ポイント制」??移民の年齢、学歴、公用語能力、技能、カナダにおける特定職種への需要などを点数化し、点数の高い移民に入国を優先的に認める??を取り入れた移民法が導入されるまで続くのである。1976年に改正され1978年に施行された移民法を基盤にした移民政策では、専門的技能や資本をもつ、いわゆる「経済移民」に加え、人道主義に基づく難民保護と家族の結合を重視した「家族移民」が優先的に入国を認められることになった。これによって「目に見えるマイノリティ(ヴィジブル・マイノリティ、visible minority)」の増加が顕著になるのである。2002年には移民・難民保護法(IRPA)が導入され、また2008年にはカナダ経験移民への応募が開始された。ここには、国境管理を厳重にする一方で、カナダに経済的な貢献をする人材を確保しようとのカナダ政府の意図が明らかである。2016年の国勢調査によると、カナダ人口は3,500万人を超え、2011年の人口約3,380万人からの増加の3分の2は、移民の受け入れによる。この数字が示すカナダ社会の状況に対応する移民政策の今後については議論が続いている。(飯野正子)

医療保障制度
カナダの医療保障は普遍主義原則に基づく。全市民(永住資格をもつ者も含む)は窓口負担なしで「医学上必要な」サービスを受けられる。各州は独自の健康保険を運営するが、カナダ保健法の下で一定の基準(普遍性、包括性、利用可能性、随伴可能性、公共性)を満たすことによって連邦政府から財政補助を受け、そのことによって全国的に同等均質なサービス提供が確保されている。カナダの場合、健康保険といっても、一部の州で限定的に保険料が課せられているだけで、財源のほとんどは税である。しかしイギリスのように医療サービスの提供は国営化されておらず、病院は非営利団体経営であり、医師のほとんどは自営の開業医である。このようなカナダ医療保障は、分権志向の強いカナダ連邦制のなかで数少ない求心力となっており、カナダ国民のアイデンティティといわれることがある。(新川敏光)

イロコワ イロコイ(Iroquois)
イロコワ、イロクォイ、五部族あるいは六部族連合とも呼ばれる。米国のニューヨーク州北部に独自の保留地を持つモホーク、オナイダ、オノンダーガ、カユーガ、セネカの五部族と、のちに加わったタスカローラをふくむ六部族の政治的連合体で、イロコイ語を用い、ロングレイクの教えを共有の信条としている。カナダにも多数のイロコイが居住し、とくにモントリオール近郊のカーナワケとカネサタケと、米加国境に跨がるアクウェサネスのモホークの保留地が最近脚光を浴びた。1990年にカネサタケ(人口2,064人)では係争地へのゴルフ場拡張工事に反対して警官隊とわたりあい、これに呼応してカーナワケ(6,796人)では幹線道路と橋を封鎖してケベック州兵とカナダ軍と銃撃戦を展開し、世界の耳目を聳動した。結着には十年を要した。(富田虎男)

インターカルチャリズム(Interculturalism)
フランス語圏ケベック州で登場してきた異文化共生の考え方。ケベックはカナダのなかできわめて個性豊かな社会を形成している。かつての同質性の強いフランス系社会から、現代では移民・移民を積極的にうけいれる多様性を誇る社会へと変質しつつある。その一方で、異文化間のあつれきも顕在化している。ケベックは、移民の流入などに伴う文化的異質性とどのように調和をはかるべきか。そのヒントとなる独自の考え方がインターカルチュラリズムである。現代ケベック社会の基本構造として、フランス系独自の歴史・文化を形成してきた「創設のマジョリテイ」が存在する。他方、移民に由来する異質で少数派の文化集団、すなわち「文化的・民族的マイノリティ」も存在する。そこから、インターカルチュラリズムの目標とは、次の二つに置かれる。一つは、上述の「マジョリティ」と「マイノリティ」の両者間で「折り合い」をつけること。今一つは、「折り合い」のつけ方として、フランス系のアイデンティティ(言語・伝統・制度など)を絶対的機軸とすること。すなわちイターカルチュラリズムとは、中心としてのフランコフォンを堅持したうえで、「マイノリティ」文化の分断化を避け、異文化間の親交・促進を目指す理念のことを指す。(竹中豊)

インディアン
ファースト・ネーションズ参照。

インディアン寄宿舎学校
インディアン寄宿舎学校は、先住民族の言語・文化を排除し、いわば「インディアンをその子ども時代に殺す(to kill the Indian in the child)」ことを目的とした学校であった。その多くがカナダ政府の資金提供のもと、宗教団体が学校の運営にあたった。1831年より1996年までの間におよそ130校が設置され、15万人が就学した。1969年、連邦インディアン北方開発省は寄宿舎学校の運営を直轄して宗教団体を学校運営から排除した。1986年までに殆どの寄宿舎学校を閉鎖し、1996年、最後の1校を閉鎖した。
 教育内容は、主に読み、書き、算数、宗教、職業訓練であった。教授言語は英語または仏語であった。生徒が母語を話すことは厳しく禁じられ、母語を話した者は激しい体罰を受けた。教員の多くは教員免許をもっていなかった。元生徒の多くが、校長や教員らから体罰や性的虐待を受けたことが知られている。衛生環境や食事も劣悪なところが多く、判明しているだけでも6000人が亡くなった。2021年には元インディアン寄宿舎学校3校の跡地より、1000体をこえる遺骨が発見された。生徒の多くは卒業後、先住民社会に適応することも、労働市場に参画することも、いずれも困難な状況に陥った。母語や伝統文化の喪失のみならず、虐待の世代間連鎖など、元生徒やその家族、地域社会の多くが、世代を超えて、深刻なダメージに苦しむこととなった。
 1998年1月8日、インディアン北方開発大臣が寄宿舎学校における体罰や性的虐待等に対する公式謝罪をし、元生徒やその家族、地域社会に癒しの場をつくるための先住民族ヒーリング財団を設置した。これを機に寄宿舎学校時代の被害の損害賠償を求めた裁判が急増した。2007年には元生徒への「賠償金」の支払い等を定めた「インディアン寄宿舎学校解決協定」がカナダ政府と原告団、先住民族団体、宗教団体との間で締結された。2008年6月11日、スティーヴン・ハーパー首相が寄宿舎学校元生徒に対し公式謝罪を行い、真実究明和解委員会を設置した。2015年12月、同委員会は最終報告書を発表し、94箇条の勧告を発した。なお、ニューファンドランド・ラブラドール州に設置された寄宿舎学校の生徒は、補償の対象外であったが、2017年11月24日、ジャスティン・トルドー首相が、同州の寄宿舎学校元生徒に公式謝罪をした。(広瀬健一郎)

インディアン寄宿舎学校元生徒への公式謝罪
2008年6月10日、スティーヴン・ハーパー首相は、連邦下院議会において、インディアン寄宿舎学校の元生徒に対し、この学校制度の目的が「インディアンをその子ども時代に抹殺すること」であり、強制的に子どもたちを家庭から引き離し、寄宿舎に就学させたことは誤りであったこと、寄宿舎学校において児童虐待が行われていたこと、寄宿舎学校の経営は不適切であったこと等を認め、謝罪した。なお、ニューファンドランド・ラブラドール州に設置された寄宿舎学校の元生徒は補償の対象外であったが、2017年11月24日、ジャスティン・トルドー首相が、同州の元生徒に公式謝罪をした。
 1991年に設置された先住民族問題政府調査委員会は、インディアン寄宿舎学校問題を専門に扱う政府調査委員会を設置することや関係者による謝罪等を連邦政府に勧告した。これを受け、ファースト・ネーションズ議会等とインディアン北方開発省との協議が行われ、1998年1月、ジェーン・スチュワート大臣が、寄宿舎学校における体罰や性的虐待に対して公式謝罪を行い、被害者の癒しを目的とする「先住民族ヒーリング財団」を設置した。
スチュワート大臣の謝罪以後、学校を運営していた宗教団体や元教職員らを訴える裁判が急増し、連邦政府や宗教団体の賠償額が膨らみ、破産しかねない宗教団体も現れた。そこで、連邦政府は2000年、インディアン寄宿舎学校問題解決庁を設置して、事態の収拾に乗り出した。2005年5月、カナダ政府とファースト・ネーションズ議会との間で、先住民族に対し謝罪すること、元生徒全員に賠償金を支払うこと、真実究明・和解委員会の設置を検討すること等で合意した。これを踏まえて、2006年4月、ファースト・ネーションズ議会と原告団、カナダ政府との間で、インディアン寄宿舎学校問題解決協定が成立した。
 ところが、この年、ハーパーが政権をとると、連邦政府は、元生徒に謝罪しない方針を表明した。一方、連邦下院議会では、クリー民族出身議員の動議で、2007年5月、元生徒への謝罪文を決議した。この後、連邦政府も謝罪する方針に転じた。ファースト・ネーションズ議会は「謝罪文原稿」を政府におくり、謝罪文の内容について先住民族と事前に協議することを求めた。「インディアンをその子ども時代に抹殺すること」という文言は、ファースト・ネーションズ議会の要望を受けて入った文言である。(広瀬健一郎)

インニス,H.アダムス(Innis, Harold Adams 1894-1952)
カナダ最大の国民主義的史学者で総帥と称される。セント・ローレンス河を中軸とする水系を大動脈として、近代カナダ経済が形成され伸展したと、カナダ独特の経済発展のあり方を大胆かつ創造的に主張したことで知られている。経済史学者としての彼を中心とするローレンシアン学派、ステープル理論の立場をとるトロント学派を牽引した。
カナダ経済地理とカナダ経済史・経営史との相関関係、商品流通過程と市場形成との相関関係を史的に追跡した。交通史、毛皮通商史、漁業史、木材工業史、小麦栽培史、鉱山業史、パルプ・製紙工業史など精力的に研究するにとどまらず、晩年には、文明史家、文明批評家、大学管理者、学会指導者、学識経験者として多方面で活躍した。カナダ人として、トロント大学初代経済学部長にも就任している。カナダ経済発展、特に主要産業発展史の編著者、カナダ経済史史料集の編纂などでも有名である。編著書29冊、翻訳書1冊、論文110篇、書評107篇、研究ノートなど、未公表遺稿を含め厖大な業績がある。(杉本公彦)

ヴァーリー,フレデリック(Varley, Frederick 1881-1969)
英国、シェフィールド出身の画家で、グループ・オブ・セブンの創立メンバー。英国とオランダで美術教育を受ける。同郷の画家アーサー・リズマーの勧めで、1912年カナダに移住した。第1次世界大戦時、従軍画家としてヨーロッパに派遣され、制作した戦争絵画でカナダでの地位を確立した。グループの他のメンバーと異なり、ヴァーリーは本来人物画家であり、肖像画家を志すがその常套的でない手法で成功しなかった。1926年、教師の職を得てヴァンクーヴァーに移る。以降の10年にもっとも重要な風景画を含め水彩、油彩で多くの作品を制作した。神秘主義的傾向を持ち、独特の色使いで、作品に情緒的、精神的意味を醸し出させている。(伊藤美智子)

ヴァンクーヴァー(Vancouver)
ブリティシュ・コロンビア(British Columbia)州南西部にある都市。人口約66万人。周辺都市をふくめたヴァンクーヴァー都市圏の人口は260万人(2021年)で、カナダ第3位の規模をもつ。1887年に大陸横断鉄道(Canadian Pacific Railway)の西海岸側の終着駅となり、その後都市として発達。太平洋に面した港湾都市として、ヴァンクーヴァーは19世紀から中国系、日系などのアジア系移民の住む所となっていたが、1997年の香港返還問題を契機に近年は香港からの富裕な移民を多く受け入れている。2016年現在、中国系移民人口は約40万人(約30%)、アジア系全体では約90万人(約43%)をしめる。(森川眞規雄)

ヴァンクーヴァー朝日(Vancouver Asahi Baseball Club)
1914年に結成された日系カナダ人のアマチュア野球チーム。人種差別と排斥の時期に、日系人純血主義を掲げて白人リーグで健闘、数度の優勝も果たした。体格では劣りながらも俊敏性を生かした攻守が人気を集め、またフェアに徹したプレイぶりには、白人ファンも賞賛を惜しまなかった。太平洋戦争による日系人強制移住とともにチームは消滅したが、誰もが言う「あの苦しい時代」に、「朝日」は民族の誇りと団結の拠り所だった。2003年カナダ野球殿堂入り、2005年ブリティッシュ・コロンビア州スポーツ殿堂入りは、「朝日」の果たした役割が認められたものと言えよう。(後藤紀夫)

ヴァンクーヴァー島
ブリティッシュ・コロンビア州に属するヴァンクーヴァー島は、面積31,285平方キロメートルで南北に細長い島である。気候は、カナダでもっとも温暖な地域で、島の南端部に位置するブリティッシュ・コロンビア州の州都、ヴィクトリアは、1月でも通常、摂氏0度を下回ることはほとんどない。島は、2,000メートルを超える山や多くの森林があり、自然豊かで、また先住民の歴史や文化がいたる所に残っている。東海岸に海上交通の要衝のナナイモ、そして島北部の東海岸には、サーモン・フィッシングで有名な町キャンベル・リバーがある。また、西海岸に位置するトフィーノから先住民のヌーチャヌルス(ヌーチャーヌヒ)の住むユクールレットまでの約100キロメートルのロングビーチは美しく人気がある。(岩﨑利彦)

ヴァン・デル・ピート判決(R. v. Van der Peet,[1996] 2 SCR 507)
1982年憲法35条1項が保障する先住民族の権利の根拠や認定の基準を示した最高裁判決。先住民族の権利の根拠は、ヨーロッパ人が北アメリカに到着する前から、先住民族がすでにここに存在し、数世紀の間行ってきたように、その土地にあるコミュニティで生活し、独自の慣行、伝統および文化に参加していたことにある。そして、先住民族の権利を保障する35条1項は、第1に、こうした事実を憲法で承認する手段であり、第2に、先住民族の以前からの土地の占有と、カナダの領土に対する国王の主権と調和させる手段である。これらの目的を達成するために、35条1項で保障される権利であるかどうかを決定する必要がある。裁判所は、先住民族の権利の認定にあたって、先住民族の視点にセンシティブであることが不可欠であるが、その視点は、カナダの法構造と憲法構造が認識可能な文言で作られなければならない。唯一の公平かつ公正な調和とは、コモン・ローの視点を考慮すると同時に、先住民族の視点も等しく考慮に入れるということであり、真の調和とは、等しく、それぞれの視点に重みを置くことである。
 裁判所が35条1項で保障される権利であると認定するためには、第1に、当該行為が権利を主張している先住民族集団の独自の文化にとって、ヨーロッパ人と接触する前から不可欠な慣行、慣習または伝統でなければならない。ヨーロッパ人の到着による影響によって生じた慣行、慣習または伝統は不可欠とはいえない。第2に、先住民族の独自の文化にとって不可欠な慣行、慣習または伝統が今日でも継続していることが必要である。ただし、それらが一時的に中断していても、立証の妨げになるものではない。(守谷堅輔)

ヴァン・ホーン,ウィリアム(Van Horne, William Cornelius 1843-1915)
カナダ太平洋鉄道会社(CPR)2代目社長。アメリカ・イリノイ州出身。法律家であり、西部開拓民でもあった父と、同じく西部開拓民一家出身の母を両親に、5人兄弟(弟2人、妹2人)の長男として生まれる。11歳の時に父親をコレラで亡くし、一家を支えるために様々な仕事をすることになる。なかでも彼の才能が発揮されたのが、当時の革新的産業であった鉄道事業においてであった。鉄道建設から経営難の鉄道会社の再建まで、アメリカ鉄道業界のあらゆる分野で高い成果を上げていた彼にCPRが白羽の矢を立てたのは、新会社発足1年目の1881年のことであった。J.J.ヒルの熱心な誘いを受けて1882年1月、ヴァン・ホーンは総支配人(general manager)に着任する。ここからCPRの建設は加速度的に進み、政府との建設期限より約5年も早い1885年11月に最後の犬釘を打つ事になる。その後、1888年にCPR2代目社長となった彼は、海運業、ホテル業、観光業など様々な事業を展開し、今日の多角化したCPRの事業形態の原型を築き上げていくことになる。また彼は優れた芸術家であり、美術品蒐集家でもあった。特に日本の絵画や陶磁器への造詣は深く、明治期に開催された第5回内国勧業博覧会へのCPRの出展は彼の強い意向によるものであった。(宇都宮浩司)

VIA
自動車交通の発展とともに、カナダの鉄道はいずれも経営に苦しむようになって、国営のカナディアン・ナショナル鉄道(Canadian National Railway[CN])と民営のカナディアン・パシフィック鉄道(Canadian Pacific Railway[CP])の両鉄道の旅客輸送部門を共同の別会社に移して運営されることになった。この旅客輸送サービスを行う会社として設立されたのがVIA Rail Canada Inc.であった。VIAはもともとCNの子会社であったが、1978年に国営会社(Crown Corporation)として分離独立し、CNとCPの両社の旅客輸送サービスを引き受け、東海岸から西海岸までをカバーする2万キロ超の営業距離を有する旅客輸送会社となった。(加勢田博)

ヴィクトリア(Victoria)
ブリティッシュ・コロンビア州の州都。人口約9万2千で、都市圏人口は約40万である(2021年)。ヴァンクーヴァー島南東端、ファンデフーカ海峡東口の港市で、合衆国・極東へパルプ・セメントなどを輸出。島の物質集散地であるが、温和な気候に恵まれて、住宅・保養都市の性格が強く、年金生活者も多い。英国を思わせる伝統的町並みに観光客も訪れる。1843年ハドソン湾会社の毛皮取引所に始まり、州成立以前の植民地時代からその首都であった。(島田正彦)

ヴィクトリア大学(University of Victoria)
1903年、モントリオールのマッギル大学の分校として創設されたヴィクトリア・カレッジが、1963年に4年制大学に昇格したのがヴィクトリア大学である。2万2000人の学生数と900人の学部教員を誇り(2021年)、8つの学部(商学部、教育学部、工学部、芸術学部、理学部、人文学部、社会科学部、法学部)、大学院に加え、生涯教育と医学系の特別コース(division)を擁する。キャンパスには学生が運営するパブ(Felicita’s)があり、教員と学生の交流の場となっている。卒業生にはカナダの著名な舞台監督のグリニス・レイション(Glynis Leyshon)、芸術・映像監督のメルセデス・バティス=ベネット(Mercedes Batiz-Benet)らがいる。(立川陽仁)

ヴィジブル・マイノリティ(Visible Minorities)
 カナダでは、非白人という意味で、ヴィジブル・マイノリティが用いられる。ヴィジブル・マイノリティは雇用均等法 (the Employment Equity Act)で「先住民族を除く、非白人系人種または肌の色が白くない人々 (persons, other than Aboriginal people, who are non-Caucasian in race or non-white in colour)」と定義され、カナダ国勢調査では、主に南アジア系、中国系、黒人、フィリピン系、ラテン・アメリカ系、アラブ系、東南アジア系、西アジア、韓国系、日系を指す。2016年の国勢調査では、非白人系の人口は約767万4,600人で、全人口の22.3%に当たる。2011年の調査では、ヴィジブル・マイノリティの労働年齢の人口は19.6%であったのに対して、2031年までには全人口の34.7%~39.9%まで増加すると見込んでいる。また、ヴィジブル・マイノリティは大都市に集中する傾向が強く、同調査ではトロント、バンクーバー、カルガリーなどの都市部では、比率が40%を超えると予測している。(下村雄紀)

ウイスキー(Whisky)
カナディアン・ウイスキーは世界五大ウイスキーのひとつである。18世紀後半、イギリスからの移住者が製造を始め、アメリカの禁酒法により急成長を遂げた。現在、カナダのウイスキー・メーカーは十数社にまで減少したが、シーグラム、ハイラム・ウォーカーなどの大手が含まれている。カナディアン・ウイスキーは、ライ麦を主原料にした「フレーバリング・ウイスキー」ととうもろこしを主原料にした「ベース・ウイスキー」をブレンドしてつくるブレンデッド・ウイスキーであり、風味が軽く、カクテルにも用いられる。代表的な銘柄として、カナディアン・クラブなどが有名である。(宇都宮浩司)

ウィスラー(Whistler)
ブリティッシュ・コロンビア州の西部に位置し、人口13948人(2020)のリゾート都市。1960年代より計画的に開発された北米最大の山岳リゾート地として、ウィスラービレッジ、アッパービレッジ(ブラッコム)が有名で、冬にはスキー(ヘリスキー)、夏にはマウンテンバイクやハイキングを楽しもうと、毎年200万人以上が訪れる。2010年に開催されたヴァンクーヴァー冬季オリンピックでは、スキージャンプやノルディック複合、クロスカントリー、ボブスレーなどの競技がウィスラーの会場で開催された。(杉本公彦)

ウィニペグ(Winnipeg)
マニトバ州の州都ウィニペグは、北緯50度、西経96度(ウィニペグの東方、オンタリオ州との州境に近い地点に「西経96°48′35″」との標示があり、ここがカナダの経度上の中心である。南北では米国との国境に近く、東西ではカナダのほぼ中央に位置する。人口は約75万人で(2021年)、マニトバ州の人口の半分以上がウィニペグに居住している。米国から北流してウィニペグ湖を経てハドソン湾に至るレッド川とサスカチュワン州から東流してくるアッシニボイン川との合流点界隈が市の中心地で、風光明媚、西部カナダ開拓の玄関口として発展した。
 平原3州で収穫される穀物の集散地であり、カナダ国有鉄道(CN)とカナダ太平洋鉄道(CPR)が市街を縦横に走っている。旧カナダ小麦局をはじめ農務省の穀物関係の諸施設があり、かつては日本総領事館も存在した。左手に小麦穂を持って州議事堂のドーム上に立っているゴールデン・ボーイ像は市民のアイドルである。
 農学校を前身とするマニトバ大学は、南下して米国に至るペンビナ・ハイウェイとレッド川との間に広大なキャンパスを有し、農学部をはじめ20を越える学部やカレッジが存在する。市内中央にはウィニペグ大学やマニトバ大学の医学部・付属病院が存在する。
 18世紀中頃に毛皮の交易所が建設され、レッド川沿いに居留地が開かれて以来、英仏系のほかに東欧系移民も加わり、また第二次世界大戦後はアジア・中東・中米各地からの移民も増えており、日系人も1,000人を越える。カナダの多文化主義政策の最もうまく進行している地域とされ、8月上~中旬に市内全域で開催されるフォークロラマは圧巻で、ウィニペグに本部のあるマニトバ日系人協会が中心となって参加している。ウィニペグ・ロイヤル・バレー、人類博物館、プラネタリウム、アート・ギャラリー等文化の薫りも高い。(草野毅徳)マニトバ州の州都ウィニペグは、北緯50度、西経96度(ウィニペグの東方、オンタリオ州との州境に近い地点に「西経96°48′35″」との標示があり、ここがカナダの経度上の中心である。南北では米国との国境に近く、東西ではカナダのほぼ中央に位置する。人口は約75万人で(2021年)、マニトバ州の人口の半分以上がウィニペグに居住している。米国から北流してウィニペグ湖を経てハドソン湾に至るレッド川とサスカチュワン州から東流してくるアッシニボイン川との合流点界隈が市の中心地で、風光明媚、西部カナダ開拓の玄関口として発展した。
 平原3州で収穫される穀物の集散地であり、カナダ国有鉄道(CN)とカナダ太平洋鉄道(CPR)が市街を縦横に走っている。旧カナダ小麦局をはじめ農務省の穀物関係の諸施設があり、かつては日本総領事館も存在した。左手に小麦穂を持って州議事堂のドーム上に立っているゴールデン・ボーイ像は市民のアイドルである。
 農学校を前身とするマニトバ大学は、南下して米国に至るペンビナ・ハイウェイとレッド川との間に広大なキャンパスを有し、農学部をはじめ20を越える学部やカレッジが存在する。市内中央にはウィニペグ大学やマニトバ大学の医学部・付属病院が存在する。
 18世紀中頃に毛皮の交易所が建設され、レッド川沿いに居留地が開かれて以来、英仏系のほかに東欧系移民も加わり、また第二次世界大戦後はアジア・中東・中米各地からの移民も増えており、日系人も1,000人を越える。カナダの多文化主義政策の最もうまく進行している地域とされ、8月上~中旬に市内全域で開催されるフォークロラマは圧巻で、ウィニペグに本部のあるマニトバ日系人協会が中心となって参加している。ウィニペグ・ロイヤル・バレー、人類博物館、プラネタリウム、アート・ギャラリー等文化の薫りも高い。(草野毅徳)

ウィニペグ大学(University of Winnipeg)
マニトバ州都ウィニペグに多くのキャンパスを構える州立大学である。前身のマニトバ・カレッジとウェスリー・カレッジが合併し1938年に発足したユナイテッド・カレッジが起源である。1967年に認可を受け、名称を現在のウィニペグ大学となる。カナダの大学では、初めてエスニシティに関係なくすべての学部生が先住民社会・文化に関する科目を履修することを必須にした大学でもある。歴史的に学士課程に機軸をおいているが、専門大学院をはじめとした大学院教育の拡充も進めており、特に先住民社会の開発を専門にする修士課程はカナダの中でも特徴があるものとなっている。キャンパスがダウンタウンに立地する強みを生かし、キャンパスの新設をはじめウィニペグの都市計画に積極的に大学が関わるという社会連携にも取り組んでいる。(山田亨)

ヴィニョー,ジル(Vigneault, Gilles 1928- )
ナタシュカンという片田舎で、漁師の父と小学校教師の母の間に生まれた。祖先はアカディアンの血を引いている。F.ルクレールと並んでケベック人から最も愛されている歌手、詩人、作家であり、他のフランス語圏諸地域や英語圏カナダでもその名は知られている。「主権派」の運動家としても名高い。「私の国は国ではない、それは冬だ、、、」という歌詞で有名な「わたしの国」Mon Paysなど多くのヒット曲がある。「国の人々」Gens du Paysは、ケベック州で最も盛大に祝われる「サン・ジャン」祭り に際して作られた歌だが、誕生日などで祝福される人の名前をあてはめた替え歌にされて、今日でも州内で広く愛唱されている。(小畑精和)

ウェスタン・オンタリオ大学(University of Western Ontario)
オンタリオ州ロンドンにある通称Western Universityの州立大学。1878年にIsaac Hellmuth司教によって、文学、神学、法学、医学部のみで創立された。現在、12学部と3提携校を保有し、128カ国から5800人以上の留学生を含む約40000人の学生が学んでいる。88種の広範な大学院プログラムを提供するにとどまらず、1998年に北米初のビジネススクールを香港に開き、グローバル化にも熱心。1951年に発見された世界初の癌治療法cobalt bomb(コバルト爆弾)や、最近のHIVワクチン開発など、医学の進歩に貢献する大学としても有名である。(杉本喜美子)

ウェストミンスター憲章
 「バルフォア報告書」に法的根拠を与えるべく、1931年にイギリス議会にて制定された憲章。1926年開催された帝国会議にてイギリスと6つの自治領(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、ニューファンドランド、アイルランド自由国)の平等、そして帝国の枠内での政治・外交的権利の拡大といった自治領の分権化が明文化された。しかし、実際には植民地に対するイギリス法の優越を規定する植民地法有効化法といったイギリスと自治領の地位の平等を主張するバルフォア報告書と相反する内容の法が残存していた。こうした状況を是正するために、1930年帝国会議での討議を経て、翌1931年12月にイギリス議会は、ウェストミンスター憲章を可決し、イギリスと自治領の対等な地位を法的に承認した。しかしながら、この後も自治領によるイギリスへの法的従属は一部継続し、カナダについては、1982年の憲法制定までイギリスの議会制定法である英領北アメリカ法が事実上の憲法として機能し続けた。ウェストミンスター憲章を通して、イギリスと諸自治領は、イギリスを頂点とする垂直的関係から水平的関係へと変容を遂げる一方、帝国は解体へとは進まず、むしろ発言権を強化した自治領がイギリスとの協力関係を深めることで、その紐帯はますます密接なものとなっていた。(福士純)

ウェブスター・アシュバートン条約(1842年)(Webster-Ashburton Treaty)
1842年に結ばれた、ニュー・ブランズウィック州とアメリカ合衆国メイン州との境界を画定させた条約。交渉に携わった人物の名にちなんだ名称であり、ワシントン条約ともいわれる。北アメリカでは1763年のパリ条約によってイギリスの覇権が確立し、イギリス国王布告によって各植民地の境界が示されたものの、それがどこをさすのかは不明確なままであった。1780年代になるとセントジョン川上流地方にヨーロッパ系入植者が定住を始めるが、その時点では帰属がはっきりしなかった。この地域は、イギリスにとっては交通路として、アメリカ合衆国にとっては森林資源が豊富なことで、それぞれ譲れない場所であった。そこで、しばしばアルーストゥーク戦争とよばれるように、イギリスとアメリカ合衆国は戦争直前まで対立を深め、たとえば合衆国側には現在も都市名に残るケント砦(フォート・ケント)などが築かれた。結局は戦争には至らず、本条約によってニュー・ブランズウィック州北西部とメイン州北部の境界はセントジョン川に画定された。そして、すでにこの地に住み始めていた、おもにフランス系の入植者はアメリカ合衆国とのちのカナダとなるイギリス領植民地とにわかれて帰属することになった。(大石太郎)

ウッドコック,ジョージ(Woodcock, George 1912-1995)
ジョージ・ウッドコックはウィニペグに生まれ、英国で教育を受けて1949年に帰国、主にブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)で教鞭をとったが1963年以降は編集・著作活動に専念。50冊以上の著書をもち、その範囲は歴史・政治・社会批評・哲学・芸術・詩・演劇・伝記・文芸批評・旅行記等に及ぶ。一思想的にはアナーキスト、文学の面では批評誌Canadian Literatureを創始、またハックスレー、マクレナン等、内外の作家論も多い。(渡辺 昇)

ウルスラ会(聖ウルスラ修道会)
1535年にイタリアで結成されたカトリック教会の女子修道会の名称である。フランスのトゥールの聖ウルスラ修道院のマリー・ド・レンカルナシオンは1639年に宣教のためにヌーヴェル・フランスに渡り、ケベック市に修道院を建設した。フランス人の開拓移民や先住民の子供達の教育を34年間にわたり献身的に行い、北米で最初の女子教育専門の施設を開いた功績で「カナダ建国の母」とされる。ケベック旧市街、市庁舎の裏手にある聖ウルスラ会の修道院ウルスリンヌ教会には美しい聖堂があり、隣接の博物館には高度な技術の教会刺繍が施された重厚な祭服や装飾品、教材や生活用品が展示されている。また、日本においては1936年にケベック市からの3名の修道女が仙台市に聖ウルスラ会修道院を創立した。(友武栄理子)

英帝国経済会議(British Empire Economic Conference)
1929年以降の世界恐慌に英帝国内の経済統合を図ることで対処すべく、1932年7月から約一か月間、イギリス本国、ドミニオン、植民地の代表をオタワに招いて開催された会議。この会議の成果として、オタワ協定と呼ばれる英帝国特恵関税制度が確立された。しかしながら、オタワ協定は英帝国内貿易増加に関して限定的な効果しかもたらさなかっただけでなく、植民地の経済ナショナリズムを顕在化させるなど、その理念とは対照的に英帝国の遠心化を引き起こした。さらに英帝国の関税ブロック外からの輸入品に対する関税を相対的に上昇させることによって、他国の不満を増大させる一方、世界的な保護主義の潮流を激化させる一因ともなった。(福士純)

英領北アメリカ法(British North America Act)
1867年制定の、英領北アメリカ諸植民地による連邦の形成と、その立憲機構の具体的内容を定めた法。これによりオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノヴァスコシアの4州から成るカナダ自治領が生まれた。この法律の基盤となったのは、1864年のケベック会議に参集した“建国の父祖達”による72ヵ条の決議である。この諸植民地連合案に対する各植民地の思惑は様々であったが、イギリス政府が積極的に支援し、1866年ロンドン会議を召集して具体案をまとめ、翌1867年、イギリス議会を通過して成立した。新国家カナダを発足させ、その憲法として機能した。1982年に改正権がカナダに移管された後は、「1867年憲法法」として、今日のカナダの法的原形をなしている。(江川良一/細川道久)

エヴァンス・ロバート(Evans, Robert 1942- )
1942年生まれ。ブリティッシュ・コロンビア大学経済学部名誉教授。トロント大学卒。ハーバード大学で経済学博士を取得。世界的に著名な医療経済学者。彼の研究は、カナダの政策や世界の保健医療機関に影響を与えている。主著Strained Mercy: The Economics of Canadian Health Care(Toronto: Butterworth, 1984)および共編著Why Are Some People Healthy and Others Not? Determinants of Health of Populations(New York: Aldine De Gruyter, 1994)はこの分野の名著とされる。カナダ勲章を受章。Baxter International Foundation Prize for Health Service Research他、数多くの賞を受賞している。(岩﨑利彦)

エゴヤン,アトム(Egoyan, Atom 1960- )
トロントを拠点に活動を続ける、アルメニア人の映像作家、演出家、劇作家。2歳のとき、家族と共にエジプトから、ブリティッシュ・コロムビア州ヴィクトリアに移住し、カナダ国籍を得た。トロント大学在学中から映画に携わり、1984年Next of Kinで長編劇映画監督デビュー。『エキゾチカ』(1994)が世界的にヒットを収める。『スウィート ヒアアフター』(1997)はカンヌ国際映画祭で審査員グラン・プリを獲得。エゴヤンは合衆国のアカデミー賞の監督賞、最優秀脚本賞候補となった。カナダ資本による劇映画で同賞候補に上がった、初のカナダ人物となった。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』(1996年初演)などのオペラ演出や、ヴィデオ・インスタレーションも多数手がける。劇映画の代表作は、その他に『アララトの聖母』(2002)などがある。(馬場広信)

エスニック集団
多様なエスニック集団を包摂し、世界で初めて「多文化主義」政策を打ち出した国として知られるカナダ。2016年の国勢調査に回答した人々のエスニック上の出自は250を超えている。出自に関する統計では、イングランド系18.3%、スコットランド系13.9%、フランス系13.6%、アイルランド系13.4%、ドイツ系9.6%、中国系5.1%、イタリア系4.6%、インド系4.0%、ウクライナ系4.0%、オランダ系3.2%、ポーランド系3.2%、となっている。また4.9%のカナダ人が先住民(ファースト・ネーションズ、メイティ、イヌイット)の血を引くと答えている。1867年のドミニオン・オブ・カナダ発足当時では、約350万の人口の60%強がイギリス系、30%強がフランス系であったとされる。しかし、その後、西部開拓の加速化に伴い、カナダにはドイツを中心とするヨーロッパからの移民を始め、アメリカやイギリス諸島から250万人が流入し、第1次世界大戦までにカナダの人口構成においてフランス系とイギリス系以外の人々が5分の1近くまでに増加した。そして最近のカナダにおけるエスニック上の特徴は、いわゆる「目に見えるマイノリティ(ヴィジブル・マイノリティ、visible minority)」の増加である。上記の調査ではカナダ人の22.3%が自らを「目に見えるマイノリティ」と分類しており、2011年のデータの19.1%から大幅に上昇している。英語圏の大都市、トロントとヴァンクーヴァーでは、それぞれ51.5%, 51.6%と、人口の過半数を占めるに至った。これは、カナダに入国する移民の変化??1980年題前半までの移民のトップ3はイギリス、イタリア、アメリカ合衆国であったが、2011年―2016年ではフィリピン、インド、中国の順??を反映している。しかし、地域的にみると、イギリス系カナダ人はケベック州を除く各州で人口上最大のエスニック集団であり、とくに大西洋諸州とオンタリオ州では過半数を占めている。ただし、その中にはアイルランド系やスコットランド系も含まれており、それぞれの伝統的文化や慣習をいまだに誇り高く守っている人々も多い。フランス系の80%はケベック州に住み、残りはマニトバ州、オンタリオ州、ニュー・ブランズウィック州に住む。1977年にフランス語憲章が成立したケベック州では、フランス語のみを公用語とし、フランス系カナダ人の経済的・社会的・文化的権益を守ろうとする動きが活発である。強いエスニック・アイデンティティを保持しているとしてよく例に挙げられるウクライナ系は、アルバータ州エドモントン市周辺に集中しているが、エスニック集団としてのアイデンティティ保持に必要であるとして、学校でのウクライナ語教育に力を注いできた。他のエスニック集団にも同様の傾向がみられることは、カナダの多文化政策の一つの現れであろう。(飯野正子)

エドモントン(Edmonton)
アルバータ州の中部にある同州の州都。人口約101万、都市圏人口約142万(2021年)。ロッキー山脈東麓の台地にあり、北サスカチュワン川に臨む。豊かな農牧地域の物資集散地で、北西部最大の空・陸の交通中心でもある。大穀物塔と製粉・食肉の加工・製材などがあり、近くに炭田・油田・ガス田を控えて関連工業のほか、金属・機械・化学工業もある。アルバ一夕大学、西部唯一のカトリック神学校所在地。1794年ハドソン湾会社がやや下流に建てた砦から始まるが、インディアンに破壊された。 1819年現在地に再建されて重要な毛皮取引所となり、1891年大陸横断鉄道が通じ、1905年州都となって急発展した。1912年には南岸のストラスコナを併合。川を見下ろす急崖上の州議事堂、ハドソン湾会社のエドモントン・ハウス、1871年初めて砦の外に建てられたマクドナルド・メモリアル教会など歴史的建物がある。アラスカハイウェイの起点、ジャスパー国立公園の入口。(島田正彦)

Xジェンダー
Xジェンダー(またはノンバイナリー)とは、性自認が男性と女性の二元的区分に当てはまらない人のことをいう。カナダでは各種証明書に第三の性別として「X」の選択肢が設けられ始めている。カナダでは州が発行する出生証明書が最も基本的な身分証明書であるが、出生証明書の性別表記は、出生時に医師が判断した性別が割り当てられており、出生時の性の割り当てと性自認が一致しない人には、かねてより一定の条件のもと性別の事後的変更を認めてきた。それに加え2017年7月にノースウェスト準州、12月にニューファンドランド・ラブラドール州が出生証明書の性別表示に第三の性別「X」を選択して発行することを始めた。2021年12月15日現在、オンタリオ州、ブリティッシュコロンビア州、アルバータ州、ノバスコシア州、マニトバ州、プリンスエドワードアイランド州でも第三の性別を選択して出生証明書を発行することが可能である。また運転免許証等の他の証明書でも選択可能な州もある。(本田隆浩)

エベール,アンヌ(Hebert, Anne 1916-2000)
ケベック市郊外に生まれる。詩人、小説家。1942年、初めての詩集『均衡の取れた夢想』(Les Songes en equilibre)を刊行後、詩、小説、戯曲にまたがる数多くの作品を発表する。1967年以降はパリに在住するが、常にケベックを舞台にした、時に激しい情念の渦巻く作品を描く。詩集『王の墓』(Le Tombeau des rois, 1953)、短編小説『激流』(Le Torrent, 1950)などを経て、1970年に発表された長編小説『カムラスカ』(Kamouraska) は映画化される。『シオカツオドリ』(Les Fous de Bassan,1982)はフランス文学界の栄誉であるフェミナ賞を受賞。その他、カナダ総督賞をはじめ数々の賞を受賞。二十世紀ケベック文学を代表する作家の一人。(真田桂子)

エラスムス, ジョージ(Erasmus, Georges Henry 1948- )
ノースウェスト準州フォート・ラエ生まれ。デネー民族。先住民族運動の活動家。先住民族の自決権を主張し、カナダ政府の先住民族政策に大きな影響を与えた。1976年、ノースウェスト準州インディアン協会(現、デネー・ネーション)の会長に就任。1970年代初頭にもちあがった石油パイプライン計画に対し、石油パイプライン敷設予定地にデネー民族の土地権益が存在すると主張して反対した。その結果、カナダ政府は、1974年、マッケンジー渓谷パイプライン政府調査委員会(バージャー委員会)を設置することとなった。調査の結果、様々なリスクが明らかになり、最終的に石油パイプライン計画は撤回されるとともに、土地権益交渉が始まった。1985年、最年少でファースト・ネーションズ議会全国議長となった。1990年、オカ事件がおきると、先住民族とカナダとの関係改善を政府に迫り、カナダ政府による先住民族問題政府調査委員会の設置を導いた。エラスムスは、先住民族問題政府調査委員会の共同議長を務めた。1996年の調査委員会報告書を受け、カナダ政府は「和解声明」を発し、先住民族政策に対する過去の施策に遺憾の意を示すとともに、元インディアン寄宿舎学校生徒に対する体罰等に対し謝罪した。これは後のハーパー首相による謝罪と真実和解委員会の設置につながった。1999年カナダ勲章、2009年カナダ総督ノーザン・メダルを受けた。(広瀬健一郎)

エレベーター(Elevator)
 連邦政府が発行する市民権証明書やパスポートなどの身分証明書は、かつては州発行の出生証明書の性別に基づいて発給されていたが、現在では必ずしも出生証明書と同様の性別に結びつけなくてもよく、申立書を提出することによって、州の身分証明書の性別とは、異なる性別にすることも可能である。さらに連邦政府は2017年に、パスポートの性別を男性(M)、女性(F)、ノンバイナリー(X)のいずれかで表示することを可能とすると発表し、翌2018年より実際に性別「X」が記載されたパスポートの発行が始まっている。性別「X」のパスポートを取得する場合には、性別の変更の手続きと同様、出生証明書等の性別と異なる性別を登録することも可能であり、そのため、ケベック州など現状では出生証明書に第三の性別を指定できない州の出身者であるとしても性別Xのパスポートを取得することができる。(本田隆浩)

沿岸諸州
各州参照。

オイルサンド(Oil Sands)
粘性の強い原油の油分(ビチュウメン)を含有する砂岩で、石油の揮発成分が殆どなくコールタールのような形状をしていることからタールサンドとも呼ばれている。サウジアラビア、イラン、カナダなどに大量に埋蔵されている。オイルシェールとオイルサンドの埋蔵量は石油の数倍と言われ、従来の石油の枯渇を補完するエネルギー源と見なすこともできる。しかしながら、ビチュウメンを抽出するには砂岩を大量の水とエネルギーで加熱する必要がある。と同時に、大量の産業廃棄物が発生しその処理をするために、経済的コストと共に環境的コストが膨大であるため、原油価格が高騰しない限り競争できない。カナダは石油確認埋蔵量からすると世界第3位であるが、オイルサンドの確認埋蔵量は世界第1位で、特にアルバータ州では世界最大の埋蔵量が確認されている。その北東部のアスバスカ地域では露天堀をすることができるが、石油成分を抽出するのに多量の水を天然ガスで熱処理をするため、従来の石油生産に比べ3倍ほどの温室効果ガスを排出するのみならず、多量の産業廃棄物を処理保管する必要があり、大気や水資源をはじめ環境や先住民コミュニティへの影響が多大である。カナダでのオイルサンドの開発と政策には、日本政府や民間企業も長い間、開発研究や生産に関わって来ているが、欧米の企業は次第に事業から撤退をしている。環境への影響を抑えるためにJ・トルドー政権の下、カナダ政府もオイルサンドの生産を段階的に削減し、炭化水素への依存を低下するという意向で表明している。と同時にカナダのオイルサンドの生産業界の大手は、2050年までに生産時に発生するCO2をゼロにする目標を掲げている。(水戸考道)

黄金の馬蹄(Golden Horseshoe)
オンタリオ湖のオシャワからセント・キャサリンに至る馬蹄形をした沿岸一帯の別名。この2つの都市の間には、カナダ最大の都市トロント(周辺部を含め人口約300万)のほか、ハミルトンやミシサガといった工業都市が立ち並び、カナダの商工業の中心地となっている。オンタリオ州の人口のほぼ半分がこの一帯に集中しており、いわばカナダの心臓部に当たる。五大湖からセント・ローレンス水路そして大西洋へ至る水上交通および米国のバッファローやデトロイトに延びる陸上交通網の要衝に位置しているほか、気候が温暖で農業や居住に適しているのが、発展の主な要因。立体交差する幹線道路には、これらの都市間、あるいはカナダと米国の間を往来する乗用車やトラックが列をなし、活気を感じさせる。しかし一方では、工場排水や自動車の排気ガスによる水質汚染や酸性雨も問題化している。ナイアガラの滝は、セント・キャサリンから近い。(吉田健正)

王党派 (ロイヤリスト) (Loyalists)
アメリカ独立革命において、独立に反対し、イギリス国王およびイギリスの諸制度を支持した人々。1783年にアメリカ独立戦争が終結した時、約10万人の王党派が独立した合衆国にとどまらず、イギリス本国、英領西インド諸島、そしてカナダ方面に移住した。
 沿海地方に海路で到来した約4万人の王党派が主に中流階級出身だったため、この地域は急速に教養のある地域に発展した。しかし、イギリスから土地を無償で与えられたが、フロンティアでの開拓生活になじむのに苦労した。主にファンディ湾北岸にまとまって住んだため、1784年には、ノヴァスコシア植民地から分割してニューブランズウィック植民地が創設された。
 陸路で到来した約1万人の王党派は、多くが農民出身の王党派連隊およびその家族で、一部を除いて、セント・ローレンス川上流から、オンタリオ湖、エリー湖北岸に無償で土地を与えられた。また、イギリス軍側について戦ったジョセフ・ブラント率いる数千人のイロコイ連合には、クインティ湾周辺、およびグランド川流域に保留地が与えられた。この地域には、戦後、無償の土地目当てに、続々とアメリカ人移民が押し寄せ、英語系人口がさらに増加した。そのため、1791年に、ケベック植民地はフランス系のロワー・カナダ植民地と、王党派及びその後のアメリカ系移民が居住するアッパー・カナダ植民地に分割され、前者は後にケベック州に、後者は後にオンタリオ州となる。
 王党派の到来によって、後のカナダにまとまった英語系人口が確立されたとともに、イギリスとの絆、イギリスとの関係を重視し、時に反米感情を伴う王党派主義が、カナダに保守的性格を与え、後々まで影響を及ぼすことになる。 (木野淳子)

オー・カナダ
カナダでは、『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』が、長い間特にイギリス系の住民を中心に国歌同然に歌われていた。しかしフランス系住民の感情を考慮した連邦政府は、建国百周年目の1967年、同様にカナダで古くから親しまれていた『オー・カナダ』を国歌に、『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』を女王賛歌にすることに決定した。『オー・カナダ』は、1880年にフランス系カナダ人のアドルフ=バジル・ルーチェが当時のケベック副総督テオドア・ロビテーユの依頼で作詞し、同じくフランス系カナダ人のカリサ・ラバエーが曲をつけたものである。英語の歌詞については、1967年に国歌として正式に採用後、何度も協議・審査が行われ、1980年、ロバート・スタンレイ・ウエイアによる訳詞をもとにした歌詞が正式なものとして採用された。ただし、2018年に、社会におけるジェンダー中立化の動きを反映して、歌詞の“in all thy sons command”の部分は“in all of us command.”に修正された。「国家」参照。(田村知子/高野麻衣子) 

オズボーン・コレクション (Osborne Collection)
トロント公共図書館リリアン・スミス館所蔵の児童古書コレクション。1934年、イギリス・ダービシャー州のライブラリアン、エドーガー・オズボーン(Edgar Osborne:1890?1978年)がトロント公共図書館を訪問した折、リリアン・スミス(Lillian H. Smith:1887?1983年)運営の同館少年少女の家(Boys and Girls House)に共感し、彼が個人的に収集していた主にイギリスで1910年以前に出版されたおよそ2,000冊の児童古書を同館に1949年に寄贈したことが嚆矢とされる。オズボーンは寄贈時に、収集の継続やコレクションの一般公開などを条件として付しており、今日にその意志が引き継がれている。現在のコレクションには、羊皮紙にラテン語で書かれた14世紀の「イソップ物語」(コレクション最古の本)や15世紀にベネチアで印刷された「リオンプル物語」(コレクション最古の活字印刷本)が含まれている。
 現在のトロント公共図書館リリアン・スミス館オズボーンコレクション室には、1910年以前の手稿本、書籍や原画等を対象にするオズボーン・コレクション、1910年以後を対象にするリリアン・スミス・コレクション(Lillian H. Smith Collection)、19世紀以降の作家がカナダ人、題材がカナダ、出版がカナダといった作品を収集するカナディアーナ・コレクション(Canadiana Collection)が所蔵されており、14世紀から20世紀に及ぶ児童書の収集総数は8万点を超える。(溝上智恵子)

オーロラ(Aurora)
北極近辺ではnorthern lights、南極近辺ではsouthern lightsとも呼ばれる。明るさはレイリーで表され、通常は数キロ数10キロレイリー、明るいもので100キロレイリー以上になる。太陽に端を発する「太陽風」と呼ばれるプラズマ粒子の流れが地球磁場と相互作用し、複雑な浸入過程を経て地球磁気圏内の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域にたまる。プラズマシート中のプラズマ粒子が地球大気(電離層)に向かって高速で降下し、大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。これがオーロラの光である(発光の原理自体は蛍光灯と同じ)。ノースウェスト準州のイエローナイフ、ユーコン準州のドーソンシティ、アラスカのフェアバンクスでは、オーロラがよく見られることで有名で、多くの観光客や写真家が訪れる。南極の昭和基地でもオーロラがよく見られ、観測が行われている。(草野毅徳)

大麦(Barley)
大麦はイネ、小麦、トウモロコシに次いで世界で4番目に多く栽培されている穀物である。成長が早く収穫までの日数も短いうえ、乾燥や寒冷に強く、湿潤にも適応できる作物である。カナダで、大麦は小麦に次ぐ作物で、家畜飼料、モルト(発酵原料用麦芽)、食用穀物に消費される。カナダの大麦の生産量は世界の上位を占め、飼料穀物について有数の生産・輸出国である。カナダの主要穀物の生産地域は、肥沃な平原地帯(プレーリー)であるアルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州が中心であるが、この地域において大麦は1990年代以降には生産が低迷し、代わってキャノーラが大きく進展している。(友武栄理子)

オカナガン峡谷(Okanagan Vally)
オカナガンは、ブリティッシュ・コロンビア州にある地方名であり、東部にある、ロッキー山脈の西側オカナガン湖のある地域、オカナガン川流域の南北に長く広がるカナダ側の地域がオカナガン渓谷である。中心都市はケロウナ。温暖で乾燥した気候があり、水の豊かな広い河川敷などでワイン用のブドウなどの果樹栽培が盛んである。カナダで最初のワイン用のブドウの生産地でワイナリーが多い。ワイン博物館がある。その他にリンゴ、サクランボ、アプリコット、モモ、プルーンなど多種類の果樹園がある。ドライブウェイ沿いのフルーツスタンドでの直売が多くみられる。湖岸地域の眺望に恵まれ、スキーやウォータースポーツなどのアウトドア産業による経済活動も盛んな地域である。(友武栄理子)

オグデンズバーグ協定(Ogdensburg Agreement)
1940年8月18日に結ばれた加米間で初めての軍事協定。ニューヨーク州オグデンズバーグで開かれたマッケンジー・キング首相とフランクリン・ローズヴェルト大統領の首脳会談で調印された。この協定により、加米間に「常設合同防衛委員会」が設置されることになった。協定には、加米それぞれ4~5名の軍役を主体とした代表からなる「常設合同防衛委員会」を早急に開催し、人的、物的両面にわたる陸・海・空の諸問題の検討に入ることや、西半球の北半分の防衛を広く考究することが謳われている。(細川道久)

オタワ(Ottawa)
オタワは、カナダ連邦の首都。1858 年に英国のヴィクトリア女王に首都と選定されて以来、連邦政治の中心となって発達してきた。この直前までは英国系と仏系の最大の都市トロントとモントリオールが交代で首都として機能していた。オンタリオ州内ではあるがケベック州に隣接するオタワはその間に位置し、セントローレンス川の南側のアメリカからの攻撃に耐える地形であったため選定された。万が一の攻撃に備えて軍事基地が設置され、オタワ川からオンタリオ湖畔にあるカナダ最初の首都キングストンまで物資を安全に輸送できるようリドー運河が建設されると、軍隊や政治家・公務員の街としてのみならず製材業や医療など様々な産業も発展していった。特に近年、政府の研究機関が設置されるようになると多くのI T企業が設立され、ハイテク産業の一大中心地としても成長している。隣接する仏語圏ケベック州ガティノーからオタワに通勤する者も多く、それを含むオタワ首都圏の人口は現在約150万人に達している。人口の7割ほどはヨーロッパ系であるが、2割は外国生まれである。各国の大使館が所在することもあり外国人は人口の7%を占める。オタワは、カナダの中で英語と仏語を共に話すバイリンガルや高学歴人口の割合が最も高く、1人当たりの平均所得もカナダ一高い都市である。気候的には、最高温度は夏には30度を超える日もあるが真冬には氷点下20度以下の日も多くモスクワやウランバートルなどと共に最も寒さの厳しい首都である。国立博物館や戦争博物館・国立美術館など主要文化施設が密集しており、風光明媚な市街地や公園のほか春のチューリップ祭やUNESCO世界遺産であるリドー運河でのスケートの他、荘厳な連邦裁判所やゴシック建築様式のパーラメント・ヒルと呼ばれる国会議事堂やカナダ総督の公邸リドー・ホールなどヨーロッパの伝統を継ぐ美しい建造物が多数あり、多くの観光客が訪れる。(水戸考道)

オタワ協定(Ottawa Agreements)
1932年7月から8月にかけてオタワで開催されたイギリス帝国経済会議(「オタワ会議」)で結ばれた協定。大恐慌で疲弊した経済の再建のため、リチャード・ベネット首相を議長に、イギリス、およびカナダなど6つの自治領(ドミニオン)の代表が協議したが、帝国経済ブロック化をめざすイギリスに対して、自治領側の反応はまちまちであった。帝国経済への依存度の強い自治領は積極的に支持したが、対米経済関係も重視するカナダは、帝国経済に包括されかねないとして難色を示した。結局、帝国全体の経済統合策は合意をみず、12の二国間関税引き下げ協定を結ぶに留まった。「オタワ協定」は、これら協定の総称である。(細川道久)

オタワ大学(University of Ottawa/Universite d’Ottawa)
カナダの首都オンタリオ州オタワ市に位置し、医学部及び修士課程・博士課程を有する公立の総合大学。略称はuOttawa又はU of O。キャンパスは市内を流れるユネスコ世界遺産のリドー運河沿いにあり、多くの商業施設や連邦政府機関に近い。1848年にカトリック司教によって創設されたカレッジ・オブ・バイタウン(1861年に自治体名がバイタウンからオタワに変更したことに伴いカレッジ・オブ・オタワへと改称)を前身とし、1866年に現在の大学名が採用された。英語及び仏語を大学の公用語とする世界最大のバイリンガル大学であり、学生の約7割が英語系、約3割が仏語系である。フルタイム学生及びパートタイム学生の合計約45,000人が学ぶ(学部生約37,500人、大学院生約7,000人)。常勤教員数は約1,200人。コモン・ローと大陸法の両方を学べる法学部を擁するほか、地域の医療機関との連携もあり生物医学の分野に強い。
(田澤卓哉)

オタワ・プロセス(Ottawa Process)
「対人地雷の使用、貯蔵、生産および移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」(「対人地雷全面禁止条約」)の採択に至るまでの一連の国際交渉。主導的な役割を果したカナダにちなんで「オタワ・プロセス」と呼び、同条約は「オタワ条約」と呼ばれる。1996年10月のオタワ会議でロイド・アクスワージー外相は、非人道的な対人地雷の全面禁止を訴え、翌年の条約署名会議開催を表明した。交渉期限を設定し、賛同国のみによる条約交渉を進めると同時に、署名に消極的なアメリカ合衆国などの大国を交渉から排除する方式は功を奏し、ブリュッセル、オスロの会議を経て、同条約は、1997年12月にオタワで署名・採択され、1999年3月に発効した。(細川道久)

オレゴン条約
英領北アメリカ植民地(後のカナダ)とアメリカ合衆国の境界線をめぐって英米間で締結された条約であり、1846年6月15日に施行された。北米大陸西部における英米間の覇権争いは、1783年のパリ講和条約でアメリカ合衆国の独立が承認されて以降も続き、英米間での1812年戦争を経て、1818年協定でウッズ湖以西はロッキー山脈に至るまで北緯49度線に沿って境界線が引かれた。そこから太平洋岸に続くオレゴン地方は、とりわけ毛皮交易の面で重要性を有するため、同協定では競合する英米間の共同管理の対象として定められた。
 しかし、オレゴン地方をめぐる問題を浮上させたのは、「明白なる運命(Manifest Destiny)」を掲げて西方へと領土を拡大するアメリカ人の動きであった。1844年の大統領選挙戦において、民主党候補のジェームズ・K・ポークは、北緯54度40分までのオレゴン全域の領有を掲げた。彼は大統領就任演説でも「オレゴンに対する我々の領有権は明白で疑問の余地がない」と主張した。しかし、同時期にアメリカ合衆国はテキサスを併合したことにより、メキシコとの戦争勃発の可能性が高まっていた。そのため、それ以外の国家間対立は極力避けねばならず、イギリスとの間で境界紛争の対象となっていたオレゴン地方に関しては、太平洋岸まで北緯49度線を境界とすることで双方の合意に至ったのである。ただし、北緯49度線上にあるヴァンクーヴァー島は分割されずすべてイギリス領となった。(高野麻衣子)

オンタリオ州(Ontario)
オンタリオ州は、カナダの最大都市トロントを州都とする中東部に位置する1州である。西はマニトバ州が東はケベック州が州境である。カナダ連邦の首都オタワはケベック州との州境にある。南はミシガン湖を除く五大湖や米国のニューヨーク州やミシガン州あるいはミネソタ州が国境である他、北にはハドソン湾がある。オンタリオ州には25万ほどの湖水があり四季を通して風光明媚で、また世界的に有名なナイヤガラの滝もニューヨーク州との国境にあり、数多くの観光資源がある。人口は1,300万人強でカナダ連邦最大の州であり、同国の3分の1の以上の人口が集中している。ヨーロッパ人による植民地時代の前にはアルゴンキン族やイロコワ族など様々な原住民族が居住していたが、英仏戦争で英国が勝利するとアッパーカナダと称された。1867年の英領北アメリカ法の制定により、オンタリオ州としてカナダの自治領を構成する4州の1つとなった。その後19世紀末に北西地域が同州に併合され、今日のオンタリオ州が完成した。植民後、鉱物資源の生産地としてまた肥沃な農業地域として発展するとともに、次第に金融や自動車を含む製造業の中心として発達して来た。主要銀行の本店がトロントにあるほか、21世紀までにカナダ国内の工業出荷額の半分以上が同州で生産されるようになった他、最近はグーグルや世界的なI T・A I産業の研究開発センターとなってさらに躍進している。特に、トロント大学をはじめとする世界をリードする多数の教育研究機関も所在し、同州とカナダの国際競争力を高めている。
 政治的には人口に比例し割り当てられる連邦下院の308議席のうち、オンタリオ州は106議席を占め、連邦政治への発言力は強い。州政府は副総督のもと議会とその多数を占める党首が組閣する内閣によって運営されている。州の住民の多くは米国との国境から200キロ以内で生活しており、そこから北にゆくほど人口密度は低くなる。仏系が多いケベック州に来れば仏語を母語とする州民は50万人ほどで全人口の約5%ほどである。英語を母語とするプロテスタント系の州民が多いが、トロントなどの大都市は多民族化しており、中国語やイタリア語など英語や仏語を母語としない市民が増加しつつある。このため中華街やギリシア人街など移民の集団が様々な街を形成し、共存している一方、大都市から一歩出ると昔ながらの英語を母語とする英国系カナダ人の集落が多い。(水戸考道)

カ行

カー,エミリー(Carr, Emily 1871-1945)
ブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC 州)ヴィクトリア生まれの女流画家、作家。米・英・仏で絵画の修行をつむ。1907年以降、カナダ固有のテーマにひかれていく。トーテムポールをはじめとするBC州の先住民の文化、生活風習、森林、自然環境をモチーフとして、独自の画境を開く。油彩画は力強い情熱にあふれ、その絵筆の多くは、「あたかも大自然のなかに住む神のエネルギーを感じさせる」、とも評される。1927年に、カナダの風景画家集団「グループ・オブ・セブン」の中心的人物に一人であるローレン・ハリスと出会い、その後、画風は幾何学的イメージを意識するようになる。他方、カーは1920年代頃から文筆活動にもかかわっていたのだが、晩年は著作に専念していく。彼女のメモワール『クリー・ワイク』(Klee Wyck 1941)は、同年、ノンフィクション部門でカナダ総督賞を受賞した。他に短編集4、自叙伝1、日記1がある。直裁でユーモア、ペーソスに富む作風が特徴である。(渡辺昇・竹中豊)

カーディナル, ハロルド(Cardinal, Harold 1945-2006)
アルバータ州サッカー・クリーク・リザーブ生まれ。先住民族運動の活動家、クリー民族の首長、弁護士、作家。1968年、アルバータインディアン協会の会長に最年少で就任。1969年、連邦政府が先住民族の権利を認めず、主流社会への同化を求める「インディアン政策に関する連邦政府声明」(インディアン白書)を発表すると、Unjust Society(1969年)、Citizen Plus(1970年)を発表して、先住民族が特別な権利をもった市民であることを主張し、インディアン白書撤回の原動力となった。1970年代に、一時期、先住民族として初めてインディアン北方開発省アルバータ管区事務所長を務める。辞任後、アルバータ州内の様々な先住民族自治体のコンサルタントとして働く。1977年、The Rebirth of Canada’s Indians を刊行。1983年、全国インディアン協会平原諸州副チーフに選出される。1984年、アルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州で条約を締結した先住民族の団体・平原諸州条約国家連合を創設し、条約権保障を求めた活動を展開する。ハーバード大学にて法学修士、ブリティッシュ・コロンビア大学にて法学博士を取得。1999年、アルバータ大学より名誉博士の学位を受ける。2000年、インディアン条約を先住民族側の視点で考察したTreaty Elders of Saskatchewan(共著)を刊行。(広瀬健一郎)

カーマイケル,フランクリン(Carmichael, Franklin 1890-1945)
オンタリオ州、オリリア出身の画家、デザイナー、美術教師。グループ・オブ・セブンの創立メンバー。他のメンバーと1911年、トロントの商業美術会社グリップ(Grip)で出会う。1913-14年オランダ、アントワープの美術学校に留学。帰国後はトロントでデザイナーとして働くかたわらオンタリオ北部の風景を水彩と油彩で描く。グループの他の画家と比べ、作品の構成が穏やかでリリックな魅力を持つと評されている。デザイナー、イラストレーターとしての評価も高い。またオンタリオ美術大学で教鞭をとっている。カーマイケルは、1925年に結成されたカナダ水彩画家連盟の創立メンバーであり、後に会長を務めた。(伊藤美智子)

カーリング(Curling)
氷上のチェスとも称されるウィンタースポーツ。4人1組の2チームが、交互に持ち手のついたストーンを、氷上を滑らせてハウスと呼ばれる枠内に置いていく。時に相手のストーンを弾き出し、あるいは相手のストーンの進路を阻む場所に配置して、最後にハウス中心部により近い位置にストーンを置けたチームに得点が入る。スコットランド発祥のスポーツで、北米大陸には、フレンチ・アンド・インディアン戦争(1754-1763)の頃にスコットランド人兵士がもたらしたと考えられており、カナダでも競技史が長い人気スポーツである。1807年にモントリオールで最初のクラブチームが結成されて以降、徐々に競技人口が増えていった。スコットランド出身である初代カナダ首相ジョン・A・マクドナルドも競技者の1人であったという。カナダ国内最高峰の大会はザ・ブライアー(正式名はスポンサー名を冠してザ・ティムホートンズ・ブライアー、The Tim Hortons Brier)という男子選手権である。カナダは、1998年の長野冬季五輪で女子が金メダルを獲得後、2018年の平昌冬季五輪まで男子、女子、もしくはミックスダブルスのいずれかで金メダルを獲得し続けている強豪国である(2014年ソチ冬季五輪では男女共に金メダル)。(田中俊弘)

カールトン大学(Carleton University)
1942年、首都オタワに創立された公立大学。5学部を保有し、969人の教授陣と25000人(パートタイム学生を含むと32000人)以上の学部生・大学院生が学ぶ。ジャーナリズム、公共政策、国際問題、建築、ハイテクなど多種多様なコースを提供する。首都大学とも呼ばれ、ハイテク企業が周辺に多いという立地条件を活かし、産官学の連携を図った、学際的かつ実践的な双方向性のある共同研究を行っていることが高く評価されている。(杉本喜美子)

外国資本
外国からの投資には2種類の投資がある。直接投資(foreign direct investment[FDI])と間接投資(indirect investmentあるいは証券投資portfolio investment)である。後者が経営責任を伴わない社債や株式への投資であるのに対し、前者はたとえば現地に工場を新たに建設(green-field investment)したり、買収(M&A)したりすることによって、経営を実際に行うところに特徴がある。外国資本の進出・受入が大きくなるにつれて、国家の主権が失われるのではないか、外国資本に依拠することで技術開発や製品開発力が自国では育たないのではないか、外国資本は自国の国際競争力の強化にはつながらないのではないかといった危惧もあって、直接投資の功罪に特に関心が持たれている。とりわけカナダは先進諸国の中では、外国資本、なかでもアメリカ資本によって経済的に支配されている度合いが高く、1971年にはカナダ製造業の全資産の37%が外国資本の支配下にあった。このためカナダ政府は1974年に外国投資審査庁(Foreign Investment Review Agency[FIRA])を設立して、外国からの投資に対して厳しい態度で臨んだため、1985年には、外国資本による支配率は20%強まで低下した。とはいえ、FIRAは諸外国からはかなり不評であったため、時の政権の座にあったブライアン・マルローニー(Brian Mulroney)首相は外資を積極的に受け入れる方針に転換し、1985年、FIRAに代わりカナダ投資庁(Investment Canada)を設立した。さらに、1994年に北米自由貿易協定(North American Free Trade Agreement[NAFTA])が発効したことで、カナダとアメリカの間の貿易・投資は順調に伸び、外国資本による支配率は再び上昇し、2003年にはカナダ全産業(製造業・非製造業を含む)の資産と売上において外国資本が占める割合はそれぞれ、29.3%と30.2%であった。また製造業では、資産の51.3%、売上の52.1%が外国資本の支配下にあった。最近のデータ(2018年)によると、カナダの全産業の資産と売上において外国資本が占める割合は、それぞれ15.3%と27.3%である。外国資本の中でアメリカ資本はこれまで同様に、大きな影響力をもっており、資産の7.9%、売上の15.7%を占めている。ただし、外国資本の占める割合が低下傾向にあることは、カナダ企業の成長を物語るものといえよう。また2020年7月にはカナダ・アメリカ・メキシコ協定(Canada-United States-Mexico Agreement[CUSMA])が発効し、NAFTAのさらなる発展が期待される。(「カナダ・アメリカ・メキシコ協定」(CUSMA)参照。)(榎本 悟)

外国投資審査法
外国投資審査庁(Foreign Investment Review Agency[FIRA])に代わり、1985年に設立されたカナダ投資庁(Investment Canada)が外国からの投資を審査するための法律が、カナダ投資法(Investment Canada Act)である。この法律は、FIRAが外国からの投資を抑制し、諸外国から不評であったため、これに代わり、カナダへの投資、経済成長、そして雇用機会を鼓舞する目的で外国からの投資を審査するものである。基本的なスタンスはカナダにとって「純利益」(net benefit)になる投資を奨励することであるが、WTOメンバー諸国と非WTOメンバー諸国からの投資には異なる審査基準を適用している。また、カナダの一部の産業への投資(たとえばウラン鉱、金融サービス、文化、運輸など)については制限を設けている。なお、2020年4月に新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、カナダ国民の健康と安全を守り、国家の安全保障に新たなリスクがもたらされることを防ぐため、当分の間、外国からのカナダ国内への投資について、厳格な基準を適用することを発表している。(榎本 悟)

家族法(Family Law)
カナダは連邦国家であるために、家族法は、州の管轄か、それとも連邦の管轄かという憲法上の問題がある。1867年憲法の92条13号は「財産権及び私権」に関する事項を州の管轄としているので、家族法を含む民法領域は州の管轄ということになるが、同時に1867年憲法の91条26号は、「婚姻及び離婚」を連邦の管轄としているため、婚姻については主として連邦法が規律している。連邦の制定法としては、1868年に最初の「離婚法」が制定され、その後、1985年に新しい「離婚法」が制定された。2005年には「婚姻法」が制定されたが、ここでは婚姻は異性間のものであるという考えを廃し、正面から同性間の婚姻を認めている。次に、州法については、英語諸州では基本的にコモン・ローに依拠しているが、新しい制定法によって修正を加えている場合もある。ケベック州では、フランス法の伝統から民法典で家族法を規律しており、現在の民法典は1991年に改正されたものである。(洪 恵子)

カトリック教会
カナダ統計局の2011年の数字(以下の数字は同年の統計)によると、カトリック教徒の全人口に占める比率は38.7%(約1272万人)である。伝統的にカトリックはカナダ最大の宗教人口を有する。州別にみると、カトリック教徒の地域に占める比率には大きな差がある。カトリック信者の州内比率が最も高いのはケベックで74.5%(576万人)、最も低いのはブリティッシュ・コロンビアの15%(約68万人)である。とくに歴史的遺産として看過できないのが、ケベック州である。カナダのカトリック教徒の約半数が同州に集中している。19世紀初頭までは、ケベック司教区が英領北アメリカ全土を統括しており、カナダのカトリック教会の歴史はケベック州の歩みと重なる。そこのカトリック教会は、フランスの植民地時代から、イギリスの統治を経て20世紀中頃まで、精神的・生活的・文化的基盤を担っていた。さらには、宗教とフランス語を公教育の中で一体化させることでフランス系住民をまとめ、民族の存続をはかってきた。しかし1960年代の近代化・産業化を求める「静かな革命」により、州政府が州権の拡大に成功すると、かつてのカトリック教会の社会的影響力は急速に衰えていく。形式的にはカトリック信徒であっても、今日、日曜のミサには行かないなど、とくに若い世代の教会離れは著しい。州民の脱宗教化、加えて聖職者の減少、いくつかの教会や修道院の閉鎖など、ケベックのカトリック教会は試練と模索の中にある。(寺家村博・竹中豊)

カナダ・アメリカ・メキシコ協定(CUSMA)
カナダ・アメリカ・メキシコ協定(Canada-United States-Mexico Agreement[CUSMA])とは、カナダ、アメリカ、メキシコの3カ国の貿易協定のことであり、「新NAFTA」とも称される。(本協定は、アメリカでは「アメリカ・メキシコ・カナダ協定(United States-Mexico-Canada Agreement[USMCA])と呼ばれる。)アメリカのトランプ(Donald Trump)大統領の「アメリカ第一主義」の主張の下で、製造業の国内回帰が目指された。3カ国の間で、2017年8月からNAFTAの再交渉が開始され、3カ国首脳が2018年11月30日に協定文書に署名し、2020年7月1日に協定が発効した。
 CUSMAでは旧協定が包括的に見直され「現代化」された。デジタル貿易のルールの規定などの章が新設され、NAFTAでは補完協定になっていた「労働」や「環境」分野の規定が協定本体に含まれている。またNAFTAとは異なり、CUSMAでは協定の有効期限が16年と規定され、共同レビューで加盟国の合意が得られれば協定は自動的に16年間延長される。
 カナダは乳製品市場の開放のほか、医薬品特許や著作権保護期間の延長に関してアメリカに譲歩した。一方、アンチダンピング税および相殺関税に関する審査や紛争解決、ならびに文化産業保護の例外措置はカナダの主張通り維持されることとなった。
NAFTAの見直しで焦点となったのが自動車・同部品の原産地規制であった。CUSMAの下で小型車両(乗用車、SUV、ピックアップトラック)が関税ゼロの恩典を享受するためには、以下の4つの要件をすべて満たすことが必要となった。(1)従来は域内原産比率62・5%以上を満たせば関税が免除されたが、CUSMAでは75%まで段階的に引き上げられることになった。(2)エンジンなど7種類の重要な自動車部品(コアシステム)は原則すべて北米原産品であることがルール化された。(3)完成車メーカーが購入する鉄鋼とアルミニウムの70%以上が北米原産材料であることが義務付けられた。(4)新たに労働付加価値比率(LVC)要求が導入され、乗用車とSUVの付加価値の40%以上、およびピックアップトラックの付加価値の45%以上は、労働者の基本時給が16米ドル以上である地域でなされなければならない。
現状では時給16米ドル以上の賃金条項を満たすのはカナダとアメリカであり、両国での完成車や部品生産に有利に働くとみられている。しかも、アメリカはサイドレターで、メキシコとカナダから輸入されるピックアップトラックと年間260万台までの乗用車を関税賦課の対象外とすると約束した。この数値はカナダからアメリカへの輸出台数実績を大きく上回ることから、カナダの産業界はこれを評価している。(栗原武美子)

カナダ音楽評議会(Canadian Music Council)
1944年に設立されたカナダの音楽振興を目的とする組織。1947~66年にサー・アーネスト・マクミランが議長を務めた。会員は国内各種の音楽関連団体、教育機関、選ばれた個人から構成され、それらの保護組織となった。また、1952年より、国際音楽評議会(International Music Council)のカナダ代表となる。1959年にはカナダ作曲家連盟(Canadian League of Composer)と協力してカナダ音楽センター(Canadian Music Centre)を創設。1965年には年次学術会議を始め、1980年代まで、音楽振興の定期刊行物や各種の出版も行われてきたが、保護組織の必要性が弱まり、1990年に活動が停止された。(宮澤淳一) 

カナダ協議会、カナダ・カウンシル 
カナダ芸術評議会参照

カナダ銀行 (Bank of Canada)
カナダ中央銀行として1935年3月11日設立。首都オタワのウエリントン通りとバンク通りの角に本店がある。20世紀初頭までカナダには長い間、中央銀行がなく、政府による貨幣供給がほとんどない状態で、特許銀行(Chartered Bank)と呼ばれる国内大手商業銀行のモントリオール銀行が独自に貨幣を発行していた。世界大恐慌後、ライバル行のカナダロイヤル銀行の働きかけと、政府による打開策として、1933年リチャード・ベネット内閣の王立委員会が招集され、中央銀行発足の決定が発表、1935年にはカナダ銀行法に基づき、カナダ経済と金融の健全な発展を目的として設立された。国内唯一の発券銀行としてカナダ銀行券の発行およびカナダドルの管理を行う。
 「インフレ・ターゲット」という、今では世界の多くの中央銀行が導入するシステムを、1991年という早期に導入したことでも知られている。マーク・カーニー総裁(2008年~2013年)が、その後、カナダ人の中央銀行総裁としてイングランド銀行総裁(2013年~2020年)となったことも話題をさらった。2022年現在のマックレム総裁は、インフレ目標2%を継続させ、物価安定と雇用安定を目的として、新型コロナウイルス対応で始めた量的緩和政策を2021年10月末の段階で終了すると発表している。
(杉本公彦/杉本喜美子)

カナダ芸術評議会 (Canadian Council for Arts)
1957年に連邦議会によって設立されたカナダにおける公立の芸術活動を支援する独立性をもった組織。通称としてカナダ評議会 (Canadian Council)と呼ばれる。連邦政府の国営企業 (Crown Corporations) が公立芸術への資金提供の手段として機能している。ダンス、学際芸術、メディア芸術、音楽、演劇、執筆、出版など芸術家や芸術団体に助成金やサービスを提供し、この国営企業の中にはカナダ銀行、カナダ郵便公社、カナダ放送局 (CBC) カナダ歴史博物館などがあり、カナダ文化遺産省の管轄下のカナダ芸術評議会も含まれる。2020-21年度の年間予算は5億5,000万カナダドルにのぼり、うち3億2,000万ドルを文化芸術分野の助成・授賞(グレン・グールド賞、モルソン賞、カナダ総督文学賞、カナダ総督ビジュアル・メディアアート賞など)を行っている。(下村雄紀)

カナダ憲法(Constitution of Canada)
カナダ憲法は、カナダの最高法規である。日本を含む多くの国の憲法は、単一の憲法典にまとめられているが、カナダ憲法は歴史的経緯から、複数の法典によって構成されている。イギリス植民地から自治領となったカナダでは、イギリス議会制定法たる「1867年英領北アメリカ法」及び関連法令が実質的なカナダ憲法を構成していたが、同議会が、「1982年カナダ法」(「カナダ法」参照)を制定し、カナダに対する立法権完全放棄と憲法改正権移管を行ったことで、カナダは憲法を完全に自らのものとした。今日、カナダ憲法を構成するのは、カナダ法の別表に規定された「1982年憲法」(Constitution Act, 1982)と1867年英領北アメリカ法を改名した「1867年憲法」(Constitution Act, 1867)を核とする複数の法令である。前者は主として人権規定からなり、とくに第1章を「カナダ権利自由憲章」という。後者は、主として統治規定からなり、政治制度等を定める。内容面の特徴として、立憲君主制、議院内閣制、州権限列挙を含む連邦制、多文化主義、連邦2公用語(英仏)、硬性人権規定と司法審査制度があるが、一部の人権規定について、連邦・州議会制定法が司法判断を排除する宣言を認める1982年憲法33条にも特徴がある。(佐藤信行)

カナダ公用語法(Official Languages Act)
ケベック州の独立を回避するために1969年に制定された「公用語法」は、英語とフランス語をカナダの公用語と宣言し、カナダ社会における両言語の対等性を明記した。今日のカナダの公用語政策は、1988年に改定された公用語法の規定に基づき、国民への行政サービスを両公用語で提供する部局の指定基準や連邦公務員同士の仕事言語に関する詳細な規定、公用語少数派(ケベック州内のアングロフォン、ケベック州外のフランコフォン)が自分の言語で教育を受ける権利に関する規定、さらに司法救済策などを設け、カナダ国民が英語とフランス語を学ぶことも奨励している。カナダの公用語政策は「制度上のバイリンガリズム」であり、公用語法で規定する一部の連邦公務員には英語とフランス語のバイリンガルになることを要求するが、一般の国民一人一人にはそれを要求していない。(矢頭典枝)

カナダ国際開発庁(Canadian International Development Agency)
1960年に創設された外務省対外援助事務局(External Aid Office)を前身として、1968年にカナダ国際開発庁として設立された。カナダ国際開発庁は、発展途上国の開発に対して、国際機関や国内の組織・企業などと協力しながら、ODAや技術供与などの援助を行う中心機関である。設立初期のODA額は、1968~69年で2億1,208万カナダドルであった。2013年には外務貿易開発省(Department of Foreign Affairs, Trade and Development)の一部に改編され、2015年よりグローバル連携省(Global Affairs Canada)として開発援助の一端を担っている。(新山智基)

カナダ国立研究機関(National Research Council of Canada:NRC)
カナダの経済、地域および社会の発展に役立つ科学技術を創造、振興するために1916年に科学・産業研究諮問機関として創設された。カナダ政府の一機関であり、連邦の調査・技術開発機関として最大の規模を持ち、カナダにおける科学研究の中心的存在で、独自の研究所とスタッフを抱えてさまざまな研究を行うほか、民間研究機関、企業、大学との研究協力を行っている。現在のNRCの活動分野は、航空、天文学、バイオテクノロジー、量子ホトニクス、ナノテクノロジーなど多岐にわたっている。基礎研究を行うだけでなく、研究成果を産業発展にも役立てている。また1931年以来国際学術会議(ISC)の連携組織であり、海外の多くの研究機関とも協力関係にあり、2019年には日本に事務所が開設された。公式ホームページ (洪 恵子)

カナダ国立図書館・文書館 (Library and Archives Canada)
旧カナダ国立図書館(National Library of Canada)と旧カナダ国立文書館(National Archives of Canada)が統合し、2004年に新たにオタワに開館したのがカナダ国立図書館・文書館である。先進国において国レベルの図書館と文書館を統合した先進事例の1つとなっている。カナダ国立図書館文書館法によれば、同館の役割は、(a) 現在及び将来の世代のためにカナダの記録遺産を保護し、(b) 自由で民主的な社会であるカナダの文化的、社会的、経済的推進に寄与する全ての永久的な知識へのアクセス源となり、(c) 知識の収集、保存、普及を通じてカナダにおけるコミュニティ間の協力を促進し、(d)カナダ政府とその組織について継続した記録を提供することされている。前身の旧カナダ国立図書館(1953年設立)や旧カナダ国立文書館(1872年設立)の時代に収集が始まった同館のコレクションには、2,000万冊の書籍、250リニアキロメートルの政府及びプライベートのテキスト記録、16世紀まで遡る300万点の建築図面、計画書、地図、50億メガバイトのデジタルコンテンツ、3,000万枚近い写真、9万本のフィルム、55万時間を超えるオーディオ・ビデオ記録、42万5,000点の芸術作品等々が含まれる。(溝上智恵子)

カナダ小麦局(Canadian Wheat Board)
カナダ小麦局は、平原3州産の小麦と大麦の販売を一元的・独占的に管理する目的で1935年に設立された。カナダで生産される小麦・大麦の生産・出荷・販売・輸出等を一括管理運営する政府機関であり、その使命は生産者にできるだけ高い収益を実現することと市場への公平なアクセスを保障することである。東京事務所は、東アジア全域におけるカナダの小麦・大麦の輸出等に貢献している。(草野毅徳)

カナダ作家協会(Canadian Authors’ Association)
第1次世界大戦を機に生じたカナダの国民的自負心を背景に文学界でも新しいナショナリズムが台頭し、文学の保護育成を目的に1921年、カナダ作家協会がS.リーコック等により設立された。自国文学に関する著作権法制定、作品の出版・販売促進、夏期文学講座開講、大学における講座開設・研究体制確立等の運動を展開し、総督文学賞(1937年)初め各種の文学賞を制定している。(渡辺 昇)

カナダ市民権
カナダ最初の市民権法(Canadian Citizenship Act)は1946年に成立し、翌1947年に発効した。それ以前はカナダ人はイギリス市民であり、カナダの帰化法では、カナダに入国した移民にはイギリス市民としての権利が賦与された。1977年に発効した新カナダ市民権法(Citizenship Act)では、市民権に関する女性の平等を認める事項が加えられ、カナダ生まれの市民と帰化市民との間の差異も取り除かれた。この法では、カナダで生まれた者(外交官の子供は除く)はすべてカナダ市民権を取得する資格があり、外国にいるカナダ市民の子供、親が市民権を得る資格を持つ未成年者、永住者として3年以上カナダに在住し、特定の条件を満たす者も、市民権を得る資格があるとされた。その後、数回改定されたが、例えば2009年に改定された市民権法では、2つの変更がなされた。(1)これまでの法のもとでカナダ市民権を失った人に遡及して市民権を与える。(2)外国に住むカナダ市民の子供に自動的に与えられていた市民権は1世代目のカナダ人の子供に限って与えられる。(1)の対象の中には、第2次世界大戦で戦い、帰国後、必要な手続きをしていなかった兵士も含まれ、カナダに貢献した者への市民権の賦与といった人権上の意味合いが伺われる。(2)では、市民権を制限することで、将来に向けてカナダ市民権の価値を守ることを目指しているといえよう。2022年1月には移民・難民・市民権省大臣が市民権法の75周年を祝うメッセージで、今後も市民であることの意味を確認し続けようと述べている。(飯野正子)

カナダ自由党(Liberal Party of Canada)
カナダ自由党は、カナダで最も古くから存在する老舗政党であり、現在のところ政策的には中道左派路線をとる。なお、各州に存在する州自由党とは、つながりがないどころか、政策的に全く異なる立ち位置であることも多い点に留意する必要がある。二大政党のもうひとつの雄であるカナダ保守党が、これまで合従連衡や党名変更を繰り返してきたのとは対照的に、20世紀のうちおおよそ70年近く政権を担当してきた、名実ともにカナダを代表する政党であって、「自然政党natural governing party」と呼ばれることもある。これまでW・L・マッケンジー・キングやピエール・E・トルドーなど、カナダ政治史のなかで大きな存在感をはなつ政治家が長期政権を率いてきた。現在のカナダ保守党が、西部への領土拡大に伴って作られたアルバータ州やブリティッシュ・コロンビア州など西部諸州を支持基盤とする、いわば新興政党であるのに対して、カナダ自由党は東部の老舗州であるオンタリオ州やケベック州、大西洋沿岸諸州などを支持基盤とする。そのため、東部カナダの経済エリートや知的エリートがカナダ自由党を支持することが多い。とりわけケベック州での安定的な支持確保が長期にわたる政権維持を可能とし、またそれゆえ仏語系ケベック州出身者の連邦主義者を連邦政治のアリーナへと送り出す政党でもあった。中道左派として、カナダの社会保障制度の充実や二言語・多文化主義政策の推進、憲法の「カナダ化」を目指した1982年憲法の制定など、現代カナダ政治の重要なトピックは、カナダ自由党政権のもとで成し遂げられてきたと言っても過言ではない。中道左派的政策に親和的だが、ブライアン・マルルーニ政権が締結した北米自由貿易協定を政権奪取後も維持し、また社会保障政策などで、より中道左派色の強い新民主党の政策をすすんで自らの政策に取り入れ実現するなど、包括政党(キャッチオールパーティー)的な柔軟性を持ち、そのことが長期政権を可能としてきた。現在のジャスティン・トルドー政権は、単独で過半数に満たない少数与党政権であるが、非公式なかたちではあるものの、新民主党のサポートを得て政権を維持している。(岡田健太郎)

カナダ人権憲章(Canadian Charter of Rights and Freedoms)
1982年に制定されたカナダ憲法史上はじめての最高法規性を備えた、憲法上の人権規程。それまで存在した1960年のカナダ権利章典(Canadian Bill of Rights)が通常の連邦議会制定法に過ぎず、他の法律の解釈に際して同法との整合を求めるというものであったのに対して、この憲章は最高法規たる憲法の一部であり、これによって、人権保護の観点から議会立法の効力を判定する権限が裁判所に与えられることになった。これは、イギリス的議会主権原理からの離脱を意味し、カナダ憲法の非イギリス化を象徴するものといえるが、他方で、一定の手続きによってこの憲章の適用を排除する権限が議会に留保されており、憲法の絶対的優越性を前提とする日本やアメリカの権利規定とは大きく異なっている。
 内容的には自由権の保障を中心とし、どちらかといえば古典的な権利章典に属するが、財産権条項をあえて置かない選択がなされている他、年齢差別の禁止や法廷における言語権の保障、少数派言語教育権、先住民の権利、多文化的伝統との調和解釈など、カナダに特徴的な権利も盛り込まれている。(長内了/佐藤信行)

カナダ人権博物館 (Canadian Museum for Human Rights)
2008年にマニトバ州ウィニペグに設置された国立博物館。国立博物館としては約40年ぶりに、かつオタワ首都圏以外で初の国立ミュージアムとなった。
 カナダが世界に誇るものの1つに人権尊重の姿勢があり、「権利及び自由に関するカナダ憲章」として1982年憲法に規定されている。これを博物館のテーマにかかげ、世界的水準の博物館を建設するというカナダのメディア王・故イズリアル・アスパー(Israel Harold Asper:1932?2003年)の考えから、カナダ人権博物館は始まった。そもそもアスパーは自らの財団を通して、1997年からウィニペグの9年生を対象に人権とホロコーストを学習するプログラムを推進しており、アメリカ合衆国のホロコースト博物館をカナダにも作りたいと考えたのである。同じ頃、オタワのカナダ戦争博物館がホロコースト・ギャラリーを含む寄付金計画を提案するも、退役軍人団体らの反対にあい、同館にはホロコースト・ギャラリーを設置しないこととなった。
 一方アスパーはウィニペグにホロコースト博物館建設を提案したが、税金を支出する国立は1つの民族のジェノサイドに限定すべきではないとの意見が出され、テーマを人権とする博物館へと切り替えた。こうして連邦政府、マニトバ州、ウィニペグ市、カナダ人権博物館友の会、そして民間企業の五者によるプロジェクトがスタートし、2014年にカナダ人権博物館は開館した。同館は、人権問題にかかわってきたカナダの歴史とその発展を提示するというきわめてユニークな博物館となっている。(溝上智恵子)

カナダ政府の謝罪
カナダ政府はマイノリティ集団に対する過去の差別や人権侵害に対する謝罪を行ってきた。1988年の日系カナダ人に対するリドレス合意に基づく謝罪が最初の事例である。ブライアン・マルルーニ首相は第二次世界大戦中の日系カナダ人に対する強制収容と市民権侵害に対し、カナダ議会下院にて公式に謝罪し、個人賠償を行った。この公式謝罪以降も、カナダではマイノリティ集団への謝罪が継続している。その謝罪対象は3種類に大別できる。第1に、第一次世界大戦および第二次世界大戦中の強制拘留や移住に対する謝罪、第2に先住民族に対する謝罪、第3にカナダへの移住や入国規制における差別に対する謝罪である。
 第1に関しては、日系カナダ人への謝罪に続き、第二次世界大戦中のイタリア系カナダ人拘留に関する謝罪が同じくマルルーニ首相により、1990年に非公式な場で表明された。しかし賠償は行われなかった。第2の先住民族に関しては、カナダ政府の関与のもとで、15万人の先住民の子どもたちを寄宿学校に強制入学させたことに対し、ハーパー首相がカナダ下院にて2008年に公式謝罪を行った。同化政策の一環で1874年に開始した寄宿学校への強制入学の影響は甚大であった。そのため謝罪に加え、元寄宿学校生全員に個人賠償が行われた。また寄宿学校における性的虐待や身体虐待などに対する解決要求に対する独立評価プロセスの導入、先住民コミュニティを支援し、問題への認識向上を図る記念行事やプログラム設置が約束された。第3に関しては、2006年に中国人への人頭税課税による入国制限に対し、ハーパー首相がカナダ下院にて公式謝罪を行い、個人賠償が行われた。
 2015年に政権についたジャスティン・トルドー首相も積極的な謝罪の政治を展開している。2016年には、1914年にインドからの渡航者の入国拒否を行った「駒形丸」事件について下院で公式に謝罪した(2008年にも駒形丸事件に関し、ブリティッシュコロンビア立法府およびカナダ議会下院が謝罪を行っていたが、首相が公式謝罪を行ったのはこの時が初めてである)。2017年には、人種的・民族的マイノリティ集団に対する謝罪に加え、カナダの性的マイノリティに対する過去の差別への公式謝罪も行った。さらに2021年にも、非公式だった第二次世界大戦中のイタリア系カナダ人拘留への謝罪に対し、対象を拡大し、公的な謝罪を行っている。(大岡栄美)

カナダ宣教師
幕末に欧米列強によって開国を迫られ、不平等な修好通商条約を締結した日本では、外国人居留地における宗教活動の自由が保障され、欧米諸教会、諸教派による伝道が開始される。1873年、キリスト教禁制の高札が撤廃された年に、カナダのメソジスト教会からはジョージ・カックランとデイビヴィッドソン・マクドナルドの二人の宣教師とその家族、英国聖公会福音宣布協会からは初めてのカナダ出身の聖公会司祭としてアレクサンダー・クロフト・ショーが派遣された。先発のアメリカやイギリスの宣教師たちからおよそ10年以上遅れてのカナダ人宣教師の来日であった。のちには女性宣教師も加わり伝道が展開された。総じてカナダの宣教師たちはメソジスト、聖公会いずれも、おもに日本の中部地方やその周辺の農村地域で活動した。キリスト教の布教のほか、女学校・貧民学校・大学・幼稚園運営・保育者養成などの教育事業、孤児院・養老院・セツルメントなどの社会事業、看護学校や結核療養所設立等の医療事業などを通じて日本社会に貢献した。
 20世紀になると、カトリックからはマリアの宣教者フランシスコ会、コングレガシオン・ド・ノートルダム、ドミニコ会、聖ウルスラ修道会など、ケベック州出身のフランス系を中心に複数の修道会が日本に到来した。カトリックの場合、修道会による学校設立や教育活動が宣教の主流であったが、福祉事業のみを目的とした修道会もあり、カトリック系学校を創設する前に孤児院などの養護施設を設立していた修道会もあった。
カナダの宣教師たちは太平洋戦争開戦の前後にほとんどがカナダに帰国したが、日本に残留し抑留される宣教師もいた。戦後も再びカナダをふくめた欧米の宣教師たちが来日し、戦災で荒廃した日本の復興のため奉仕した。戦後にはカナダに関係するカトリック系の学校も多く創設された。
 日本において、カナダの宣教師はイギリスやアメリカの宣教師に比べてナショナルアイデンティティについて強い印象を残さなかったという指摘がある。しかし、オンタリオ州やケベック州の農村地域出身の宣教師たちは日本内地の小都市や町で、伝道のみならず地方の人々と草の根レベルで生活を共にし、日本人と平等の意識をもって奉仕し、日本語の習得やその文化を学ぶことにも真摯であった。
カナダ国内では日本人移民・日系人への伝道活動も行われており、スペイン風邪流行時の医療活動、第二次世界大戦中の日系人収容所での教育支援などをカナダ人の教会関係者、宣教師が担った歴史もある。(松本郁子)

カナダ総督(Governor General of Canada)
カナダ総督は、カナダ国王・女王の代理人である。また、州における代理人としての副総督(Lieutenant Governor)が各州に置かれる。かつてイギリスの植民地(後に自治領)であったカナダには、その法的主権者たるイギリス国王が通常不在のため、代理人たる総督が統治権者として本国から派遣されていた。これに対して、現在のカナダは、独立した国家であり、イギリス国王と同一人物がカナダ国王となる一種の同君連合であるが、総督は、カナダ国王の代理人であって、イギリス国王の代理人ではない。選任については、1935年を最後にイギリス政府は関与しておらず、カナダ政府の推薦に基づき任命される。
 1952年以降の総督は全てカナダ人であり、近年は、はじめての女性総督Jeanne Sauve(1984年就任)、自身が難民としてカナダに来た2人目の女性総督Adrienne Clarkson(1999年就任)、5人目の女性にしてはじめての先住民総督Mary Simon(2021年就任)など、カナダの多様性を反映した人選が注目されている。法的には、総督は、カナダ枢密院の助言に基づく一般統治権の行使を認められているが、立憲君主制の下、実際には、政治的判断を行わないのが近代的憲法習律である。ただし、サスカチュワン副総督が1961年に法案裁可を拒否し、君主制の潜在構造が明らかとなったことがある。総督の個別権限のいくつかは、1867年憲法に列挙されている。(佐藤信行)

カナダ楯状地
カナダ楯状地は、楯状地一般にみられる楯を伏せたような凸状地形と異なり、海に没するハドソン湾を中心に広がる安定陸塊である。先カンブリア紀の基盤岩類が直接地表に露出していることから、この地形に分類される。始生代から原生代の非常に古い岩石からなり、カナダ国土のおよそ半分を占める。標高は180mから360mほどで、全体としてなだらかであるが、オンタリオ州のハリバートン・ハイランドやケベック州のローレンシア山脈では1000m、さらにラブラドルやバフィン島では2000mを超える高地もみられる。ラブラドル半島全域、ケベック州の大部分、オンタリオ州北部、マニトバ州、そしてヌナヴト準州の大部分に広がるこの楯状地は、豊かな鉱産資源に恵まれており、カナダ全体の産出量(価額ベース)の7割を占める。氷河作用を受け、鉱産資源のなかには露天掘りされていることも少なくない。このカナダ楯状地は、カナダが超大国アメリカと唯一共有しない地形として、カナダ人にとってナショナリズムのシンボル的存在ともなっている。(藤田直晴)

カナダ・デー(Canada Day)
2015年に政権についたジャスティン・トルドー首相も積極的な謝罪の政治を展開している。2016年には、1914年にインドからの渡航者の入国拒否を行った「駒形丸」事件について下院で公式に謝罪した(2008年にも駒形丸事件に関し、ブリティッシュコロンビア立法府およびカナダ議会下院が謝罪を行っていたが、首相が公式謝罪を行ったのはこの時が初めてである)。2017年には、人種的・民族的マイノリティ集団に対する謝罪に加え、カナダの性的マイノリティに対する過去の差別への公式謝罪も行った。さらに2021年にも、非公式だった第二次世界大戦中のイタリア系カナダ人拘留への謝罪に対し、対象を拡大し、公的な謝罪を行っている。(大岡栄美)

カナダドライ(Canada Dry)
カナダで開発された世界的に有名な清涼飲料。トロントで炭酸水を製造・販売していたジョン・マクローリンが、1900年代初め、“カナダドライ・ペイル・ドライ・ジンジャーエール”(1907年に“カナダドライ”として商標登録)の名称で売り出した。その爽やかさが受けて、カナダや米国で爆発的な人気を呼び、世界中へ広がった。製造元はいくつかの食品飲料メーカーを経て、現在は英国のキャドバリー・シュウェップス社に変わったが、ジンジャーエールの発祥地であるカナダは商標名にそのまま残された。日本では、日本のコカコーラ社がキャドバリー・シュウェップス社と提携、アイルランドから輸入した原液を使ってカナダドライ・ブランドのジンジャーエール、トニックウォーター、クラブソーダを瓶詰め・販売している。(吉田健正)

カナダ・ドル
その語源をドイツ語のTalerに求められるドルという呼称は、通貨単位として世界の多くの国で使用されている。各国のドルを区別するために、米ドル、オーストラリア・ドルといったように国名を付して表示されることが多い。カナダでは19世紀前半まで米ドル、スペイン・ドル、イギリスのポンド等が流通していたが、コンフェデレーションに先立つ1858年にブロヴィンスの政府勘定はポンドに代わりドルで行うこうが法律で定められた。それにともない、政府はモントリオール銀行や他の特許銀行の銀行券と並んで通貨(ドル)を発行するようになった。さらに、1870年の法律でカナダではすべてドル表示になったが、コンフェデレーション成立後しばらくは米ドルであろうとカナダ・ドルであろうと区別なく使われていた。1935年以降は、中央銀行であるカナダ銀行(Bank of Canada)のみに銀行券の発行が認められ、特許銀行の銀行券は1950年までに姿を消した。(「カナダ銀行」参照。)(加勢田博)

カナダ農務・農産食品省(Agriculture and Agri-Food Canada:AAFC)
連邦政府内に、1867年カナダ建国時に設立された。1886年に実験農場システムが、1890年に乳製品監督庁がそれぞれ設置された。本省の使命は、カナダの経済発展に資するための農産物の育成・安定供給・競争を促進することにある。農産業向上のための研究は、農業の物理的・経済的面、生産物の検査・等級審査、作物・家畜からの病害虫防除等に集中される。家畜飼料・肥料・農薬の提供、価格安定や作物保障等の施策、消費者対策等も含まれている。本部はオタワにあるが、各地に試験農場(Resarch station)が設置され、それぞれ特徴ある栽培・飼育の開発・研究・検査・指導がなされている。また、各州の農務省(Department of Agriculture)や州立大学農学部との交流も極めて緊密、活発である。穀物の例では、ウィニペグ市に研究・検査に関する政府機関(Canadian Grain Commission)があり、カナダ小麦局(Canadian Wheat Board)や各地のエレベーターと密接に連携している。また、穀物がカナダの重要な輸出産物であることから、外務省・運輸省・通産省等の各機関とも密接な関係にある。(草野毅徳)

カナダ仏教会(Buddhist Church of Canada)
カナダでの日系仏教徒の歴史は1889年に日本領事館が開設された頃に遡ると考えられるが、正式な組織としては、1904年にヴァンクーヴァーで14名の仏教徒代表が会議を開き、西本願寺に伝道師の派遣を要請したことに始まる。1905年、ヴァンクーヴァ―に西本願寺派遣の初代伝道師が到着し、1909年に日本仏教会が650名の会員で正式に発足し、BC州政府に公認された。1911年には仏教会会堂が完成している。1941年には11人の伝道師がブリティッシュ・コロンビア州の16の寺院で伝道活動を行っていたが、戦争により活動は停止した。内陸収容所に送られた日系人は、戦後は必ずしも西海岸に戻らなかったが、再定住先としてオンタリオ州トロントを選んだ日系人の間では、早くも1946年に仏教会が設立された。1955年にはトロントで日系仏教徒の全国大会が開かれ、今日のカナダ仏教会が発足し、1956年には6人の伝道師が18の寺院で伝道活動を行い、会員は3,500人であった。1975年にようやく英語も採用され民主的な教会運営を行って若い世代にアピールしようとしたが、納得できる教義の解説が十分に英語で行われないまま今日に至っている。教義は本願寺によって継承されている親鸞の教えだが、日本における次世代への継承の問題がカナダの教団にも同じように見られる。(広瀬孝文/飯野正子)

カナダ文明博物館(Canadian Museum of Civilization)
現在のカナダ歴史博物館の前身にあたる国立博物館。収蔵品と展示は、多文化主義を国是とするカナダを象徴する内容だった。1841年にヴィクトリア女王が1500ポンドを下賜しカナダ植民地の地質調査会(Geological Survey of the Province of Canada)を設置したことを嚆矢とされるが、博物館としては、1856年にカナダ植民地政府がモントリオールに地質博物館(the Geological Museum)創設のための法律を制定させた時からスタートする。1881年にオタワへの移転後、1910年にはヴィクトリア記念博物館(現在のカナダ自然博物館)が新たに建設された。1927年に「国立博物館」となり、1951年刊行の『マッセイ報告書』において歴史博物館の創設が謳われ、「国立人類博物館」へと改称するも、1986年に「カナダ文明博物館」へ改称した。1989年にケベック州ハル(現在のガティノー)にて新規開館した。さらに2013年に「カナダ歴史博物館」へと再度改称した。(溝上智恵子)

カナダ法(Canada Act 1982)
「カナダ法」には、二つの意味がある。一つは、カナダの法全般(laws of Canada, Candian law)という意味であり、もう一つは、1982年にイギリス議会が制定した「1982年カナダ法」(Canada Act 1982)を指す。以下では、後者の意味について述べる。植民地として出発したカナダは、後に英連邦内の自治領として極めて高度な自治権を得たが、この法律までは、イギリス議会の潜在的立法権に服していた。とりわけ、実質的なカナダ憲法であった1867年英領北アメリカ法そのものがイギリス議会制定法であったため、カナダは自国の憲法改正をイギリス議会に委ねる必要があった。そこで、イギリス議会は、カナダからの要請を受け、1982年カナダ法においてカナダに対する立法権を放棄することを規定し、カナダ憲法を含め、カナダに適用される旧イギリス議会制定法の改正権をカナダに委譲した。なお、本法の別表には「1982年カナダ憲法」が英仏両語で規定されており、中世以来はじめてイギリス議会がフランス語で行った立法でもある。(佐藤信行)

カナダ法(1791年)(Canada Act)、 立憲条令(constitutional Act)
ケベック植民地を、セント・ローレンス川下流域のロワー・カナダ植民地(現ケベック州南部)、上流域のアッパー・カナダ植民地(現オンタリオ州南部)の二つの植民地に分割した法律。この法によって、初めて「カナダ」の名称が正式に使用された。アメリカ独立戦争後、ケベック植民地西部に約1万人の王党派(ロイヤリスト)が移住、さらにアメリカからの入植者が増加したことによって、まとまったイギリス系人口が誕生した。そのためフランス民法、フランス式土地所有制度を認めるケベック法体制がケベック植民地の状況に合わなくなり、イギリス系のアッパー・カナダとフランス系のロワー・カナダの二つに植民地を分割することになった。また、ケベック法で設置が見送られた議会は、カナダ法によって両植民地それぞれに設置された。しかし、その権限が制限されたため、これが19世紀前半の政治改革運動につながっていく。
 さらに、カナダ法によって、アッパー・カナダ植民地にはイギリス法やイギリス式土地所有制度などが導入され、同植民地内で英国国教会を確立するための聖職者留保地も設けられた。一方、大半がフランス系で占められるロワー・カナダ植民地では引き続きケベック法体制が維持され、今日に至るまでフランス系カナダが存続することとなった。よって、カナダ法によって、イギリス系カナダとフランス系カナダが併存する近代カナダの礎が形成された。なお、同法の訳語として「立憲条例」「憲法条例」が使用されている場合もあるが、現在の日本語の意味での地方自治体が定める法の「条例」ではないので、注意されたい。 (木野淳子)

カナダ放送協会(Canadian Broadcasting Corporation:CBC)
放送法に基づき設置された連邦公共事業体。ラジオ・テレビ番組をすべての国民に提供するため、複数のチャンネルとインターネットを通して、英仏語と八つの先住民言語で放送している。公共放送として、連邦議会への年間報告書や事業計画などの報告義務がある。カナダでは、国内すべての放送事業を連邦独立行政機関のカナダ・ラジオ・テレビ・電気通信委員会(CRBC)が放送免許付与などを通して管理しているが、特にCBCに対しては、自国制作番組(カナディアン・コンテント)の放送時間量など公共への奉仕という視点から、民放より強い規制を行なっている。
 設立は1936年で、アメリカ合衆国のラジオ番組が国内に流入してくることへの危機感を背景に、イギリスBBCをモデルにしていた。1945年以降、国際放送(ラジオ・カナダ・インターナショナル)も継続している。テレビ放送は1952年、民放に先駆け国内で最初に開始した。放送法によると、CBCの番組には、①カナダ独自のコンテンツを提供すること、②全国および各地域独自の視聴者のニーズに奉仕すること、③文化的交流に積極的に寄与すること、④英仏語でそれぞれのニーズを反映し、両サービスは同等の質を保つこと、⑤国民としての意識およびアイデンティティの育成に寄与すること、⑥多文化的、多民族的性格を反映すること、などが求められている。

主財源は国庫交付金が最も多く(2010年度は64%)、次いで広告(同20%。日本のNHKとは異なり、コマーシャル放送がある)。アナログ放送からデジタル放送への移行(2012年までに完了予定)、国内で有数のアクセス数を誇る自社サイトの拡充やモバイル端末への適合など、「コンテント会社」を合言葉に、多チャンネルの技術発達に対応している。(宮原 淳)

カナダ保健法(Canada Health Act)
→「医療保障制度」参照。1984年施行。公的に財源調達された医療保険に適用される連邦法。同法の目的は、受診・入院時にすべての適格なカナダ住民に対して、医学的に必要な医療サービスを患者負担なしで得られることを保障することにある。同法は、州・準州政府が、連邦政府から連邦補助金(2011年現在、「カナダ保健移転(Canada Health Transfer)」の名称のもとに実施)を得るために、満たさなければならない5基準(criteria)と2条件を定めている。5基準とは、住民すべてに普遍的適用、包括的な医療サービス提供、受診が容易であること、州外でも利用できる携帯性、および公的管理であり、「メディケア5原則」とも呼ばれる。この法律が、診療・入院での医学的に必要な医療サービスに対して患者負担を禁じる、いわゆる無料医療の根拠になっている。(岩﨑利彦)

カナダ保守党
カナダの保守勢力を代表する政党であるものの、これまでいくたびか合従連衡を繰り返し、党名は変遷をへて現在のカナダ保守党となっている。カナダ建国後の30年ほどは、ジョン・A・マクドナルドに始まって長期政権を維持したが、その後はカナダ自由党の後塵を拝することが多い。現在のカナダ保守党は、2003年に進歩保守党とカナダ同盟が合同してできた「新しい」中道右派政党である。保守党系勢力はカナダの二大政党の一角を占めるものの、カナダ自由党に比べてこれまで政権を担当した期間は短い。しかし1984年から1993年にかけてのブライアン・マルルーニ政権(進歩保守党)、2006年から2015年までのスティーヴン・ハーパー政権はともに、カナダ自由党優位に語られることが多いカナダ政治史のなかで間違いなく大きな足跡を残している。たとえばマルルーニ政権はアメリカのレーガン政権と北米自由貿易協定(NAFTA)を結び、それまでのトルドー政権などカナダ自由党政権が固執してきた保護貿易的な政策から大きく転換することとなった。現在のカナダ保守党は、建国以来の西漸拡大プロセスで生まれた、西部諸州(アルバータ州、ブリティッシュ・コロンビア州)などを地盤とする政党である。東部の伝統州を地盤とする老舗政党であるカナダ自由党に比べると、新興政党的な位置づけでもあるとも言えよう。イデオロギー的な面では、進歩保守党時代までは、イギリスの保守主義に由来する、弱者にも目配りする保守主義(レッド・トーリー)の側面も強くあった。たとえばピエール・トルドーの陰に隠れて目立つことのなかったロバート・スタンフィールド党首やジョー・クラーク首相はそのような立ち位置だったとされる。現在ではカナダ同盟の前身である改革党が強硬に主張した新自由主義的経済政策が、カナダ保守党のイデオロギーの中心をなしている。改革党時代、連邦政府の政策がケベック州ばかり優遇していると強烈に批判することで一定程度の支持を集めたものの、「保守合同」以降は政権奪取を念頭に穏健化し、また中絶や同性婚についても明確に反対姿勢を示さなくなった。長期政権を率いたハーパー首相以降、支持が安定せず第二党に甘んじており、党首も短期間で交代する傾向にある。(岡田健太郎)

カナダ理解促進プログラム (Understanding Canada Program)
カナダ理解促進プログラムとは、冷戦後、大国による経済力や軍事力の絶対性が失われ、国際関係に影響を及ぼす形態の変化に伴って、中小国の影響力が増していく(ミドルパワーを参照)中で、文化や標榜する価値観を国の魅力(ソフト・パワー)として1980年代にカナダ連邦政府が打ち出した文化・外交政策である。このプログラムの目的は、海外の学者や影響力のあるグループの間で、カナダとその価値観、文化についての知識と理解を深めることにあった。また、本プログラムの一部は、さまざまな分野でカナダに関する教育、出版、会議を促進するために利用することができ、学会支援、研究支援、カナダ関連図書の整備など各国におけるカナダ研究の促進を促すことになった。この政策の学問的中心を担ったのがヨーロッパ、南米、東・南アジア、オセアニアなどの各国のカナダ学会を擁した緩やかな連合体であるInternational Council for Canadian Studies (ICCS: カナダ研究国際協議会を参照) であった。この政策は2007年度までそれを維持したが、世界的金融危機に際してスティーブン・ハーパーの保守党政権が、文化予算の削減や助成プログラムの廃止を含む大幅な予算削減を断行した結果、カナダ遺産省や外務貿易省(当時)の文化奨励プログラムは全て廃止に追いやられ文化外交に大きな影響を及ぼすことになった。2012年にはカナダ放送協会に対する助成金も大幅に削減され、部署によっては廃止となると同時に、カナダ研究に対する研究者及び学会に対する国際的な助成プログラムも全廃された。ただし、ケベック州政府のみは、 この保守党の政策に反してConseil des arts et des lettres du Québec (CALQ: ケベック州芸術文化評議会)に緊急支出を行い、連邦政府とは別にケベック独自の文化的アイデンティティの確立を通して分離独立の機運の向上を目指したことは注目に値する。CALQは2005年にメセナ・プラスマン・キュルチュール (Me?ce?nat Placements Culture) という州政府と企業及び個人からの寄付によるプログラムを新設して、ケベックの文化・芸術の促進を図っているが、2011年に連邦議会選挙で独立推進派のブロック・ケベコワが惨敗し、分離独立の是非を問うたケベック党も14年の州議会選挙で自由党に敗れて独立の推進力を失ったことで、CALQ への支援も幾分か縮小されている。(下村雄紀)

カナダ歴史博物館 (Canadian Museum of History)
ケベック州ガティノーにある国立博物館。カナダ歴史博物館は、年間来館者数が120万人を超える、カナダで最も来館者の多い博物館である。2013年に「カナダ文明博物館」から「カナダ歴史博物館」へと名称が変更された。改称後の博物館は、歴史に焦点をあて、カナダの歴史やアイデンティティへの理解を深めることが目指されている。
 同館では、トーテムポールが立ち並ぶグランドホール、ファーストピープルホール、そしておよそ2万年前からの人類の歴史から今日に至るまでのカナダの歴史を展示するカナディアンホールなどの常設展示に加えて、世界の歴史や人々に関する特別展示も毎年開催されている。さらにカナダ子ども博物館(Canadian Children’s Museum)や3Dスクリーンを持つCINE+が併設されている。
 カナダ歴史博物館の所蔵コレクションは400万点を超え、1851年にカナダ植民地(Province of Canada)発行の切手を含む3000点の切手も含まれ、うち21万8千点はオンラインでアクセス可能になっている。さらに北米地域におけるフランスの入植期を対象にしたバーチャル博物館(ニューフランス・バーチャル博物館)もオンラインで提供されている。(溝上智恵子)

カナダ連邦騎馬警察(RCMP) (Royal Canadian Mounted Police)
カナダの連邦レベル、およびオンタリオ州、ケベック州を除く州レベルを統括するカナダの国家警察。当初は、1873年にカナダ西部の治安維持組織、ノースウェスト騎馬警察(Northwest Mounted Police, NWMP)として創設された。1867年に東部4州で誕生したカナダ自治領は、1869年にハドソン湾会社から移譲された広大な西部の土地の大部分を、1870年にノースウェスト準州として編入した。そこで、NWMPは、先住民とカナダ政府との間の土地譲渡条約の締結の監督、アメリカからのウィスキー商人の取り締まり、先住民と白人の間のトラブルの解決など、西部に白人の定住を進めるため、西部の治安維持に努めた。NWMPの存在によって、カナダ西部では、アメリカに比べ流血事件が少なかったと言われる。1904年には、南ア戦争での貢献によってエドワード5世から名誉の称号「ロイヤル」を授かり、組織の名称はロイヤル・ノースウェスト騎馬警察(Royal Northwest Mounted Police, RNWMP)となった。1920年、RNWMPは、ドミニオン警察を吸収して、現在の名称のRCMPとなり、本部もそれまでのサスカチュワン州リジャイナからオタワに移った。(田中俊弘)

カナディアン・コンテント(Canadian Content)
カナダで制作したカナダ人のためのテレビ・ラジオ番組を、放送政策でカナディアン・コンテントと呼ぶ。アメリカ合衆国の巨額予算の高視聴率番組などに対抗し、自国文化の保護と促進を目的としている。放送法に基づき、連邦独立行政機関のカナダ・ラジオ・テレビ・電気通信委員会(CRBC)が、各局の放送すべきカナディアン・コンテントの時間を具体的な数値で規定している。原則、年間の全放映時間中最低6割を占めることが必要。テレビでは、プロデューサーと主な制作スタッフがカナダ人であること、制作費用がカナダ人に対して支払われることなどの条件があり、ラジオでは音楽も規制対象。(宮原 淳)

カナディアン・シールド
カナダ楯状地を参照。

カナディアン・ロッキー(Canadian Rockies)
日本ではロッキー山脈の名称がブリティッシュ・コロンビア州全体の山地のように地図に描かれることもあるが、カナディアン・ロッキーは太平洋岸の海岸山脈とは乾燥した高原地帯によって明瞭に区別されている。そして厳密にはアメリカ合衆国のモンタナ州との境界からアルバータ州・ブリティッシュ・コロンビア州の境界に沿って北西に延び、リアード川の平原で終わり、その西側はロッキーマウンテントレンチと呼ばれる地球上で最も長い断層谷の1つで限られている山脈である。この山脈の自然環境(景観)はカナダで最も価値のある観光資源の1つである。その中心は1885年に指定されたカナダで最も古い国立公園のバンフであるが、その他にも、ジャスパー、ヨーホー、クートネー、ウォータートン・レイクという国立公園があり、5つの国立公園の合計面積は2万km2以上で日本の四国の面積よりも広い。(阿部 隆)

カノーラ(Canola)
カノーラは、エルシン酸を含まない、グルコシノレート含量の低い菜種油の品種として「カナダの食用油」として有名になった。1970年代以降、カナダの肥沃な土地で盛んに栽培されるようになり、カナダの重要な輸出産品となっており、カノーラは日本にも大量に輸入されている。一方、2004年には、遺伝子組み換えに関連して、除草剤耐性の遺伝子組み換えされたカノーラに関するカナダ最高裁でモンサント社が農民に勝訴するという問題が起きている。(草野毅徳)

加米互恵通商協定(1935年)
加米互恵通商協定は、1935年に発効した加米間の互恵通商協定。アメリカは1934年に定めた互恵通商協定法に基づいて、1938年までに19カ国と互恵通商協定を締結している。カナダとの間では1935年11月にキング(William McKenzie King)首相とローズベルト(Franklin Roosevelt)大統領の間で調印された。本協定によって、ベネット(Richard B. Bennet)前政権で最高水準に達していた貿易障壁が徐々に解除されていった。本協定によって、カナダはアメリカからの主要輸入品目の自動車・同部品、鉄鋼、鉄道車両、電気機器、農業用機械、事務用機器、繊維製品、化学製品等で関税を引き下げた一方、アメリカはカナダに対して新聞用紙、パルプ材、木材パルプ等を引き続き無税とし、家禽類、ウイスキー、農産物、木材製品等について関税を引き下げた。本協定により加米両国は相互に最恵国待遇を与えた。またそれ以後、アメリカには中間関税が適用されることになった。本協定はカナダの英国離れを加速させ、アメリカとの緊密な関係を築く起点となった。(飯澤英昭)

加米自由貿易協定(1989年)
加米自由貿易協定は、1989年1月1日に発効した加米二国間協定。1984年総選挙で政権に就いた進歩保守党のマルルーニー(Brian Mulroney)首相が、1985年9月にレーガン(Ronald Reagan)大統領に自由貿易交渉を申し入れ、1986年5月に交渉が開始されて、1988年1月2日に調印された。本協定をめぐって、カナダ国内では経済的、政治的、文化的なナショナリズムの立場からこれに強く反対する意見もあったが、対米輸出に大きく依存するカナダ経済の活性化にはアメリカ保護主義への動きを牽制し、アメリカ巨大市場へのさらなる参入が必要であった。本協定は貿易額では世界最大規模の二国間協定であり、関税の撤廃、輸入制限措置の改善、さらには政府調達、農業・エネルギー貿易、サービス、金融、知的所有権、投資の他、紛争解決パネルの設置など包括的な規定が盛り込まれた。また本協定をもとに1994年1月1日にはメキシコを加えた北米自由貿易協定が発効している。(「北米自由貿易協定(NAFTA)」参照。)(飯澤英昭)

紙・パルプ産業
カナダの経済成長の軌跡をたどると、輸出品目としての天然資源の重要性を指摘することができる。当初のたら(鱈)、毛皮に続く主要な輸出商品(ステープル商品)として、19世紀の初めに紙・パルプ産業が登場する。これはイギリスの特恵関税を利用した木材や木造船等の輸出であり、当時の貿易額全体の4分の3を占めたといわれている。しかし1850年代初めには、小麦の輸出が木材にとって代わることになった。その後、カナダ国内の工業化の進展とともに、ケベック州を中心とした豊富な水量と木材を利用して輸出用新聞用紙をつくる紙・パルプ産業の成長が顕著となった。ケベック州の紙・パルプ生産は、1915年までにはカナダ全体の紙・パルプ生産量の半分、カナダの全産業の輸出額の3分の1を占めたといわれる。ただ、現在の紙・パルプ産業には当時ほどの勢いはなく、2019年のカナダの輸出品目を見てみると、鉱物性生産品(26.5%)、自動車・関連部品(14.3%)、一般機械(7.2%)、卑金属(7.1%)、化学工業製品(6.5%)に続く第6位(6.2%)を占めるに過ぎない。とはいえ、日本との貿易においては輸出のうち動物性・植物性生産品(35.9%)、鉱物性生産品(31.6%)に続き第3位(11.6%)が紙・パルプ製品となっていることは、この産業の重要性を示すといえる。(榎本 悟)

カムループス(Kamloops)
カムループス市はブリティッシュ・コロンビア州の行政府であるトンプソン・ニコラ地域に位置する。面積297.57km2、人口10万人強で、標高は海抜346m。カムループスの由来は先住民のシュスワップ族の言語で、「水の集まる場所」を意味し、地域はトンプソン川の2つの支流の合流点に位置し、東にはカムループス湖がある。ヨーロッパ人からの入植は1812年に太平洋毛皮会社(the Pacific Fur Company)の貿易商であったアレキサンダー・ロス (Alexander Ross) が「カムクループス砦 (Fort Cumcloups)」を設立したことにはじまる。同会社はノースウェスト会社との合併を経て、1821年にハドソン湾会社 (the Hudson’s Bay Company)が経営権を取得し、「トンプソン砦」後に「カムループス砦」と呼ばれる毛皮商の前哨基地となった。カムループスは、先住民と毛皮商との共存と軋轢の歴史をもつが、1862年の天然痘の蔓延で多くの先住民が壊滅的な被害を被ったことで、白人の入植者が支配的となり、ゴールドラッシュ期には鉱山への中継点の役割を果たし、1893年にはカムループス市となっている。この地には戦前から住む日系人家族もあり、現在は人口の0.9%にあたる800人強が住んでいる。(下村雄紀)

カリブー(Caribou)
北米産野生トナカイ。学名、Rangifer tarandus(Linnaeus)。語源はカナダのフランス語、おそらくは北米インディアン、アルゴンクィアン語の「掻く者」という意味のハリブ(xalib)に由来する。ヨーロッパおよびアジア北部のトナカイと同一種に属するが、カナダでは地域差にもとづく5亜種が認められる。カナダ北部のバーレン・グラウンドに生息するカリブーにおける雄の体長は平均180cm、肩高110cm、角長96cm、体重は110kgであるが、雌はこれより小さい。雄雌とも通常、枝角を持つが、毎年はえかわる。体色は暗褐色であるが、首部、臀部、蹄上部は白色となる。5~10万頭の群れとなり毎年季節移動をおこない、5~6月に凍土帯(ツンドラ)で出産期を迎え、9~10月に発情期を経て、冬には森林帯へと移動し、小集団に分散する。地衣類(トナカイゴケ)を主食とするが、草、ヤナギ等も食す。イヌイット、およびカナダ北部のインディアンにとっての経済的地位は高く、肉、毛皮、骨は食料、衣服、天幕、各種の道具として利用される。(煎本 孝)

カルガリー(Calgary)
人口約130万人、アルバータ州最大の都市。西部治安維持のために創設された騎馬警察隊本部や、カナダ太平洋鉄道の本社が置かれ、歴史的にも意義深い都市である。ロッキー山脈の麓から80キロほど東に進んだ標高千メートルの高原地帯に位置し、国立公園を中心とする観光地への玄関口となっている。7月に開催されるスタンピードは、カウボーイ文化の祭典として、アメリカからの参加者も招いて開催されるカルガリーで最も大きなイベントである。市内中心部には、石油、天然ガス、オイルサンドなどの天然資源の掘削や加工に関連する大企業の高層ビル群がそびえ、活発な経済活動の下、国内の他州および国外からの移住者が増えている。カルガリーの経済団体は、州政府の様々な政策に強い影響を与えており、アルバータ州は、カナダ国内で唯一の売上税(州税(PST))を徴収しない州となっている。2005年に日本国総領事館は、州都であるエドモントンからカルガリーに移された。近年の脱炭素志向や原油価格の変動などにより、石油関連企業がやや不調傾向に陥ることもあり、社会経済的格差の拡大などの課題も抱えているが、西部カナダにとって重要な都市である。(岡部敦)

カルガリー大学(University of Calgary)
アルバータ州最大の都市カルガリーにある総合大学。アルバータ州創設翌年(1906年)に、カムローズやエドモントンに先駆けて州内で最初に誕生した教員養成学校(Calgary Normal School)がその原点であるが、1908年に設立された州立大学(アルバータ大学)はカルガリーではなく州都エドモントンに置かれ、1946年にカルガリーの教員養成学校はアルバータ大学教育学部に編入された。その後、人文学や科学、商学、工学など他の学部についても、アルバータ大学カルガリー支部としてのコース開設が進められ、ようやく1966年に分離して新設大学となった。2021年現在、14の学部・研究科で26,000人以上の学部生と6,000人以上の大学院生が学んでいる。カルガリー市内に5つのキャンパスがあるが、メインキャンパス(ダウンタウンから北西に約2キロ。Cトレイン(LRT)でダウンタウンと繋がっている)には11学部が置かれている。研究大学としても評価されており、国内に9つある研究中核拠点(Center of Excellence, COE)の1つでもある。(田中俊弘)

カルティエ,ジャック(Cartier, Jacques 1491-1557)
フランスの航海士、探検家。金・銀の発見とアジアへの道を探るため、フランス国王フランソワ一世の命を受けカナダ東部を三回探索した。第一回航海は1534年、ニューファンドランド島北岸からベル・イル海峡を通り、ガスペ半島に上陸する。そこをフランス領と宣言し、これが北米におけるフランス領占有の根拠となる。同航海を通して、先住民との出会い、豊富な漁場の発見、および自然地誌の判明に連なっていく。ただし、本命の金・銀やアジアへのルートの発見には至らなかった。第二回航海は1535-36年にかけて行われる。今回はセントローレンス川をさかのぼり、スタダコナ(現在のケベック)およびオシュラガ(現在のモントリオール)にまで達する。これがさらなる北米内陸部浸透への足がかりとなる。カナダの厳しい冬を初めて体験したのも、今回の探検だった。そして第三回航海は1541年で、ルートは前回とほぼ同じだが、規模と目的において大きく変化していた。カナダへの植民活動を意図していたのである。乗船者には農夫、職人、聖職者に加え、生活用動物として牛、ヤギ、豚なども積み込まれていた。しかし、フランス本国での政情不安のため、植民活動は中断してしまう。本格的植民活動は17世紀まで持ち越される。なお、彼は『航海記』を残している。(竹中豊)

ガルブレイズ,ジョン(Galbraith, John Kenneth 1908-2006)
オンタリオ州生まれ。戦後アメリカを代表する経済学者であり、制度学派の流れをくむ。オンタリオ農業大学を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校でPh.Dを取得。ハーバード大学などで教鞭をとる。第2次世界大戦中には物価行政局に関わり、1961-1963年にはケネディ政権下でインド大使を務め、1943~1948年には雑誌『フォーチュン』の編集に携わった。1972年アメリカ経済学会会長、1997年カナダ勲章受勲。主著『ゆたかな社会』The Affluent Society(1958)、『新しい産業国家』The New Industrial State(1967)の他にも、日本でベストセラーとなった『不確実性の時代』The Age of Uncertainty(1977)など多数の著作がある。(宇都宮浩司)

観光産業(Tourism Industry)
観光産業はカナダ経済で重要な役割を果たしており、カナダ統計局によると2019年にはカナダ全体の約10%にあたる190万人の通年雇用を生みだし、GDPでは全体の2.0%を占めた。観光産業には宿泊業と飲食業、娯楽・レクリエーション業、運輸業、旅行業の5部門が含まれるが、その従事者の3分の1近くが24歳以下の若者であり、また4分の1余りが移民もしくは非永住者である。2019年にはカナダを訪れた外国からの観光客は2,200万人とこれまでのピークに達し、そのうち約70%がアメリカ人であり、これに次ぐのがイギリス、中国、フランス、ドイツ、オーストラリア、日本、メキシコ、韓国、インドからの観光客であった。これに対してカナダ人が訪れる外国は、アメリカ合衆国が最も多く、メキシコ、キューバ、イギリス、中国、イタリアがこれに続く。カナダ観光の魅力は、第1はカナディアンロッキーやナイヤガラの滝などの大自然を満喫したり野生動物を身近に見たりすること、第2にトロントやモントリオール、バンクーバー、オタワなどの都市の景観や文化、娯楽を楽しむこと、第3にスキーやキャンプ、カヌーなど様々な体験型活動を行うこと、第4に多様な文化や歴史にふれることである。さらにカナダ観光局は、冬季を中心としたオフ・シーズンの観光、先住民など固有な文化や歴史、行事などを対象とした観光、農村での体験や農産物と食文化に関わる観光などを促進しようとしている。治安が良いことや住民のホスピタリティもカナダの観光を促進している。空港や鉄道駅などの交通拠点や主要な都市のみならず、人口が千にも満たない小中心地にも観光案内所が設けられ、それぞれの地域の観光情報や地図が容易に入手できる。新型コロナウイルス感染の拡大でカナダの観光産業は大きな打撃をうけ、カナダ統計局によると2020年の観光産業のGDPは47.9%、雇用は28.7%も減少した。2021年末になってもこの停滞状況が続いている。(田林 明)

急進的改革派(Radical Reformers)
アッパー・カナダ、ロワー・カナダ両植民地において、それぞれの寡頭支配層である「ファミリー・コンパクト(家族盟約)」と「シャトー・クリーク(城塞閥)」に対抗して改革を求めた者のうち、最終的には武装蜂起に至った過激論者の総称。アッパー・カナダ植民地では、「ジャクソニアン・デモクラシー」の影響を受けアメリカ型改革をめざしたウィリアム・ライアン・マッケンジーが代表例である。彼は、責任政府獲得を図る穏健的改革派と次第に袂を別ち、1837年、反乱を起こした。ロワー・カナダ植民地では、同じ年に反乱を起こしたルイ=ジョゼフ・パピノーが代表例で、自由、民主主義、共和制を信奉する愛国者党(パトリオト)を率いた。(細川道久)

騎馬警官隊(Mounted Police)
カナダ連邦騎馬警察(RCMP) (Royal Canadian Mounted Police) 参照

キムリッカ,ウィル(Kymlicka, Will 1962- )
カナダの現代政治哲学者。クイーンズ大学哲学部教授。1987年にオックスフォード大学で哲学博士号取得。1998年からは母校であるクイーンズ大学哲学部で教鞭をとる。リベラリズムの立場から、多文化社会におけるマイノリティの権利保障について精力的に研究。移民、先住民族、少数民族の権利を保障する「多文化市民権(multicultural citizenship)」の概念を提唱し、人権保障の理論的地平を広げた。日本でも『多文化時代の市民権?マイノリティの権利と自由主義』(晃洋書房、1998年)、『現代政治理論』(日本経済評論社、2002年)、『新版 現代政治理論』(日本経済評論社、2005年)、『土着語の政治―ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ』(法政大学出版局、2012年)『多文化主義のゆくえ―国際化をめぐる苦闘』(法政大学出版局、2018年)など多くの著書が翻訳されている(大岡栄美)。

教育制度
教育に関する組織であって、社会的に公認され定着しているものを総称する。多くの場合、国家や行政が教育に関与するようになり、学校体系が法や規程で明らかになった時代以降の教育の組織をいう。初等教育、中等教育(中学校・高等学校レベル)、高等教育(または中等後教育)に大きく分類される。中央集権度の強い場合と地方分権度の強い場合とで異なった様相を示し、カナダは後者に属する。
 カナダでは、中等教育は各州の教育省、したがって州教育大臣が、初等教育については各地の教育委員会が、実質的決定権をもっている。したがって、初等教育と中等教育の制度については、州によって大変異なっており、8-4制、6-3-3制、6-5制、7-2制、6-5制などの形態がある。近年では州間の人口移動が多くなり、州相互の調整の必要性が認識され、州教育大臣協議会(CMEC)を設け、州相互の情報交換・調整に当たっている。連邦政府レベルの文部省はない。
 高等教育機関に関しては、教育省の管轄ではなく別に高等教育省を設けている州もある。高等教育機関の典型である大学はその自治権が大きく、教育省または高等教育省の監督が弱いが、その割に大学間の差は小さい。大学のみでなく、カレッジ等の各種の内容の高等教育機関が最近では増えているが、カレッジの性格は、大学へ編入できる州とできない州があるなど、制度的にも内容的にも州によって大きく異なる。
 カナダでは教育を分類する時、わが国で通常である学校数育と社会教育というような区分はせず、それらは内容的制度的には混在している。代わって、成人教育とその他の教育(従来的観点の若い人の教育)という区分が採用されている。(関口礼子)

極北
極北(far north)として明確に定義された地理的範囲はないが、一般的には北米大陸北部、樹木限界以北の一帯を指す場合が多い。この地域は生態的には北極域(Arctic)を構成するもので、極度に寒冷な気候(平均気温が10度を越える月がない)のために樹木が生育できず、そこには樹木を欠如するツンドラ景観が発達する。ここでは農業生産はもとより、林業的利用も行なわれないが、カリブーをはじめ野生動物の豊富なところで毛皮獣などの狩猟が行なわれている。この地域は水鳥の繁殖地として重要なところで、夏は多くの水鳥でにぎわう。カナダ北部において樹木限界線以北にイヌイット、以南にはファースト・ネーションズ(旧称インディアン)と両者が生態的に住み分けているのは興味深い。(小島 覚)

キルパン事件
金属製でダガーのような形状をしているシーク教の宗教的装飾物であるキルパン(kirpan)を公立学校に持ち込むことの是非が争われた事件。キルパン事件の発端は、キルパンを常に身につけていなければならないと真摯に信じていた正統派シーク教徒のムルタニが、当時通学していた公立学校の校庭に誤ってキルパンを落としてしまい、キルパンを武器・危険物の持ち込みを校則で禁止する当学校に持ち込んでいたことが発覚したことにある。教育委員会はキルパンを鞘に納め厳重に梱包し衣服の下で携帯するのであれば学校に持ち込むことを許可するとしたが、学校理事会は校則を理由にこれを認めなかった。教育委員会の運営評議会は学校理事会の決定を支持した。ムルタニは、キルパンを学校で携帯する権利を有することの宣言的判決などを求めて、ケベック地方裁判所に出訴した。ケベック地方裁判所は運営評議会の決定を無効としたが、ケベック控訴裁判所は、地方裁判所の決定を破棄し、運営評議会の決定を支持したため、カナダ最高裁で争われることになった。カナダ最高裁は、全員一致(結果同意意見を含む)の判断で、キルパンの学校への携帯を全面的に禁止することは、1982年カナダ憲章およびケベック州人権憲章が規定する信教の自由を制約し、憲章1条のもとで信教の自由の制約を正当化することもできないと判断した(Multani v. Commission scolaire Marguerite-Bourgeoys, [2006] 1 S.C.R. 256)。すなわち、カナダ最高裁は、学校の安全と信教の自由の調整をおこない、教育委員会が当初提示していたような特定の条件のもとでもキルパンを学校に持ち込むことを許容しないことが信教の自由を侵害すると結論付けた。この時すでにムルタニは私立学校に転校していたため、カナダ最高裁の救済は、全面的なキルパンの学校への持ち込み禁止は無効であると宣言するものとなっている。この事件は、ケベック州の裁判所の判断をカナダ最高裁が覆したことの影響もあり、ケベック州を中心に、宗教に対する合理的配慮(reasonable accommodation)の行き過ぎ、ひいてはカナダの国是でもある多文化主義にも関わる論争を巻き起こし、「文化的差異に関する調和の実践をめぐる諮問委員会」が発足される引き金ともなった。(山本健人)

キング,W・L・マッケンジー(King, W. L. Mackenzie 1874-1950)
1921年以降断続的にではあるが、1948年までカナダ連邦首相の座についた自由党の政治家。カリスマ性などリーダーの資質に恵まれていないと評価されながらも、カナダ最長の首相在任期間を誇る。アッパー・カナダの反乱(1837年)の指導者だったウィリアム・ライアン・マッケンジーを母方の祖父に持ち、それがファーストネームとミドルネームになっている。1907年にバンクーバーの日系人コミュニティーが被害を受けた「バンクーバー暴動」の当時、労働次官として迅速に調査に関わった。翌年の補欠選挙で勝利し、1909年には新設の労働大臣に就任している。その後1911年選挙に敗れると政界を一旦離れてアメリカ合衆国に行き、ロックフェラー財団で労使関係研究部門のディレクターを務めた。その後、1919年に亡くなったウィルフリッド・ローリエの後任に選ばれて自由党党首となり、2年後の選挙でアーサー・ミーエン保守党を破って連邦首相に就任した。以後、政治スキャンダルや世界大恐慌期の無策などで野党に転落しつつも再び政権を奪還し、第二次世界大戦も巧みに乗り切って、1948年自由党の後任ルイ・サンローランに首相の座を譲った。カナダ市民権法(1946年)によって1947年に法的な意味で「最初のカナダ市民」となった人物でもある(それ以前は皆が「カナダ在住の英国臣民」だった)。生涯独身を貫き、私生活面では謎も多いが、スピリチュアリズムに傾倒したこと、第二次世界大戦開戦前の段階ではヒトラーに対して共感を抱いていたことなども知られている。太平洋戦争時の日本人移民・日系人への強制移住などの政策責任者として、批判の目が向けられる。彼の膨大なページ数の日記は、タイプされ電子化されてオンラインでも読むことが可能である。50カナダドル札に彼の肖像画が描かれている。(田中俊弘)

キングストン(Kingston)
オンタリオ州南東部の港湾都市。人口約12万4千人。セント・ローレンス川流出口近くのオンタリオ湖北東岸に位置し、オタワへ通じるリドー運河の入口、セント・ローレンス幹線水路のウエランド運河への乗換え点として重要。1763年、フランスがここにフォール・フロントナックを建て、この砦がセント・ローレンス川上流域進出の拠点となった。1783年のアメリカ独立戦争終結後、王党派(ロイヤリスト)にこの土地が与えられ、イギリス系の主要な居住地として発展した。鉄道車輌工場・穀物塔などがあり、クィーンズ大学の所在地。(島田正彦/木野淳子)

クィーンズ大学(Queen’s University)
1841年に創設されたオンタリオ州キングストンにある公立大学。現在では大学生約19500人、大学院生約3400人、その他を合わせると約26300人の学生が在籍している。医学・看護・リハビリ療法を合わせた健康科学部や工学・基礎工学部をはじめ、法学部、教育学部、経営学部などがある。豊富な研究費を持つ研究機関としても有名であり、2015年には、Arthur B. McDonald教授が梶田隆章教授とノーベル物理学賞(ニュートリノ振動を発見)を共同受賞した。また、高円宮憲仁親王が留学したことでも知られている。(杉本公彦)

クック, ラムゼイ (Cook, George Ramsay, 1931-2016)
カナダの歴史を専門とする学者・研究者。『カナダ生活史事典(Dictionary of Canadian Biography)』の編集主幹。歴史学教授として、トロント大学(1958-1968)、ヨーク大学(1969-1996)で教鞭をとる。またハーバード大学 客員教授(1968-1969)およびエール大学客員教授(1978-1979、1997)としてカナダ研究の講座を持つ。1985年にはカナダ総督賞受賞。カナダ王立協会(Royal Society of Canada)が芸術、人文科学、科学、およびカナダの国民生活に対し顕著な貢献をした個人に対して与える「カナダ王立協会フェロー」であり、1986年にはカナダ勲章(Order of Canada)を受けている。「限定的アイデンティティ(limited identity)」を掲げる論客として、クックは「階級、ジェンダー、エスニシティ」を用いた「新社会史」の興隆に貢献した。彼の歴史分野における貢献に敬意を表して1997年にはヨーク大学で「ラムゼイ・クック研究賞」が設けられた。
 日本との関わりが始まったのは、基調講演者として招かれた1982年のJACS年次大会であり、その後、多くの機会に日本を訪れ、日本におけるカナダ研究の広がりと深まりに貢献した。1994年には日本政府から瑞宝章を受けている。(飯野正子)

クープランド,ダグラス(Coupland, Douglas 1961- )
カナダの作家。1961年12月30日、NATOのカナダ軍基地(旧西独領内)で生まれる。ヴァンクーヴァーで育ち、現地のエミリー・カー美術大学で彫刻を学び、また札幌やミラノの美術学校にも留学する。1986年より雑誌記事を書き始め、1991年に初の小説『ジェネレーションX――加速された文化のための物語たち』をニューヨークで出版。前世代を揶揄しつつ、未来への展望もなく物質文化に浸る「X世代」(1950年代後半から60年代生まれ)を活写したもので、ベストセラーとなる(翌年の第2作『シャンプー・プラネット』ではその次世代を描く)。小説、脚本、ノンフィクション等多数。近年は美術作品も製作する。ヴァンクーヴァー在住。(宮澤淳一)

グールド,グレン(Gould, Glenn Herbert 1932-1982)
20世紀を代表する世界的ピアニストであり、音楽とメディアをめぐる思想家。1932年9月25日トロント生まれ。幼少より楽才を発揮、トロント音楽院でアルベルト・グレーロにピアノを師事する。1947年、15歳で初リサイタル。1955年1月のニューヨーク初公演でレコード会社(米コロンビア)に認められ、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』を同年に録音し、翌年発売。抒情と躍動感あふれる斬新な解釈で一躍世界に乗り出す。1957年には北米のピアニストとして戦後初めてソ連を訪れ「バッハの再来」と騒がれる。北米に加え、独、墺、英、伊、イスラエルなどでも公演。特異な解釈、古典曲と現代曲中心のレパートリー、夏でも防寒具を着込む奇人として知名度を上げたが、1964年4月10日のロサンゼルス公演を最後にコンサート活動をやめ、以後はレコード制作やラジオ・テレビ番組への出演に専念した。「コンサートは死んだ」という発言に集約されるように、彼は時間的・空間的な「一回性」に支配された生演奏の不毛性を説き、編集行為の可能な電子メディアでの音楽活動の優位性を主張した。さらに彼はカナダ放送協会で、音楽形式を借用して人声を絡み合わせた「対位法的ラジオ・ドキュメンタリー」を製作。1967年の『北の理念』The Idea of Northなど、カナダ辺境の隔絶の状況をテーマとした。1982年10月4日、トロントで脳卒中にて急逝。著書・関連書多数。彼をめぐる小説、戯曲、オペラ等も作られている。死後、グレン・グールド財団が創設され、1987年より3年ごとにグレン・グールド賞が卓越した芸術家に贈られている。(宮澤淳一)

クリーゴフ、コーネリス(Krieghoff, Cornelius 1815-1872)
オランダ出身だがフランス系の女性と結婚し、ケベックに移り住んだ油彩画家。19世紀ケベックの農民の生態・先住民の姿・風景などを多く描いた。当時のケベック社会をリアリティ豊かに表現している点で、カナダ美術史上のみならず、民俗学者や社会史家からも、今日では高い評価をうけている。生涯の作品数は500~700点と言われる。当時、作品の重要な顧客はフランス系でなく、ケベック駐留のイギリス人将校だった。というのは、任務を終えて帰国の際、彼らが母国へのお土産として最も人気を呼んだのが、フランス系の風俗習慣を描いた作品だった。それは、異国風・ケベック風ゆえに、土産品としては最適であった。そのためもあり彼の油彩画は、持ち運びに便利なように小作品が多い。代表作に「四旬節破り」(1845頃)や「遊楽」(1860)などがある。(竹中豊)

グループ・オブ・セブン(Group of Seven)
グループ・オブ・セブンは、カナダ独自の芸術創造を目指し、1920年に結成された画家のグループである。グループ結成時のメンバーは、フランクリン・カーマイケル、ローレン・ハリス、A.Y.ジャクソン、F.H.ジョンストン、アーサー・リズマー、J.E.H.マクドナルド、フレデリック・ヴァーリーの7人で、のちにA.J.カソン、エドウィン・ホルゲイト、L.L.フィッツジェラルドが加わった。彼らは、オンタリオ州北部のアルゴマ地域などを旅しながら、カナダの荒々しい風景を独特の色彩と力強いタッチで描き、ヨーロッパ芸術の模倣ではない新しいカナダの美術表現を確立した。1933年解散。
 グループ結成前にアルゴンキン・パークで謎の死を遂げた画家トム・トムソンは、グループのメンバーに大きな影響を与えたことで知られている。トム・トムソンを含めグループ・オブ・セブンのメンバーたちは著名なアーティストとして広く認識されており、彼らの作品はトロントのオンタリオ美術館やオタワのカナダ国立美術館に所蔵されているほか、オンタリオ州クレインバーグにあるマクマイケル・コレクションの一部になっている。(蜂谷昌之)

クールール・デ・ボワ(森の走者)(Coureurs des Bois)
毛皮交易世界において、植民地の会社や統治者と正式な契約は結ばず、非合法に北米内陸で交易に関わったフランス系毛皮交易者をクールール・デ・ボワ(森の走者)と呼ぶ。同じ彼らをハドソン湾会社のイギリス人はWood-runners、ニューヨークのオランダ人はBush-lopersと呼んでいたというが、基本的に同じ意味であろう。彼らは、現地の先住民から生活の技術を学んで内陸の未開の地で生き抜く術を習得していた。優れたカヌーの漕ぎ手で、狩猟や釣りにも熟達していた。1670年にハドソン湾会社が設立する前から、名もなき森の走者たちが、一攫千金を夢見て先住民とともに五大湖以西の内陸地域に進出していた。彼らの中には先住民の仲買人より先に毛皮を入手する者たちもいて、そのため先住民によってモントリオールやトロワリビエールなどに届く毛皮量が減ったとされている。しかし1681年にヌーヴェル・フランスの当局が毛皮交易のライセンス管理を強化すると、彼らの役割や影響力は徐々に衰え、会社と正式契約したヴォワヤジュール(フランス系カヌー漕ぎ)たちに置き換わっていくのである。(田中俊弘)

グレイ・ アウル(Grey, Owl 1888-1938)
作家。自然保護論者。本名はアーチーボルド・ベレニー(Belaney, Archibald Stansfeld.)。イギリスの中流階級出身。幼少期に本を通して北アメリカ先住民に興味を抱き、17歳でカナダに渡る。そして、オンタリオ州北部に住むオブジワ族と交流し、言語や風習を身につけた。その頃より、自身をスコットランド系の父親とアパッチ族の母親を持つ先住民であるとし、グレイ・アウルと名乗るようになる。当初はビーバーの捕獲に従事したが、2匹のビーバーの子どもを助けたことを機に自然保護論者となった。1931年に出版した処女作「The Men of the Last Frontier」でカナダの自然が消えつつあることを論じて人気を博し、次々と著書を発表するとともに、カナダ、イギリス、アメリカ各地を回って多数の講演をした。しかし、死後、イギリス人であったことを最初の妻に暴露され、批判を受けて次第に忘れられていった。ただし、その後、1970年代に高まった自然保護運動や1999年に公開されたピアース・ブロスナン主演の映画「Grey Owl」により、再び注目された。(時田朋子)

クレティエン、ジャン (Chre?tien, Joseph Jacques Jean, 1934-)
カナダの元首相・弁護士。自由党首として1993年、1997年、2000年の下院議員選挙で歴史的に連続圧勝し、1993年11月より3期にわたり第25代目の首相を務めた。ケベック州では少数派の自由党を支持する貧しい家庭の19人兄弟の18番目として1934年1月11日に生まれた。カトリック教会が強い権力を振るい、独立を推進するケベック社会において、タフガイとして頭角を現し、仏系エリートが学ぶラバール大学法学部を卒業後、弁護士となった。1963年に連邦下院議員として初当選後、2003年12月12日に首相を引退するまで政治家として活躍し、P・トルドー政権下では原住民・北方開発大臣、財務大臣や産業・貿易大臣に任命された他、特に法務大臣として憲法改正に尽力し、1982年憲法の制定に向けて多大な貢献をした。1984年に引退したトルドー首相の後任の党首をめぐる争いではJ・ターナーに敗北するが同政権下で、副首相・外務大臣を務めた。1984年9月の下院議員選挙で自由党が大敗後、クレティエンは1986年に政界から一時引退し、弁護士に戻るが、1990年のターナーの党首辞任を契機に政界に復帰した。1990年にP・マーティンとの党首争いに勝ち、1993年の下院議員選挙で大勝利して以来、首相として2002年12月12日まで強力なリーダーシップを発揮した。内政的には、ライバルのマーティンを財務相に任命し、財政赤字を解消するとともにケベック州の独立・分離を決める州民投票が1995年に実施された際、50.58%が独立反対という結果で収束させ、連邦の分裂を防いだ。が、反独立を推進するための広告費が代理店通して自由党に渡ったという「スポンサーシップ疑惑」や銀行の融資をめぐる疑惑など政治的癒着が次第に問題化された。外交的には2001年の9.11事件の際、米国向けの飛行機のカナダでの臨時緊急着陸を許可するなど米国を支援したが、イラク侵攻には加わらず、隣の大国とは一線を引く独立外交を推進し、国際社会における平和推進国家としてカナダのアイデンティティのアピールに成功した。(水戸考道)

グレーロ,アルベルト(Guerrero, Alberto 1886-1959)
ピアニスト・教育者。表記は「ゲレーロ」とも。1886年2月6日、チリのラ・セレナ生まれ。ピアニスト、指揮者、作曲家、批評家としてチリでの音楽振興・教育に貢献。フランス音楽の紹介やサンティアゴ初のオーケストラの創設にあたる。1914年に母国を離れ、ニューヨークでの演奏活動を経て、1922年よりトロント音楽院(現ロイヤル音楽院)に迎えられる。演奏活動のかたわら、グレン・グールドなど多数のピアニストを育てた。また、作曲家のジョン・ベックウィズ、オスカー・モラヴェツ、マリー・シェーファーなども師事している。20世紀前半のカナダの音楽界の功労者のひとりとして、今なお敬われている。1959年11月7日、トロントで没す。(宮澤淳一)

クロウフット(Crowfoot 1830頃-1890)
ブラックフット(シクシカ)の有力首長。ブラックフット名アイサポ・ムクシカ。多くの戦いに参加した戦士として尊敬され、1869年以降の天然痘流行から生き残ったわずかな首長の中で、最も若い人物として頭角を現した。1872年、敵対する平原クリーとの和平の際、クリーに殺された息子と容姿が瓜二つの若者を養子にした。この人物はのちにクリー首長パウンドメーカーとして知られるようになり、終生義父と友好な関係を保った。ハドソン湾会社の毛皮交易商人や、キリスト教伝道牧師と親交を深める一方、1874年以降ノースウェスト騎馬警察とも友好的関係を築いた。白人社会とパイプを有し、優れた外交力と政治力をもつ彼は1877年にブラックフット連合を代表して、先住民統合政策の一環である「第七条約」に調印した。同年、ラコタを率いるシッティング・ブルが合衆国から国境を越え亡命した際には、当初友好関係を保ったものの、のちに決裂した。1890年、アルバータ近郊で死去した。(岩﨑佳孝)

クローネンバーグ,デイヴィッド(Cronenberg, David 1943- )
トロント大学卒業後、ホラーを中心にテレビ番組を手がけ、近未来SF『スキャナーズ』 Scanners(1981)が全米でヒットし注目を浴びる。『ヴィデオドローム』Videodrome(1983)で映像作品と現実の区別が付かなくなった現代人の危機を描き、作家として注目を受ける。『ザ・フライ』The Fly(1986)でハリウッド映画に進出。1990年代以降はフェティッシュな異常性愛を題材とした作品でスキャンダルを呼んでいる。(馬場広信)

クロンダイク・ゴールドラッシュ
1896年8月16日、ジョージ・カーマック(George Washington Carmack)と彼の義兄弟で先住民のジム(Skookum Jim)とチャーリー(Tagish Charley)がクロンダイク川支流、現在のボナンザクリークで偶然にも砂金を発見したことが引き金となる。新聞各社によるキャンペーン活動もあり、1897-1898年には約10万人もの山師が押し寄せたと言われている。もっとも、このブームは翌年の1899年には終息を迎える。またカリフォルニアやオーストラリアのゴールドラッシュとは異なり、押し寄せた人々がこの地に留まることはなく、人口増加や経済効果は一時的なものに過ぎなかった。(宇都宮浩司)

継承語 (Heritage Language)
カナダの公用語である英語とフランス語、または先住民の言語以外の言語の総称。通常は、移民やその子孫にとっての、母国で使用されている言語や先祖が使用していた言語を指す。連邦政府が1971年に多文化主義政策を採択し、1988年に多文化主義法を制定したことにより、各民族が自分たちの言語を維持して次世代に伝達することが認められ、連邦レベルおよび州レベルにおいてその使用に関して理解ある政策がとられている。
 カナダが多くの移民を受け入れているため、継承語使用者は年々増加している。2016年の国勢調査では、775万人が継承語を母語とし、それは全人口の22%を占めた。上位5言語は、順に中国語、パンジャビ語、タガログ語、スペイン語、アラビア語である。これらを含む22言語には、10万人以上の母語話者がいる。また、140以上の言語が母語として報告されており、継承語は言語的多様性にも富んでいる。さらに、継承語は家庭で使用されることが多いため、母語ではないが、第二・第三言語として流暢に使用するカナダ生まれの2・3世も多い。ただし、継承語使用者は、トロント、バンクーバー、モントリオールなどの大都市に集中している。(時田朋子)

毛皮交易
西ヨーロッパ人をカナダに駆り立てた要因のひとつは、豊富な毛皮動物の存在だった。それは、あたかも南米にスペイン人らをひきつけた黄金にも匹敵する。初期カナダ史とは、先住民と西ヨーロッパ人との毛皮交易の歴史、としても過言ではない。この現象は、「ヨーロッパ文明」のカナダ内陸部への浸透、政治的・経済的版図の拡大にも連なった。毛皮交易隆盛の背景には、西ヨーロッパ社会でのフェルト帽の流行がある。それは王侯貴族の間で、“地位の象徴”として需要が高かった。とりわけビーバーの毛皮は良質で、高値をよんだ。18世紀前半、毛皮はカナダからの輸出量の約7割を占めていた。そして広大な西部地域を管轄下に置き、毛皮交易に大きな役割を果たしたのが、1670年創設のイギリスのハドソン湾会社である。もっとも、近年、動物愛護団体の高まりもあり、1991年には、同社は毛皮販売からの撤退を決め、大英断としてカナダ国内に波紋を呼んだ。(竹中豊)

ケベコワ(Québécois)
「ケベック人」とも言う。1960年代の「静かな革命」期に、ケベックのフランス系住民は、それまでの「フランス系カナダ人」というアイデンティティに代わって、自らを「ケベコワ」と称するようになった。それはフランスの伝統にすがるのでも、英系の「カナダ」に従属するのでもない、新たな決意の発現であった。こうして、エスニシティ依存を薄め、より包摂的なものへとアイデンティティが変化していった結果、いろいろな場面でフランス系以外の人々も「自分はケベコワだ」と考えるようになってきている。マジョリティであるフランス系とそれ以外の住民の意識のずれはまだまだ大きいものの、ケベコワが文化的多様性を含みこんだ方向に着実に歩んでいるように思える。(小畑精和/丹羽 卓)

ケベック-ウィンザー回廊(Quebec-Winsor Corridor)
東のケベック・シティから西のウィンザーまで1,150kmに及ぶ回廊状の都市地域のことである。セント・ローレンス川、オンタリオ湖、エリー湖をつなぐ地溝帯の水上交通を利用して都市が発展し、カナダでもっとも重要な経済地域になった。東から順にケベック・シティ、モントリオール、トロント、ハミルトンなどの主要都市圏が連なっている。この地溝帯は国内でも数少ない優良農地によっておおわれており、北側はカナダ楯状地と接する。東側ではアパラチア山地と境を接する。なお「回廊」という呼称は、ケベック・シティとウィンザーの間を結ぶVia Rail の路線名に由来する。(林 上)

ケベック・カリタス修道女会(Soeurs de la Charité de Québec)
カナダのケベック市に本部を置くカトリックの修道女会。「カリタス」とはキリスト教の「愛」を意味する。この修道会のルーツは、マルグリット・デュヴィル(1701-1771)の創設した「モントリオール・カリタス修道女会、通称、灰色の姉妹会」(1738年)にある。設立の趣旨は「愛のあふれ」を基盤に、「貧しい小さなひとびと」の救いにあった。マルグリットの意思を継承しつつ、1849年にケベック市に誕生したのが、ケベック・カリタス修道女会である。創設者はマルセル・マレ(1805-1871)。おのずとその福音的使命は、奉仕活動や慈善活動などのさらなる実践に向けられた。1953年には3 人のシスターが初来日し、1961年に川崎市に学校法人カリタス学園が創設され、教育共同体として今日に至る。(竹中豊)

ケベック演劇
20世紀以降、サーカス集団シルク・ドゥ・ソレイユなど、ケベック生まれのパフォーマンスは国際的に知られるようになる。その背景には、ケベック州政府の積極的な文化助成政策とともに、ヌーヴェル・フランスの時代から親しまれてきた演劇の伝統がある。「静かな革命」期にミッシェル・トランブレは『義姉妹』(1968)において、ケベックの方言であるジュアルを用い、民衆の姿を描いてみせた。1980年代には、アイデンティティを問い直す演劇作品が多く現れ、またワジディ・ムアワッド(Wajdi Mouawad)や、ミシェル・マルク・ブシャール(Michel Marc Bouchard)、さらにはマリー・ラベルジュ(Marie Laberge)など、移民やLGBT、さらに女性といった、これまでマイノリティとされてきた劇作家も活躍し始める。一方で視覚性と身体性を重視した、ロベール・ルパージュ(Robert Lepage)の斬新な舞台や、ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスなど、数々のダンス・カンパニーが脚光を浴びていく。それはフランス語を核としながら、言語の壁を越えていこうと葛藤する創造力の結実なのだろう。(神崎舞)

ケベック州・市(Québec)
カナダ東部の州。公用語は仏語のみ。面積約167万km2(カナダ全体の約16%)、人口約760万人(カナダ全体の約23%)。英語文化圏が圧倒的な北米の中で、仏語文化圏として「独自な社会」を構成。州都ケベック市は1608年開府、人口約50万人、州議事堂や州政府機関を多く抱える政治の中心地。国内唯一の城塞都市で、旧市街の歴史地区はユネスコの世界遺産に認定。(山口いずみ)

ケベック州法制度(Provincial Legal System of Québec)
カナダの法制度の特徴の一つは連邦制であり、ケベック州を含む各州は、カナダ憲法に定められた州管轄事項について、カナダ権利自由憲章に反しない限り、独自の法制度・政策を構築することができる。とくにケベック州は、フランス植民地から出発したという歴史から、フランス法を継受・発展させた法制度を有しており、他州及び連邦の法制度がイギリス法を継受・発展させたものであることと対照をなしている。両者の具体的な相違は多岐にわたるが、市民社会の基本法である民法についていえば、ケベックは制定法主義をとるシビル・ロー(civil law)系に属し、他州は判例法主義をとるコモン・ロー(common law)系に属していることが大きく対照を成す。コモン・ロー系では市民社会生活に係るほとんどの事項は判例法によってカバーされ、原則として「民法典」がないが、ケベック州には州議会制定法たる「民法典」(Code civil du Québec)があって、全10編・3000条を越えるこの大法典が、私法領域の基本事項を網羅的に規定している。他方カナダでは、一般刑法制定権限は連邦に属しており、コモン・ロー刑法を制定法化した連邦刑法(Criminal Code)がケベック州内でも適用される。ケベック州の立法機関は、1院制の州議会(Assemblée nationale du Québec)である。また、法運用を担う裁判所については、10州それぞれの裁判所制度と連邦裁判所制度が区分されているが、「カナダ最高裁判所」が両系列の裁判所の最上級審に位置づけられており、カナダ憲法を頂点とするカナダ法運用の調和が図られている。(佐藤信行)

ケベック大学(Université du Québec)
ケベック州の発展に貢献することを目的とし、1968年にケベック州政府によって設立されたケベック大学は、モントリオール校、トロワリヴィエール校、シクーティミ校、リムースキ校、ウタウエ校、アビティビ・テミスカマング校など10の機関からなり、カナダ最大規模のネットワークを持つ大学組織である。機関の一つであるTELUQは、遠隔教育のパイオニアとして、世界中からの学生、研究者の求めに応じている。ケベック大学は、ケベック州の教育水準の向上、ケベック州の科学的発展の促進、そして地域の発展への貢献を使命に持つ。アジア、欧州、南北アメリカ、アフリカの多くの機関とパートナーシップを結び、世界の研究の最先端を目指している。すべての授業はフランス語で行われる。それぞれの機関の研究成果の普及・促進を目的としたケベック大学出版会を有している。(友武栄理子・近藤野里)

ケベック大学モントリオール校(Université du Québec à Montréal)
ケベック大学モントリオール校は1969年にケベック州政府によって創設され、UQAMという略称で親しまれている。メインキャンパスはモントリオールの中心部に位置し、地下鉄の中心駅でもあるBerri-UAQM駅周辺や、劇場や芸術施設が集中するPlace-des-Arts駅周辺に学生街を形成している。芸術学部、コミュニケーション学部、政治・法学部、理学部、教育科学部、人文科学部の6学部に加え、マネージメントスクール1校を有しており、約3万7,000人の学生が学んでおり、これまでに29万人の卒業生を輩出している。60か国、400以上の教育機関と協定を結び、国外への留学の送り出しにも力を入れると同時に、95か国から約4,400人の留学生を受け入れ、国際交流にも力を入れている。また、ケベック州の教員の約3割が、そしてモントリオール地域の教員の約7割がケベック大学モントリオール校の出身者であること、また、環境学分野の博士課程をカナダで最初に設置した大学であることも特筆すべき点である。(近藤野里)

ケベック党(Parti Québécois)
1968年、ルネ・レヴェック(Levesque, Rene)を党首としてケベック州で結成された州政党。支持基盤はフランス系のナショナリズムにある。1970年に初議席を得て以来、勢力をのばし、1976年の総選挙で州政権についた。翌年「フランス語憲章」を公布。1980年には、「主権・連合」をめぐって住民投票を実施するが、59.6%対40.4%の比率で失敗した。1995年には「主権」とパートナ-シップをめぐって再度の住民投票を実施するが、僅少差とはいえ50.4%対49.6%で敗北した。結党当時の分離独立路線は棚あげされ、現在はより現実路線を歩む。(竹中 豊)

ケベック文学
文学が「ナショナル」なものとして語られるとき、言語だけでなく、記憶も共有される必要がある。主にフランス系で構成されるケベック人にとっては、カトリック色の強い「生き残りの哲学」と、それによる抑圧が共通の記憶であろう。前者は『白き処女地』に典型的に見られ、後者は、A.エベール、J.ゴドブー、H.アカンら多くの作家によって扱われてきた。中でも、G.ロワの『束の間の幸福』(1945)は新たな現実と対峙する困難を表現した数少ないレアリスム小説として高く評価されている。現在は、移民の出自が多様化してきた状況を反映して、D.ラフェリエールやA.シマザキ、K.チュイら非白人作家も活躍している。また、先住民社会への関心が高まるなかで、J.バコンやN.フォンテーヌ、J. シウィら先住民作家の存在感も増している。彼らを含めて「ケベック文学」として語ることの意味が問い直されている。(小畑精和/佐々木奈緒)

ケベック法(1774年)
イギリスが1763年の「国王宣言」によるフランス系に対する同化政策を放棄した法律。1763年に、イギリスは旧フランス領のミシシッピ川以東を獲得し、北米における覇権を確立したが、1760年代後半にはイギリスとアメリカ13植民地との対立が深刻化してきた。これに対し、ケベック植民地総督ガイ・カールトンは、約7万人のフランス系住民が大半を占める同植民地をイギリス側につけておくため、彼らの指導的立場にあるカトリック教会の司教や領主を味方につける必要性を説き、国王宣言による同化政策を放棄するよう進言した。
 本国は、1774年にようやくこれを受け入れ、ケベック法を制定した。同法はケベック植民地でのカトリックの信仰、教会による1/10税の徴収、さらに領主制も容認した。刑法は陪審制を備えたイギリス刑法を継続させたが、住民に直接かかわる民法は、フランス民法が採用された。さらに、議会設置を当面見送り、その代わりに設置された評議会には、総督によりフランス系カナダ人も任命された。加えて、ケベック植民地を、五大湖を含むオハイオ川とミシシッピ川に囲まれた地域からラブラドル地方まで拡大した。
 ケベック法は、領主やカトリック教会の司教には歓迎されたものの、多くのフランス系住民はフランス領時代同様に領主やカトリック教会への義務を負うことに不満を持った。しかし、同法によって、今日に至るフランス系カナダの温存につながった。ケベック植民地で1000人に満たなかったイギリス系商人は、同法による議会設置の延期には反対したが、植民地の拡大で自分たちが行う毛皮交易の範囲が広がることは歓迎した。一方、13植民地は、同法によって、敗北者であるフランス系住民にカトリック信仰が認められ、ケベック植民地が拡大されたことに反発した。そのため、同法は、アメリカ独立革命の一因とも言われる。 (木野淳子)

ケベック料理(La Cuisine Québécoise)
カナダのフランス語圏ケベック州の郷土料理のことである。セントローレンス川周辺の豊かな恵みと、北米大陸の厳冬の地に暮らす先住民から伝えられたメープルシロップの製造方法、魚の燻製のやり方などの知恵、そしてフランスの北部地方出身の入植者が持ち込んだ酪農を中心とする食生活からなり、主にフランス系の家庭に代々伝わってきた料理である。先住民からの野生トナカイなどの狩猟の獲物、湖のマス、森のブルーベリーなどの果物やキノコ類、移民の食習慣のもとである酪農で得られるバターなどの乳製品や豚肉製品、リンゴ、ソバ、そして自然林のサトウカエデから採れるメープルシロップが特徴的な食材である。トルティエールというミートパイなど、伝統のレシピで郷土料理を出すケベック旧市街にある代表的なレストラン「オーザンシャン・カナディエン」(Aux Anciens Canadiens)の料理の数々は1675年に建てられた古民家とともに観光客に人気がある。(友武栄理子)

言語教育
フランスやイギリスの植民地に始まり、今では数多くの民族が共存するカナダにおいて、言語教育は国家統一のために重要な課題である。カナダを植民地としたイギリスは、学校教育を通して住民の言語を英語に統一しようと試みたが、フランスの植民地時代に成立していたフランス系社会の抵抗にあって成功せず、英語社会とフランス語社会の共存は公用語二言語主義にまで発展した。1969年の公用語法制定以降、連邦政府は補助金を出すなど教育を通して二つの公用語を普及させることに努めている。なお、1982年憲法は公用語の少数派の言語教育権を保障し、英語圏においてもフランス語で、フランス語圏においても英語で教育を受ける権利を認めている。また、移民に対しても英語またはフランス語を習得することを求め、連邦政府や州政府は学校教育とともに成人移民向けの教育も整備している。さらに、先住民に対しては、先住民の言語権を認めてそれを継承させながらも、公用語を第二言語として習得させる取組みを進めている。
 カナダでは州に教育行政権があるため、学校教育における第二公用語の扱いは州により異なる。全州が義務教育課程において第二言語としての英語またはフランス語を必修と定めているわけではなく、さらに州によっては学習開始学年や学習年限が教育委員会によって異なる。そのため、カナダの学校における言語教育は、英語とフランス語を習得したバイリンガルの育成を目的とはしていない。ただし、英語系学校に設置されるフランス語イマージョン・プログラムは例外である。同プログラムは、フランス語を教授言語に用いることにより、生徒に英語のみならずフランス語を高いレベルで習得させることに成功している。
 カナダでは、移民やその子孫を対象とした継承語教育も行われている。連邦政府が1971年に多文化主義政策を採択して1988年には多文化主義法を制定したことにより、各民族が自分たちの言語を維持することが認められたことは、継承語教育の促進に拍車をかけることになった。ただし、教育方法は州によって異なる。例えば、ケベック州は継承語教育プログラムを設置しているが、全ての州が設置しているわけではない。しかし、地域や言語により違いはあるものの、各民族が独自に実施する教育は非常に熱心に行われている。(時田朋子)

言語政策(→二言語主義参照)

憲法法・立憲条例・憲法条例(Constitution Act)
憲法法(けんぽうほう)とは、カナダ統治に関して、1791年と1982年にイギリス議会が制定した法律である。イギリス法では、憲法と法律を形式面で区別せず、カナダの憲法たる内容を法律として定めたため、この名称と訳語が用いられる。1791年法は、「立憲条例」「憲法条例」と訳されることがあるが、現在の日本語の意味における地方公共団体議会の定める法としての条例ではない。また、1982年法は、「1982年憲法」と訳されることもある。1791年法はアメリカ独立戦争を受けた英語系ロイヤリストの流入を背景として、それまであった単一のケベック植民地をアッパー・カナダ(現在のオンタリオ)とロワー・カナダ(現在のケベック)に分割し、それぞれイギリス型とフランス型の法・制度を承認したものであり、他方、1982年法は、現行カナダ憲法の一部を構成するものである(詳しくは、「カナダ憲法」参照)。(佐藤信行)

公共企業体(Crown Corporation)
カナダの公共企業体は、連邦法および州法に基づいて設置される政府全額出資の企業体を意味する。連邦法上の公共企業体は、財政運用法(Financial Administration Act)の別表によって、以下の3つの類型に区分されている。第1は、政府の行政的・調整的機能を部分的に代行する、カナダ経済審議会(ECC)などの「直轄(departmental)」企業である。第2は、政府が必要とする財やサービスを準商業ベースで提供・調達する、カナダ原子力公社(AECL)などの代理(Agency)」企業である。第3は、独立採算による商業ベースで物品の製造・販売またはサービスを提供する、カナダ放送協会(CBC)などの「国営(propriety)」企業である。しかし、連邦政府は、1984年のマクドナルド委員会の勧告を受けて、公共企業体に対する規制緩和や民営化を推進しているが、その政策的評価いかんはいまだ論議の対象となっている。なお、連邦レベルでは、カナダ航空(AC)やカナダ国営鉄道(CNR)が民営化されているが、新たにカナダ郵便公社(CPC)が公務部門から公共企業体として再編成されている。なお、州レベルの公共企業体でも、ケベック州の「水力発電公社(HQ)」やサスカチュワン州の「政府投資公社(CIC)」など、州経済の中枢を占める重要な役割を果たす企業もある。(國武輝久)

公的健康保険制度(メディケア)
「医療保障制度」参照。カナダの公的健康保険制度の源流は、1946年「サスカチュワン州入院保険法」。現在のかたちの公的健康保険制度(一般に、メディケアと呼ばれている)がカナダ全土に行き渡ったのは1972年である。医学的に必要な医療サービスは、すべて無料である(但し、救急車の利用は、有料)。薬剤費については、患者負担がある。財源は税金であるが、アルバータ州とブリティッシュ・コロンビア州の2州は、保険料も徴収する(ケベック州は、2010年より所得確定申告時に所得比例で拠出金を徴収)。専門医、病院での治療には、一般医(家庭医)の紹介が必要である。医薬分業は徹底されている。(岩﨑利彦)

高等教育制度
教育に関しては憲法上の規定もあり、徹底した分権化がはかられている。高等教育は、初等・中等教育と比較すると、相対的には州による違いが小さいといわれるものの、大学入学者選抜方法は州により異なり、大学に関する種々の統計データについても、定義が一致しているとは限らない。高等教育の歴史は、教育の運営を委ねられた教会により17世紀にラテン語を教えるコレージュや、コレージュの神学課程が設けられた。これらの聖職者養成機関の名称に大学が付せられてはいないが実質的には高等教育に該当すると考えられる。
 カナダ最古の英語系大学は、18世紀に王党派によって2校のキングス・カレッジ(King’s College)が設立された(ノヴァスコシアのウィンザーとニューブランズウィックのフレディクトン)。これら先行する大学が国教徒以外の者を閉め出したことから、東部カナダでは各宗派がそれぞれ大学を設けるようになり、小規模の宗派カレッジが発達していった。
 1867年にカナダ連邦が結成されると、沿海諸州とオンタリオでは小規模宗派カレッジを統合する動きが促進され、西部諸州は宗派別小規模カレッジの弊害をさけるべく、非宗派の州立大学として高等教育が制度設計されていった。1901年、カナダでは学位授与権を有する大学は18を数えた。
 第2次世界大戦後になると、大学への進学者数増加と、戦後きわめて好調に推移したカナダ経済の成長に対応するため、新たな大学の設立と短期高等教育機関であるカレッジ制度が創設された。カレッジの機能については、州により若干異なるが、アメリカのコミュニティ・カレッジをモデルに、職業教育、成人教育、大学編入教育の3本を教育内容の柱に、カナダ全域で設立されていった。なお、ケベック州では中等教育を修了した生徒は、大学にそのまま進学せず、カレッジであるセジェップ(CEGEP)に進学し、大学入学のための教育課程か、職業訓練教育を受けるシステムになっている。
 1960年代以降、カナダは大学とカレッジの二元システムにより高等教育制度を運用していったが、近年多様性が進展しているものの、大枠としては維持されている。(溝上智恵子)

公用二言語主義 (国家レベルの公用語政策)
カナダの「公用語二言語主義Official Bilingualism」とは、英語とフランス語によるカナダのバイリンガル国家運営のことを指す。カナダが公用語法(Official Languages Act)を制定し、英語とフランス語を国家の公用語として宣言したのは 1969 年であった。同法制定の目的は当時懸念されていたケベック州のカナダからの分離独立の回避であった。
 同法は1988年に全面改定され、国民への両公用語による行政サービスの提供地域・部局の指定基準や連邦公務員の仕事言語などについての詳細が設定された。公用語法の適用範囲は基本的には立法、司法、行政の公的部門であるが、公共性の高い民間部門(その多くが元国営企業)、すなわち航空、鉄道などの運輸業、空港や鉄道の駅などの民間の運営会社なども該当する。同法でとりわけ強調されているのが、公用語少数派(ケベック州内のアングロフォン、ケベック州外のフランコフォン)の言語教育権の保障であり、彼らが自分たちの言語で教育を受けられるための詳細な規定も設定された。また、連邦政府の重要な方針として「カナダ社会における英語とフランス語の両方の完全な承認と使用を促進すること」を打ち出し、カナダ国民が英語とフランス語を学び、公用語として認知、尊重することを目的とする公用語教育が推進された。また、カナダで開催される国家的・国際的イベントは両公用語で運営されることが規定され、首相や総督を筆頭とする国家の政治的指導者には両公用語能力が求められるようになった。 国営放送については英語放送だけでなく、フランス語放送も全国的に普及するようになった。
 カナダの公用語政策は制度上のバイリンガリズムであり、公用語法で規定する連邦公務員には英語とフランス語のバイリンガルになることを要求するが、一般の国民一人一人にはそれを要求していない。連邦政府は国民の必要に応じて両公用語によるサービスを提供し、国民が公用語を認知する体制を整えているのである。(矢頭典枝)

鉱物資源
カナダは地質学的に極めて恵まれており、60種類以上の鉱物資源を産出、その価値は約480億ドル相当にものぼる(2019年度)。世界シェアトップである炭酸カリウムをはじめ、カドミウム、コバルト、ダイヤモンド、宝石用原石、金、グラファイト、インジウム、ニッケル、ニオブ、白金族金属、塩、チタン、ウランと10種類以上の鉱物資源が世界シェア5位以内である(2019年度)。カナダ国内における主要鉱物資源の生産額シェアは、金が21%で最も大きく、次いで石炭、炭酸カリウム、鉄鉱石がそれぞれ12%となっている。その後は銅9%、ニッケル7%、ダイヤモンド5%、砂礫5%、宝石用原石4%、亜鉛2%、その他12%となっている(いずれも2019年度)。コロナショックの影響で、今後は蓄電技術に使用されるグラファイトとニッケルへの世界的需要が大きく伸びてくるものと予想される。(宇都宮浩司)

コーエン,レナード(Cohen, Leonard 1934- )
メランコリックな語り歌で世界的に知られるケベック州出身のシンガーソングライター、詩人、小説家。1934年9月21日、モントリオールの裕福なユダヤ人の家庭に生まれる。1955年マッギル大学卒業。翌年、初の詩集を出版。1963年、2作目の小説『美しき敗北者たち(嘆きの壁)』の出版後、歌手への転身を決意。1967年、デビュー盤『レナード・コーエンの唄』発売。以後、盤数は十数枚におよび、世界各地での公演もこなす。代表曲に「スザンヌ」「電線の鳥」「フェイマス・ブルー・レインコート」「ハレルヤ」など。臨済禅を実践し、1996年に「自間」の僧名を得ている。2003年、カナダ勲章コンパニオン。2008年、「ロックの殿堂」入り。2011年、グレン・グールド賞。2016年11月7日、ロサンゼルスで没。(宮澤淳一)

国連先住民族権利宣言に関する法律(Bill C-15)
先住民族の人権を定める2007年の国連総会の宣言を連邦で実施するために2021年6月21日に制定された連邦の法律。この法律に従い連邦政府は、先住民族との協議と協力の下で、先住民族に対する暴力、人種主義(レイシズム)と差別をなくすために関係する政策を盛り込んだ行動計画を作り実行するとともに、その実施状況を毎年連邦議会に報告することが求められている。国連の宣言は、自決権・自治権や土地・資源の権利を保障し、先住民族との条約を守ることなどの他に、先住民族の土地での資源開発や影響を与える立法・施策を行う際に先住民族による自由で事前の情報を得たうえでの同意を得るための協議をするように求めている。なお2019年にブリティシュ・コロンビアが国連宣言を実施するための州法(Bill 41-2019)を制定している。(苑原俊明)

ゴードン報告
Walter Lockhart Gordonが議長を務める「カナダの経済展望に関する王立委員会」は、1955-1957年の18ヵ月の間に、33の研究と50を超える提案をし、1956年の予備報告書(142頁)と1957年の最終報告書(509頁)から成るゴードン報告をまとめた。最終報告書は、1章~20章からなり、世界やアメリカ合衆国の情勢、広範な産業経済部門、国内の問題地域や政府の役割などについて、1955年から25年後の1980年時点のカナダ経済社会の有様を展望した。この時期、アメリカ企業による経済支配が強まり、カナダの‘生き残り’の道も様々模索され、投資分野を除き、ほぼ展望通りの現実を導いた。(藤田直晴)

コガワ,ジョイ(Kogawa, Joy 1935- )
女性詩人・小説家。ヴァンクーヴァー生れ、トロント在住の日系二世。詩集『割れた月』The Splintered Moon, 1967、『夢選集』A Choice of Dreams, 1974、『エリコへの道』Jericho Road, 1977に続き、第2次世界大戦中・後の強制移動と再移住の体験を半自伝的処女小説『おばさん』Obasan, 1981(邦訳『失われた祖国』)に昇華、数々の賞に輝く。他に詩集『森の中の女』Woman in the Woods, 1985、小説『いつか』Itsuka, 1991など。(堤 稔子)

国王宣言(1763年)(Royal Proclamation)
1763年10月に、ジョージ三世が、北米における英仏間の覇権争いの最後の戦いとなったフレンチ・アンド・インディアン戦争での勝利によって獲得したミシシッピ川以東の旧フランス領を含むイギリスの北米植民地の新たな統治方針を示したもの。対先住民政策とフランス系に対する同化政策の大きく二つの方針を示した。
 第一に、アレガニー山脈以西を先住民領域として白人の入植を禁じた。これは、ポンティアク率いる西部のインディアン諸部族連合の抵抗を宥めることを狙っていたが、今日に至るまで、カナダ先住民の領土権の主張の根拠となっている。また、西進を禁じられた13植民地住民が、約7万人のフランス系住民が居住するケベック植民地へ向かうことによって、同植民地内でイギリス系人口が増加することが期待された。第二に、ケベック植民地の統治については、これまでの英領植民地に対する政策を踏襲し、選出制議会の早期設置をはじめ、イギリスの法や諸制度を導入し、フランス系住民に対する同化策を明確に打ち出した。
 しかし、実際には、13植民地から移住者はほとんど到来せず、植民地の人口のほとんどはフランス系のままであった。さらに、英法の下カトリック信者のフランス系住民は公職から排除されたため、ケベック植民地総督は「国王宣言」の方針はケベック植民地の実情に合わないと訴えた。そこでイギリスは1774年にケベック法を制定し、これによってフランス系に対する同化政策の方針は180度転換されることとなる。(木野淳子)

国際カナダ研究協議会(ICCS)
カナダのオタワに本部を置く「カナダ研究国際協議会」のこと。ICCSは英語表記のInternational Council for Canadian Studiesの略。フランス語表記では、CIEC(Conseil international d’?tudes canadiennes)。カナダ研究の促進・支援・協力などのために組織された国際的な非営利機構である。カナダ外務省(当時)の学術交流局の協力で、1981年に誕生した。日本カナダ学会は設立当初からのメンバーである。現在、世界の約30の国と地域からなる「カナダ学会」が加盟している。ニューズレターCONTACT ICCS-CIECの発信、研究誌の刊行、研究大会の開催など、国際的レベルで開かれたカナダ研究を支援している。(竹中 豊)

国民総生産、国内総生産
一国の国民が一定期間(通常は1年)に新たに創り出した財・サービスの合計を市場価格で表示しようとする場合、重複計算を避けるために、各生産の段階において付け加えられた価値(付加価値)を合計したものが国民総生産(Gross National Product[GNP])であり、それは一国の経済力の大きさを示す指標として用いられてきた。ところが企業活動の海外展開の拡大により、現在ではGNPに代わり一国の中でどれだけの価値が新たに創り出されたのかを見るために、国内総生産(Gross Domestic Product[GDP])という指標が用いられるようになっている。(たとえば、日本国内で日本企業のみならず外国企業が創り出した付加価値も日本のGDPに含まれるが、逆に日本企業が海外進出して現地で創り出した付加価値は含まれない。)ちなみに、カナダの2009年の名目GDPは1兆3,361億ドル(米ドル)であり、同年の日本のそれ(5兆420億ドル)と比較すると、およそ4分の1であった。国民一人当たりGDPでは、カナダが39,795ドル、日本が39,530ドルと拮抗していた。しかし、これを2019年についてみると、カナダのGDPは1兆7,415億米ドルであり、日本のそれ(5兆1,487億ドル)と比較して日本の3分の1となり、この10年間のカナダの成長が明確となる。また国民一人当たりGDPではカナダは46,550ドルである。これは日本(40,791ドル)の1.14倍にあたり、カナダが断然リードしている。(榎本 悟)

穀物産業(Grains Industry)
穀物の英語訳として、CerealsとGrainsがある。前者は主として、禾本科植物の種子を意味し、小麦・大麦・米・トウモロコシ・燕麦などが例示される。後者は食用できる種子一般を意味し、上述の穀類の他に豆類や油糧種子なども含まれる。輸出を主眼としたカナダの穀物産業では後者の意味でGrains という語を用いるのが一般である。カナダで生産され、輸出されている主要穀類は次のようなものである。全小麦(冬小麦・春小麦・デューラム小麦)、オート麦、大麦、ライ麦、フラックス(亜麻仁)、カノーラ(油糧用菜種)、トウモロコシ、大豆。カナダの穀物は主としてマニトバ・サスカチュワン・アルバータの平原3州で栽培・収穫される。

農務省関係機関としてカナダ穀物委員会(Canada Grain Commission)とカナダ小麦局がある。前者にはカナダ穀物法により設立された検査部局と穀物研究所(Grains Research Laboratory)が所属している。後者は小麦・大麦・オート麦の国内・国外における独占出荷機関としての色彩が濃く、その他の穀類や油糧種子はそれぞれ民間業者が取り扱っている。各州立大学の農学部では、穀類に関する基礎・応用研究が盛んであり、それらの成果は現場に還元され、カナダの穀物産業の発展に寄与している。広大な国土における穀物の流通には道路・鉄道・船舶が活用され、各地のエレベーターは保管・検査等のために重要である。国内外の買手関係業者への教育のために、カナダ国際穀物研究所(CIGI:Canadian Institute for Grains Industry)では各種の研修が行われている。上述の連邦政府の機関のほかに各州の農務関係部署でも各地域に密着した調査・研究・指導がなされている。(草野毅徳)

国立映画庁(NFB/ONF)National Filmboard of Canada
国営の映画制作スタジオ。「カナダ国立映画制作庁」とも記される。英国から招かれた映画評論家・ドキュメンタリー作家のジョン・グリアソン(1898-1972)を初代長官として、1939年にモントリオールに本部が設置された。大戦期には、参戦を称揚する多数の作品を輩出した一方で、軍需景気のカラクリを皮肉る作品の制作も排除しなかった。戦後は、市場では採算のとりにくいドキュメンタリー作品や短編アニメーション作品を軸に、国際映画祭への出品や、カナダ放送協会へのコンテンツ提供を行なってきた。伝統的に専属作家の国籍は多彩で、ドキュメンタリー部門ではユーコン準州のゴールドラッシュを扱った『黄金の街』(1957)などで知られるウルフ・ケニッヒ(1927-2014, 独)、アニメーション部門では、ピンスクリーンのアレクサンドル・アレクセイエフ(1901-1982, 露)積み木などの立体物のコ・ホードマン(1940-, 蘭)、切り絵ホログラフィのイシュ・パテル(1942-, 印)、砂絵のキャロライン・リーフ(1946-, 米)らの活躍が知られる。ただし2000年代に入って専属作家制は徐々に廃止され、制作プロジェクト単位での短期契約制度に移行している。ロゴには1968年以来、ジョルジュ・ボプレ(1932-2007)による「見ている人」が用いられている。(栗原詩子)

五大湖
北アメリカ中央部まで覆った氷河の痕跡となる五つの湖。西からスペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖と並ぶが、ミシガン湖を除く四つはカナダとアメリカの国境をなし、カナダ側ではこの4湖すべてがオンタリオ州に面している。この五大湖の水はスペリオル湖とヒューロン湖の間ではスーセントメリー運河、エリー湖とオンタリオ湖の間でナイアガラ滝を避けるウエランド運河によって、最後はオンタリオ湖から北東に流れるセント・ローレンス川と結ぶ長大な水路となる。五大湖の沿岸の豊富な鉱産物、農産物は五大湖水運によって東部に運ばれ、さらに古くはセント・ローレンス川の水運でヨーロッパに搬出されたが、これによりアメリカ東部工業地帯、カナダでもオンタリオ州の沿岸各地の工業都市が形成された。サンダーベイ、スーセントメリー、サドベリー、ウィンザー、ハミルトン、トロント等の諸市がそれである。(大島襄二)

国歌
カナダでは、『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』が、長い間特にイギリス系の住民を中心に国歌同然に歌われていた。しかしフランス系住民の感情を考慮した連邦政府は、建国百周年目の1967年、同様にカナダで古くから親しまれていた『オー・カナダ』を国歌に、『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』を女王賛歌にすることに決定した。『オー・カナダ』は、1880年にフランス系カナダ人のアドルフ=バジル・ルーチェが当時のケベック総監ロビテーユの依頼で作詞し、同じくフランス系カナダ人のカリサ・ラバエーが曲をつけたものである。英語の歌詞については、1967年に国歌として正式に採用後何度も協議・審査が行われ、1980年、ロバート・スタンレイ・ウエイアによる訳詞をもとにした現行の歌詞が正式なものとして採用された。「オー・カナダ」参照。(田村知子)

国会(Parliament)
カナダの国会は、国王、上院、下院から構成されている(1867年憲法第17条)。立憲君主制でイギリス国王を元首とするカナダでは、全ての法律は国王の名の下に公布される。カナダでは総督が国王の代理を務めている。総督の任期は5年で、連邦首相の助言に基づき国王が任命する。
 理論上、行政権は国王(総督)にあるが、実際には首相の率いる内閣が下院の信任を得ながら行使している。首相と閣僚には、原則として下院第一党の党首と議員が就任する。このように、国会内に行政権と立法権が共存するのは、議院内閣制の特徴の一つである。
 上院は105名の議員から構成されている。上院議員は首相の助言に基づいて総督によって任命される。以前は終身制だったが、現在は75歳定年制である。上院には連邦各地域を代表するだけでなく、脱党派的な視点で法案を審議するという機能も求められている。任命制のため民主的正統性を欠くとの批判も多く、上院改革はカナダ政治の焦点の一つである。
 下院は308名の議員から構成されている。選挙(小選挙区制)によって選ばれ、任期は5年。選挙区の区割り・議員数は、国勢調査に基づき10年ごとに調整される。法案は、本会議、委員会での審議を通じて可決される。歳出や徴税に関する法案は、まず下院に提出されなければならない。(古地順一郎)

国旗
赤と白の鮮やかなカエデの国旗をめぐる論争の経緯を見てみよう。カナダのある雑誌社が、かつて「あなたがカナダ人として最も誇りに思っているものは何ですか」という読者アンケートをした際、答として、有名人、発明品、芸術など文化資産、カナディアン・ロッキーなど雄大な景観が挙がったが、メイプル・フラッグもその一つであった。この国旗は今でこそカナダの象徴として国民に愛されているが、1965年に国旗として制定された時点で、これほど早く国民に受け入れられることを予測できた人は、ほぼいなかったに違いない。
 カナダは1867年に建国されたが、長い間、独自の国旗を持っていなかった。第2次世界大戦前まで、英国国旗(ユニオン・ジャック)で代用しており、国民の30%(2016年時点で22.8%)を占めるフランス系住民には何とも目障りであった。さらに、英国系もフランス系も海外戦線で肩を並べて戦わなければならなくなった第2次世界大戦では、赤地の左肩にユニオン・ジャックをあしらった英国商船旗にカナダの紋章をつけた旗が用いられた。
 英国にもフランスにも片寄らないカナダ独自の国旗を持つべきだという議論は何度も起こったが、感情的な問題が絡み、なかなか実現しなかった。ようやく1964年5月に、ときの首相ピアソンが具体的提案をしたが反応は思わしくなく、野党の議事妨害作戦に業をにやしたピアソン政権は、あらためて全国に国旗のデザインを募集した。約2,000件の中から選ばれたのが、現在の国旗である。しかし保守党のディーフェンベーカーは議事を妨害した。政府がこの国旗論争の終結を宣言し、決定したのは、1964年12月31日であった。祝砲も花火もなく、国民はあっけないほど静かに新しい国旗を迎えた。国旗掲揚式が行なわれたのは、1965年2月15日である。(杉本公彦)

環境協力委員会(Commission for Environmental Cooperation)
北米自由貿易協定(NAFTA)交渉で争点となった貿易自由化に伴う環境問題に関する懸念から、1994年、カナダ・米国・メキシコの3か国間で設立された国際機関。その活動分野は、①北米地域における環境問題への対処、②貿易と環境問題の矛盾への対処、③環境法規の効果的な執行の促進であり、合同市民助言委員会が設置されるなど、市民参画が強調されている。事務局はモントリオールに置かれ(2012年現在、スタッフ数23名)、2011年の予算額は、約1,200万カナダドル(ただし、労力・旅費などの形で各国から追加の補助あり)。(高橋卓也)

国際カナダ研究協議会
ICCS参照

国際合同委員会(International Joint Commission)
1909年に締結された国境水域条約(Boundary Waters Treaty)に基づいて設置されたカナダ・アメリカの2国間委員会。西はユーコン川から東はセント・クロア川まで、国境地帯の水域における航行・灌漑・発電など、多目的にわたる水資源利用に関連した紛争の解決、協力関係の構築を目指す。1972年の五大湖水質協定締結以降、水質問題、生態系保全問題にも力を注いでいる。2021年現在、両国から各々3名の委員がカナダ連邦首相、アメリカ大統領によって任命され、オタワ、ウィンザー、ワシントンD.C.、の各事務所に、合計47名のスタッフを有する。(高橋卓也)

ゴドブー,ジャック(Godbout, Jacques 1933- )
ケベックを代表する知識人。代表作は『やぁ、ガラルノー』(Salut Galarneau!, 1967)。この小説でカナダ総督賞に輝き、他にも多くの受賞がある。ジャーナリストとしても活躍し、ボレアル出版社などの出版事業にも携わっている。また、国立映画庁(NFB, ONF)で、歴史を問い直すドキュメント『アメリカの運命』(1996)など、いくつもの映画を監督している。「静かな革命」期には脱宗教化やその他の社会運動に積極的に関与して発言し、それらはのちにエッセイ集『商品のつぶやき』(1984)などにまとめられて出版されている。環境運動に実際に加わった経験をもとに、『竜の島』(1976)では放射性廃棄物の問題を扱っている。1977年に創設されたケベック作家協会の初代会長でもある。(小畑精和)

小麦(Wheat)
小麦は、カナダ穀物の最重要輸出品目の一つである。その生産は、主として西部カナダ平原3州(マニトバ・サスカチュワン・アルバータ)の南部に集中している。東部諸州でも生産されてはいるが、品質が良くないことと量的に少なく輸出対象外である。カナダ穀物法(Canada Grains Act)によって、小麦をはじめとする各種穀物の種類と等級が定められ、それぞれに検査等級規格が定められている。カナダ小麦の種類を例示すると、春小麦としてはレッド スプリング・アンバー デューラム・ソフト ホワイト スプリング・ユティリティなどがあり、冬小麦としてはユティリティ・アルバータ ウィンター・レッド ウインター・ホワイト ウインター等がある。特に、日本等へ輸出されているパン用小麦(カナダ・ウエスタン・レッド・スプリング 硬質赤色春小麦)は最高級品とされ、カナダの代表的銘柄であり、カナダ小麦局の管理下にある。
 生産者から収穫された小麦は各地のエレベーター(プライマリー・トランスファ・ターミナル)を経て検査・貯蔵・保管・出荷される。マニトバ州都ウィニペグにある穀物研究所では、育種・品質評価・その他の基礎および応用研究がなされていて、それらの研究成果は随時報告・発表・実用化されている。同時に、近隣の州立大学の農学部等とも共同研究等連携をとりながら小麦の基礎・応用研究が着実に進められている。(草野毅徳)

コモンウェルス(Commonwealth)
かつてイギリス帝国を構成した国々からなる国際協力組織。イギリスを頂点とした垂直的構造であったイギリス帝国は、1931年のウェストミンスター憲章によって、イギリスと自治領(ドミニオン)が内政・外交で互いに従属せず、王冠の下での対等な関係を結ぶ「ブリティッシュ・コモンウェルス」(旧コモンウェルス)へと編成替えした。1949年、共和国化したインドの残留に対応して「コモンウェルス」(新コモンウェルス)となり、その後、アジア・アフリカの旧植民地が加盟した。創設憲章を持たぬユニークな組織だが、1965年設立の事務局が中心となり、人権・経済発展・福祉など多方面に関与している。(細川道久)

雇用保険法
1940年に連邦は失業保険法を施行。失業給付制度は、州政府から連邦政府に移管され、職を求める失業者に対する所得援助として給付される。1996年に雇用保険法が成立し、名称も失業保険から現在の雇用保険に変わった。現在まで何度かの改正が行われている。
 雇用保険料率は、当該年度の給付額に見合った保険料収入が得られるような料率となっている。保険料率は、毎年11月に決められる。失業給付期間は、受給前の勤労時間数と地域の失業率によって決まる。給付には、失業給付、疾病給付、出産・育児給付、特別介護給付、および自営漁業者に対する漁業給付などがある。失業給付の給付期間は、14週から45週である。なお、自営業者にも加入すれば、失業給付以外の特別給付を受給できる道が開かれている。(岩﨑利彦)

コーエン,レナード(Cohen, Leonard 1934- )
メランコリックな語り歌で世界的に知られるケベック州出身のシンガーソングライター、詩人、小説家。1934年、モントリオールの裕福なユダヤ人の家庭に生まれる。1955年マッギル大学卒業。翌年、初の詩集を出版。1963年、2作目の小説『美しき敗北者たち(嘆きの壁)』の出版後、歌手への転身を決意。1967年、デビュー盤『レナード・コーエンの唄』発売。以後、盤数は十数枚におよび、世界各地での公演もこなす。代表曲に「スザンヌ」「電線の鳥」「フェイマス・ブルー・レインコート」「ハレルヤ」など。臨済禅を実践し、1996年に「自間」の僧名を得ている。2003年、カナダ勲章コンパニオン。2011年、グレン・グールド賞。(宮澤淳一)

コールダー 判決(Calder et al. v. Attorney-General of British Columbia, [1973] S.C.R. 313)
先住民族の土地権(aboriginal title)に関する最高裁判決。先住民族は伝統的に占有してきた土地への権原(title)を主張してきたが、入植者はその時々の自らの都合に応じて、彼らの主張を無視してきた。イギリスの枢密院やカナダの裁判所は、土地権の根底には、国王のもつ実質的かつ最高の不動産権があるとし、先住民族の土地の占有は国王の主権と恩恵の下にあるに過ぎないと述べてきた。しかし、Nisga‘aネーションのフランク・コールダー (Frank Calder)らが土地権の確認を求めて提訴したCalder事件において、最高裁は訴訟手続上の問題でコールダーらの訴えを退けたが、7人のうち6人の裁判官が土地権の存在を認めた。カナダ政府はこれまでに先住民族といくつもの土地割譲条約を結んできた(ただし、先住民族側の理解はこれとは異なる)が、ブリティッシュ・コロンビア州の多くの地域をはじめとし、そうした条約を締結していない先住民族も存在した。最高裁が土地権の存在を認めたことから、カナダ政府は、条約未締結の先住民族との間で土地権をめぐる紛争が生じる恐れがあると考え、そうした先住民族と条約締結の手続に着手していくことになった。(守谷堅輔)

コールダー, フランク(Calder, Frank Arthur 1915-2006)
政治家、ニスガ民族の首長、実業家。ブリテイッシュ・コロンビア州ナス・ハーバー生まれ。条約を締結していないニスガ民族の伝統的な領土には先住民族の土地権原が存在することを主張して提訴した。1973年、カナダ最高裁判所はこの訴えを事実上認め、先住民族の権利に関する画期的な判決となった。以後、カナダ政府は先住民族との間に土地権益をめぐる協定を結ぶ政策をとるようになる。コクアレーツァ寄宿舎学校、チルワック高等学校を経て、ブリティッシュ・コロンビア大学に入学、先住民族で初の同大の学生となり、1949年、神学部(アングリカン神学カレッジ)を卒業。この間、1944年にノース・アメリカ・インディアン協会の会長を歴任し、後に、BC先住民協会を設立した。またニスガ民族議会を設立し、1953年より1973年までプレジデントを務める。1949年には、先住民族で初のブリティッシュ・コロンビア州議会議員となり、その直後より、先住民族の土地権運動をはじめた。1972年、BC州インディアン担当大臣。1969年のインディアン白書の内容に賛成したことで、他の先住民族との間で対立する。また、ニスガ民族の自治権等を承認したニスガ条約には、伝統的領土の大半を譲渡することになることから、反対した。カナダ勲章(1988年)、BC勲章(2004年)を叙勲。(広瀬健一郎)

コンコルディア大学(Concordia University)
ケベック州モントリオール市の中心部にキャンパスを置く州立の総合研究大学。モントリオール市内でコンソーシウムを組む4つの州立総合大学(フランス語系2校:モントリオール大学とケベック大学モントリール校、および、英語系2校:マッギル大学とコンコルディア大学)のうちの英語系の大学でもある。前身のサー・ジョージ・ウィリアムズ大学とロヨラ・カレッジの合併により1974年に創立した。前身の2カレッジが有していたキャンパスが現在のキャンパスの中核として機能しているが、2つのキャンパスの間は約7キロ離れている。2000年以降のダウンタウンキャンパスでの建物の新設の際には、カルティエ・コンコルディアという呼び名のもと、キャンパス周辺のモントリオール市西部の都市計画にも積極的にかかわっている。学生組織による活動も活発で、大学運営への要求や要望に基づく抗議活動が組織されることもしばしばある。また、カナダの中でも在籍学生数が多い大学のひとつであり、2020/21年度の在籍学生数はカナダ最大であった。女子アイスホッケーのオリンピックの金メダリストをはじめ、ノーベル賞受賞者、エミー賞受賞者、研究者、政治家、プロスポーツ選手、そして、ミュージシャンなど幅広い卒業生や大学関係者がいる。(山田亨)

コンフェデレーション(Confederation)
イギリス議会で制定された英領北アメリカ法(現在の1867年憲法)に基づき、1867年7月1日にカナダ自治領(ドミニオン・オブ・カナダ(Dominion of Canada))が成立したことを連邦結成=コンフェデレーションと呼ぶ。
 それまで各々が責任政府を持つ別個の存在だった北米植民地を、統合へむかわせた最大の契機は、1840年代におけるイギリスでの「旧植民地体制」の崩壊であった。最大の植民地だった連合カナダ(現在のオンタリオとケベック)では、本国での穀物法と帝国特恵関税の廃止で大きな経済的打撃を受け、1860年代にはグランド・トランク鉄道の経営破綻や、南北戦争による米加互恵条約失効の脅威のため、国家的破産の危機が生じる。
 連合カナダではこの危機を回避するため、またイギリス系とフランス系、保守派と改革派の対立で混乱を極めていた政治状況を打破するため、1864年に J. A.マクドナルド、G. E.カルティエ、G.ブラウンらが「大連立内閣」を形成する。彼らは同年9月に、三つの沿海植民地が「沿海同盟」結成を討議するはずだったプリンス・エドワード島でのシャーロットタウン会議に強引に参加し、すべての英領北アメリカ植民地による連邦結成を主張した。翌月のケベック会議ではニューファンドランドを含めた五植民地が連邦結成の骨子となる「ケベック決議」に同意する。
 連邦結成に対しては連合カナダ内でもフランス系急進派が強く反対した他、沿海植民地住民も頑強な抵抗を示した。だが南北戦争の側圧と本国政府からの高圧的な干渉が、ニューブランズウィックとノヴァスコシアの反対派を屈服させる。1867年に発足したカナダ自治領は、「カナダ・ナショナリズム」の所産というよりも、北米植民地を最も安価な防衛策としての連邦結成で合衆国から守ろうとしたイギリス「自由貿易帝国」政策の成果であった。カナダでの真の国家建設には、その後70年近い苦闘が必要だったのである。
 なお、「ドミニオン・オブ・カナダ」という名称は、ニューブランズウィック植民地のレナード・ティリーの提案によるもので、旧約聖書「詩篇」第72篇第8節にある「まつりごと(ドミニオン)は、海から海へ、河より地のはてにおよぶべし」に由来する。カナダ自治領が、「海から海へ」広がる「ドミニオン」、つまり、大西洋から太平洋にいたる大陸横断国家となる夢がこめられていたといえる。(木村和男/細川道久)

サ行

財政
財政とは、政府が家計及び企業から租税により財源を調達して経費を支出し、現金給付とサービス給付を行うことを通じて社会を統合する制度である。なお、経費支出をまかなう租税収入が不足する場合、公債が発行される。連邦制国家カナダの支出と税制に関する政府間関係は連邦財政主義(fiscal federalism)と呼ばれる。連邦政府は防衛・外交、年金・雇用保険、マクロ経済・金融等を、州・準州政府は医療、福祉、高等教育、産業、交通、資源等を、そして地方政府(市町村・学校区など)は都市計画、水道、ごみ処理、消防、初等中等教育等を主に管轄する。政府ごとに予算の区分等は多様であるが、カナダ統計局(Statistics Canada)が統一的基準で取りまとめている財政統計(Government Finance Statistics)によれば、2019年の政府支出は、連邦政府3504億ドル、カナダ年金/ケベック年金制度675億ドル、州・準州政府5118億ドル、地方政府1937億ドル、であった。連邦制国家のうちでも州の権限が強いカナダでは、州・準州支出が連邦支出を大きく上回るのである。また、税制においては、連邦政府と州・準州政府がともに個人所得税・法人所得税・一般売上税等を賦課している。(詳しくは「租税制度」参照。)(池上岳彦)

財政改革(Fiscal Reform)
1970年代の石油危機等による経済成長鈍化により、連邦財政は1980年代から危機に陥った。1992年度には連邦一般会計(Public Accounts)の赤字が390億ドル(対GDP比5.4%)に達し、IMFが予算編成を監視する事態に至った。1993年に成立した自由党のジャン・クレティエン(J.J. Jean Chretien)政権は、ポール・マーティン(Paul E.P. Martin)財務相の主導の下、1994年度から州と民間への移転支出削減、景気回復に伴う法人所得税・個人所得税の増収、増税等により財政を再建し、1997年度から連邦は財政黒字を続けた。それにより医療・教育の改善、減税、平衡交付金の増額等が可能になった。しかし、アメリカのサブプライムローン問題に端を発する世界金融危機に伴う税収減と景気対策により、2008年度から財政赤字が再現した。連邦の一般会計赤字は2009年度に過去最大の564億ドルを記録したが、その対GDP比は3.6%にとどまった。当時の保守党スティーブン・ハーパー(Stephen J. Harper)政権は増税及び個人向け/州・地方向け移転支出の削減を拒否して、景気対策措置の終了と連邦政府の効率化・サービス削減により2015年度までの財政黒字化をめざしたが、それは実現しなかった。2015年秋に成立した自由党のジャスティン・トルドー(Justin P.J. Trudeau)政権の下でも財政再建は完全には実現せず、連邦の一般会計は2019年度まで対GDP比1~2%程度の赤字を続けている。なお、近年は、州・準州の一般会計財政収支(10州・3準州の合計)も2009年度に262億ドル(対GDP比1.7%)の赤字を記録して以来、対GDP比1%前後の赤字で推移している。(池上岳彦)

裁判所制度(Court System)
1867年憲法(第92条、第101条)は、連邦政府と州政府がそれぞれ裁判所制度を設置・運営することを認めている。連邦政府が管轄するのは、最高裁判所、連邦控訴裁判所、連邦裁判所、租税裁判所、連邦行政裁判所、高等軍法会議、軍法会議である。最高裁判所は1875年に設立され、1949年以降、カナダの最終審である。それ以前は、英国枢密院法務委員会が最終審であった。首相の助言に基づき総督が9名の判事を任命するが、最低3名は大陸法系の民法典を有するケベック州出身でなくてはならない。最高裁判所は、連邦控訴裁判所、州控訴裁判所、高等軍法会議の判決を審理する。また、憲法判断も重要な機能の一つである。連邦政府からの要請に応じて、さまざまな法的問題に関する見解を出すこともあるが、高度に政治的な案件の場合は判断を避けることもある。連邦控訴裁判所は、連邦裁判所と租税裁判所の判決を審理する上級審である。連邦裁判所は、連邦法に関わる事案を審理する。たとえば、連邦政府と州政府の間の訴訟、州政府間の訴訟、知的所有権、海事、公正取引、市民権に関わる訴訟などを扱う。租税裁判所は、連邦税に関する訴訟を扱う。連邦行政裁判所は、失業保険、障害者手当て、難民認定など、行政に関する規定や規則をめぐる訴訟を扱う。各州には、州控訴裁判所を頂点に、州高等裁判所(州により名称が異なる)、州裁判所、州行政裁判所がある。州控訴裁判所と州高等裁判所の判事は、連邦政府が任命し、給与も支払っている。州控訴裁判所は各州の最終審である。州高等裁判所では、重大犯罪、多額の金額が絡んだ民事訴訟、離婚に関する訴訟などを含む、ほとんどの案件を審理する。州裁判所の判事は州政府が任命し、給与を支払っている。通常犯罪、青少年犯罪、少額の金額が絡んだ訴訟、家庭問題に関する訴訟(離婚を除く)などを担当する。州行政裁判所は、州の行政規則、規定に関わる訴訟を扱う。(古地順一郎)

サイモン・フレーザー大学(Simon Fraser University)
ブリティッシュ・コロンビア州のヴァンクーヴァー郊外にある州立大学。1965年に創立。校名の由来はカナダ西海岸を開拓した探検家サイモン・フレーザー(Simon Fraser)による。理学、応用科学、人文社会、教育学、コミュニティ・芸術・工学、健康科学、環境学の7つの学部とビジネススクールがあり、学生数は約3万7,000人ほどである。特に環境学、ビジネス、犯罪学の分野では海外からも高い評価を得ている。同校の出身者にはテリー・フォックスやジャーナリストのレイチェル・マースデン、元首相夫人のマーガレット・トルドー等がいる。(宇都宮浩司)

サウンドスケープ(Soundscape)
カナダの作曲家、R. M. シェーファー(Raymond Murray Schafer)が、1960年代の北アメリカにおける公害・環境問題への意識の高まりを背景として、60後半から70年代前半にかけて提唱・深化させた用語とその考え方。彼の主著『世界の調律』(1977年)において、サウンドスケープを従来の「音楽」と「騒音」といった二元論を超え、人類の歴史と未来をめぐる音響世界の豊かな理解と把握を可能とする考え方として位置付け、最終的には現代社会に「音響生態学」と「サウンドスケープデザイン」の必要性を現代社会に訴えている。日本語では一般に「音の風景」と訳されるが、A Handbook for Acoustic Ecology(1978)においては「個人、あるいは社会によってどのように知覚され理解されるかに強調点の置かれた音環境。個人あるいは特定の共同体や民族その他、文化を共有する人々のグループとその環境との間の関係によって規定される」と定義されている。さらに「この用語は現実の環境を意味する場合もあれば、とりわけそれが一種の人為的環境とみなされた場合には、音楽作品やテープモンタージュのような抽象的構築物を意味する場合もある」という文言が続く等の理由から、学術用語としての曖昧性が指摘されることがある。だが、サウンドスケープ論の本質が、聴覚と視覚、学術と芸術、人工と自然等、アートとデザインその他、西欧近現代がその社会に張り巡らせてきた各種の境界を乗り越え、より全人的で総合的な環境の把握認識とその創造活動を実現をめざすものであり、そうした曖昧性にはむしろ積極的な意味がある。このことは、サウンドスケープ論がカナダで提唱されたという事実、また日本サウンドスケープ協会が存在するという事実にも深く関係する。(鳥越けい子)

サケ漁業
カナダはサケの輸出国である。カナダ太平洋に面したブリティッシュ・コロンビア州沿岸地帯で漁獲される天然物のベニザケが商業的にもっとも重要である。フレーザー川を遡るサケの伝統的漁業は、多くの先住民文化形成に影響を与えてきた。また1687年以降は日本人漁民が和歌山県三尾村から継続的に移民として来て、港町スティーブストンにおいてサケの缶詰業に携わり盛況を極めた。サケはたんぱく質に富み、飽和脂肪酸とコレステロールが少量で、心臓病予防に効果のあるオメガ3脂肪酸の含有量が多いことで健康栄養食品としてカナダの人に好まれている。また、缶詰をはじめ燻製品、ジャーキー、パテなどの商品で海外に進出している。なお、ヨーロッパで好まれるキング・サーモンの養殖は大西洋岸のニューブランズウィック州のファンディ湾で行われている。ケベック州などでは湖で獲れる淡水産のサケ(マスに分類される時もある。)が一般的である。(友武栄理子)

サスカチュワン州(Saskatchewan)
西部平原3州の一つ。東経101.5°(マニトバ州に東接)から110°(アルバータ州に西接)まで、南は米国に、北はノースウェスト準州に接する面積約570,113km2で平原3州の約3分の1に相当する。州都はトランスコーナカナダ(国道1号線)上にあるリジャイナ(Regina)である。国道1号線沿いのムース・ジョー(Moose Jaw)や国道16号線沿いのサスカトゥーン(Saskatoon)などの都市が点在する。州の3分の2にあたる肥沃な平原は南部にあり、小麦・カノーラ・ライ麦・燕麦・大麦・亜麻仁・牛・豚の大生産地である。北部35万平方キロメートルに広がる森林資源の他に、ウラン・カリウム・石油・金・天然ガス等の埋蔵量も多い。プリンス・アルバート国立公園の他に多くの湖沼や河川があり、観光資源も豊かである。1909年に設立されたサスカチュワン大学はサスカトゥーンにあり、農学部をはじめ14学部からなる。リジャイナにあったキャンパスは1974年リジャイナ大学に昇格した。州花は赤ユリ(Red Lily)である。(草野毅徳)

サスカチュワン大学(University of Saskatchewan)
サスカチュワン州サスカトゥーン市に拠点を置くサスカチュワン大学は、1907年に設立された州立大学である。農学部や商学部、工学部、医学部、看護学部、家政学部、薬学部、獣医学部、歯学部、教育学部などの学部が設置され、25,000人を超える学生を擁している。カナダ中央部大平原に位置し、農業の中心地であることもあり、特に農業分野の研究が有名で、最先端の研究機関である。また、国際交流も積極的で、3,300人を超える留学生が学んでいる。(新山智基)

サスカトゥーン(Saskatoon)
サスカトゥーンは、サスカチュワン州の中央部に位置する都市であり、1906年に市制が敷かれた。平均気温は、夏の40度、冬のマイナス40度と気温差が大きく、四季がはっきりしている。市の人口は増加を続けており、2016年246,376人で、サスカチュワン州のなかで最大の都市である。サスカチュワン大学(University of Saskatchewan)は同市にある。また、同市は、小麦やカノーラなど農産物の国内市場の中心地である。さらに、ウラニウムの世界最大の輸出地域であるとともに、肥料や工業用に使われるカリウム(potash)の埋蔵量は世界一であり、鉱山業も同市経済の重要な地位を占める。サスカトゥーン・ベリー(saskatoon berry)もよく知られている。(岩﨑利彦)

ザ・バンド
世界的に認められたカナダのロック・バンド。ギタリストのロビー・ロバートソン(1943年生)ら5名のうち4名はカナダ人(ドラムのレヴォン・ヘルムのみ米国人)。その前身は、トロントに移住した米国人ロカビリー歌手ロニー・ホーキンズのバックバンド、ザ・ホークスとして1959年に誕生し、1965~66年にボブ・ディランと共演。1968年にザ・バンド名でデビュー盤『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を発表。カントリー、フォーク、ソウル等を統合したロック史上の名盤とされる。アルバムはほかに『ザ・バンド』(1969年)、『ステージ・フライト』(1970年)『ロック・オブ・エイジズ』(1972年)、『南十字星』(1975年)など。1976年解散。1983~93年に再結成。(宮澤淳一)

サンダーベイ(Thunder Bay)
オンタリオ州北西部のスペリオル湖北西岸に位置する人口約11万人の都市。1970年にポート・アーサーとフォート・ウィリアムなどの都市を合併してサンダーベイとなった。現在の名前は、この町が同じ名前の湾に面することから付けられた。セント・ローレンス川と五大湖を利用したセント・ローレンス水路の最も奥に位置し、中西部から鉄道によって運ばれた穀物の積み出し港で、世界有数の穀物積み出し港となっている。地質学的にはカナダ楯状地に属し、土地全体が岩盤で耕作には適さず、若干の平地で酪農が行われる程度で、周辺は亜寒帯針葉樹林である。このために最も主要な産業はパルプと製紙、木材の加工である。また、カナダ楯状地には鉱物が豊富なため、周辺には各種の鉱山が多く点在する。
 先住民は東部森林地方の部族オジブワ族である。毛皮の交易が盛んであった1800年代前半は、毛皮の交易の拠点として栄えた。今日の人口は基本的にはアングロサクソン系が大半を占め、その後の移民は、ウクライナ、イタリア、フィンランド、スカンディナヴィア、スロヴァキア、ギリシャ、ドイツ、オランダ系が中心となっている。(広瀬孝文)

CNタワー(CN Tower)
経済的にも文化的にも最も活気のある都市トロントの玄関口といえるフロント通りにそびえる8角形の電波塔で、カナディアン・ナショナル鉄道が建設した。最上部のマスト(100m)を含めると全長553.33mもある。地上346m(342m)の屋内(屋外)展望台から、眼下にトロント都市圏やオンタリオ湖、晴れた日には約60kmも離れた対岸のナイアガラの滝のしぶきが見えるという。356m地点で、窓から出て展望台の縁(エッジ)僅か1.5mの幅を歩くEdgeWalkというスリル満点の遊歩道に人気がある。(杉本公彦)

CMA(大都市圏)(Census Metropolitan Area)
カナダ統計局により、1951年の国勢調査時で初めて採用され、16の地域が設定された。設定基準は時代とともに変化してきており、当初は人口5万以上の中核都市と、中核都市と密接な関係を有する複数の周辺市町村を含む人口が10万を超える大都市地域とされた。現在は、人口10万以上の中核都市と、周辺市町村のうち就業者の50%以上が中核都市を就業先としているか、もしくは就業者の25%以上が中核都市の常住者により占められる市町村を複数包摂する大都市地域とされる。CMAにより、大都市地域の基本統計が整備され、系統的な実態把握が可能になった。2020年には推計人口656万のトロントを筆頭に、その数は40となる。(藤田直晴)

シートン,アーネット T.(Seton, Ernest T. 1860-1946)
シートンは1866年に5歳でオンタリオ州に移住したが、トロント周辺の当時の未開の白然が彼の後年に影響を与えた。オンタリオ美術大学、英国王立美術院を卒業、1892年より5年間マニトバ州政府の博物学者となるが、その間ニューヨーク、パリで挿絵や絵画の修行をつみ、博物学専門書2冊を刊行する。のちパリをへて1896年より米国に永住、以後の活動は大別3分野にわたる。従来の博物学者・挿絵画家としての仕事に加えて、米国ボーイスカウトの育成とインディアンを手木とした山林生活法に関する10数冊の手引書出版、そしてもっとも顕著なのは20冊を優にこえる動物物語の出版。シートンの動物物語はその感傷性、擬人手法により科学者から批判をうけたが、動物の行動への正確な観察・知識を伴う浪漫的・予言的視点、原始と野性のもつ崇高さの描写力への評価は高く、アトウッドの文学論などでは伝統的カナダ文学としての価値付けもされている。(渡辺 昇)

ジェイ条約(Jay Treaty, 1794)
フランス革命時に、アメリカ合衆国がイギリスと締結した条約。公海上の中立貿易の安全保障と、独立以後も領内北西部7ヵ所に駐留したままの英軍の撤退を求めたもの。合衆国側の特使ジョン・ジェイの名を冠す。イギリスはその時までに合衆国商船に与えた損害の賠償と、1796年までの合衆国内駐留軍の完全撤退を約したが、その他の後々の保証には暖味さを残した。合衆国内では国辱的対英譲歩として不評であった。しかしこの条約は、翌1795年の米西間のピンクニー(T. Pinckney)条約、インディアン12部族とのグリーンヴィル(Greenville)平和条約を生む契機となり、合衆国にとっては西部領土保全、戦争回避という点で大きな意義を有した。アッパー・カナダ側が密かに目論んでいた、合衆国内にインディアン衛星国を形成せんとする計画は、これにより事実上崩壊した。(江川良一)

シェーファー,マリー(Schafer, R. Murray, 1933-2021)
1933年7月18日オンタリオ州サーニア生まれ。2021年8月14日没。現代カナダを代表する作曲家、サウンドスケープ概念の提唱者、音と環境をめぐる思想家・実践家・教育者。その活動は、グラフィックデザインや音響彫刻の制作、E. T. A. Hoffman and Music (1975年)等の評論活動にも及ぶ。トロント大学音楽学部ディプロマプログラムに在籍中、作曲をジョン・ワインツヴァイツに、ピアノをアルベルト・グレーロに師事した後、ヨーロッパ各地を訪れながら、文学、美術、哲学、宗教等を独力で幅広く学んだ。1961年に帰国し、前衛的な音楽作品を発表しつつ、1965年ヴァンクーヴァーに新設されたサイモン・フレーザー大学に赴き、同大学にWSP (World Soundscape Project) を設立し、カナダをはじめヨーロッパ各地で音環境の野外調査を実施。1977年には主著『世界の調律』 The Tuning of the World(1986年)を通じて、人類誕生以前から現代までのサウンドスケープの変遷を辿ると共に音響生態学とサウンドスケープデザインの必要性を主張している。作曲家としては生涯を通じて、管弦楽曲や合唱曲を書き続けるが、特に1980年以降からは各種の環境を舞台とした音楽劇等、従来の様式にとらわれない各種の作品を構想・上演・展開している。音・音楽に関わる著作にも、上記の実験的音楽教育に関する著作、音環境をめぐる課題集邦訳『サウンドエデュケーション』A Sound Education (1992年)、最晩年の自身の創作活動と思想哲学をまとめたPatria: The Complete Cycle (2002年)、自伝 My Life on Earth & Elsewhere (2012年) に至るまで、多くの著作がある。(鳥越けい子)

シェルブルック大学(University of Sherbrooke, Universite de Sherbrooke)
1954年に創立されたシェルブルック大学はケベック州エストリー地域のシェルブルックにあり、マネージメントスクール、法学部、教育学部、工学部、人文科学部、医学・健康科学部、理学・物理学部、環境と持続可能な開発のための研修センターを有する総合大学である。前身は1875年にカトリック司教のアントワーヌ・ラシーヌによって創設されたシェルブルック・セミナーという私立の教育機関。シェルブルックは英・仏バイリンガルが多い学園都市で、シェルブルック大学は、北米にありながらフランス語で授業を行うユニークな教育環境を提供している。学生数は3万1000人程度で、世界90カ国から約2,000人の留学生を受け入れている。また、定年後に大学で学ぶ第三世代の学生数も多く、毎年約1万人が在籍している。研究面での躍進がカナダ国内でも高く評価されており、研究成果から毎年2億ドルを超える収入を得ている。持続可能な開発や環境問題への取り組みという価値観が根付いており、持続可能な開発における国際的認証(STARS)を取得している。(近藤野里)

静かな革命(La Revolution Tranquille)
1960年から1966年までに生じたケベック州における急激な社会変動現象、およびそれにともなうフランス系カナダ人の意識変革をいう。フランス系は北米最後の英・仏植民地戦争に敗れて以来、長らくカナダのなかでひたすら保守的・内向的な価値観、大家族制、および農耕主義的・伝統主義的な社会構造のなかにあった。さらに近代的な経済発展に対しては遅れをとり、フランス系住民の政治意識も低く、そして第2次世界大戦前後にかけてモーリス・デュプレシ州首相による独裁政権をも生んでいた。「静かな革命」は、こうした前近代的劣位状況からの離脱として始まった。その端緒となったのが、ケベック白由党のジャン・ルサージュ政権の登場であつた。標語となったのが「我が家の主人!」(Maitre Chez Nous!)。広範な社会正義と近代化を求めるこの動きは、たとえば電力の州有化、産業化の促進、教育の教会支配からの解放、あるいは芸術などフランス系文化の「開花」などにまでわたった。ただ、この大きな社会変動は民衆から生じたのでなく、政治エリート先導による「上から」の、そして暴力を伴わない変革でもあった。これが「静かな革命」と称される由縁である。なお、この名称はトロントの『グローブ&メール』紙の記者が当時のケベック社会を報じた際に用いたのが初出だった。(竹中豊)

自動車産業
カナダにおける自動車産業の歴史は、1904年オンタリオ州ウィンザーのゴードン・マグレガー(Gordon M. McGregor)なる人物が、カナダ・フォード自動車株式会社を設立した時に始まるといわれる。ヘンリー・フォード(Henry Ford)がデトロイトで自動車生産を始めた1年後のことである。カナダ・フォードの自動車はまもなく英帝国全土に出荷されるようになった。1907年になると、馬車や橇(そり)の生産から身を起こしたオシャワのマクローリン家のロバート・サミュエル・マクローリン(Robert Samuel McLaughlin)が、当時ビュイック自動車(Buick Motor Co.)を買収して自動車生産を開始し、1908年には米ゼネラル・モーターズ社(General Motors Co.)を設立することになるウィリアム・デュラント(William C. Durant)の援助を得て、マクローリン自動車会社(the McLaughlin Motor Car Co.)を設立した。この会社は設立初年度の1907年にはビュイック社製のエンジンを搭載した車を193台生産している。さらにロバートは1915年にシボレー社の生産を行うために、シボレー・カナダ社(Chevrolet Motor car Co. of Canada)も設立した。順調に発展を遂げていた両自動車会社であったが、1918年、マクローリン自動車会社とシボレー・カナダ社はデュラントの企業拡大政策のため、ゼネラル・モーターズ・カナダ社(General Motors Canada)に吸収され、カナダ国内自動車企業は消滅することになった。その後のカナダ自動車産業の歴史をみると、1965年加米自動車協定、1994年の北米自由貿易協定などを通じて、アメリカとの関係が強化され、フォードやGMといったアメリカ自動車会社の子会社がオンタリオ州を中心に展開するとともに、ヨーロッパ系のステランティス、そしてトヨタ、ホンダをはじめとする日本の自動車会社もすべてオンタリオ州に工場展開している。またデンソー、コンチネンタル、あるいはカナダの現地企業であるマグナなどさまざまな自動車部品のサプライヤーも組み立てメーカーと協力して自動車産業全体を支えている。カナダ人所有の自動車会社は存在しないが、2020年現在、カナダの全産業の付加価値額(1兆8768億加ドル)のうち、不動産関連産業(2561億ドル)に次いで、製造業は2番目の産業であり、その付加価値額は1781億ドルである。この数値は付加価値額全体の9.5%を占め、製造業がカナダにおいて重要な役割を担っていることがわかる。なかでも自動車産業は、カナダの製造業において、食品製造業(261億ドル)に次ぐ2番目(221億ドル)の付加価値生産部門である。(榎本 悟)

児童文学
原野に迷う少年少女3人のサバイバルを描いてカナダの児童文学第1号となったC・P・トレイル(C. P. Traill)の『カナダのクルーソーたち』Canadian Crusoes(1852)以来、この国の手つかずの自然は冒険小説を始めとする様々なジャンルに恰好の素材を提供してきた。特筆すべきは動物物語で、擬人法に頼る従来の動物寓話と異なり、自然界の生物をありのままに観察・記録しようと試みたE・T・シートン(E. T. Seton)の『私が出会った野性動物』Wild Animals I have Known(1898)やC・G・D・ロバーツ(C. G. D. Roberts)の『赤ギツネ』Red Fox(1905)等は、今や古典として国内外で評価が高い。L・M・モンゴメリ(L. M. Montgomery)のロングセラー『赤毛のアン』Anne of Green Gables(1908)でも、想像力の豊かな少女の眼で捉えたプリンス・エドワード島の田園風景が精彩を放っている。スケールの大きな自然との一体感が窺える点では、先住のインディアンやイヌイットの口承民話もまた見逃すことができない。概して写実的な作風が優勢であったカナダの児童書だが、ファンタジーやSFなどの分野も活気を見せつつある。(石井英津子)

シマザキ,アキ(Shimazaki, Aki 1954- )
1954年、岐阜県に生まれの日系カナダ人作家。1981年にカナダに移住(1991年からモントリオール在住)。1994年に小説『Tsubaki (椿)』を出版し、2004年には『Hotaru (蛍)』でカナダ総督賞を受賞した現代日系カナダ人作家を代表するひとり。代表作には、2000年にケベック文学アカデミーのランゲ賞を受賞した『Hamaguri (蛤)』や2003年にカナダ芸術評議会のカナダ日本文学賞に輝いた『Wasurenagusa (忘れな草)』に加えて、2019年の『Suzuran (鈴蘭)』などがある。作品は、それぞれ『Le poids des secrets (秘密の重み)』、『Au cœur du Yamato (大和の心)』、『L’ombre du chardon (薊の影)』のタイトルで3巻にまとめられており、4巻となる『Suzuran』と『Hotaru』とを合わせて5部作となる。(下村雄紀)

社会保障制度
(1)主な所得保障には、①失業給付(「雇用保険法」参照)、②老齢年金給付(「年金制度」参照)、③児童給付、および、④社会扶助(「ウェルフェア」とも言われ、最後のセーフテーネットであるが、給付内容・制度は州により異なる)などがある。児童給付は、1945年、連邦政府による家族手当を起源とする。その後、何度かの制度変更が行われ、現金給付や児童税額控除のかたちを経て、2016年に現在の「カナダ児童給付」(Canada child benefit:略称CCB)となった。CCBは連邦政府による月ごとの現金給付であるが、給付額は子どもの年齢が6歳未満の場合と6歳から17歳までの場合では異なる。また、高所得世帯は減額される。なお、この給付に加えて、各州政府が独自の児童給付を設けている。
(2)医療保障には、州健康保険がある(「医療保障制度」参照)。
(3)社会福祉サービスには、介護サービスがあるが、利用者への補助内容は州により異なる。(岩﨑利彦)

ジャクソン,A.Y.(Jackson, A. Y 1882-1974)
モントリオール出身の画家、著述家。グループ・オブ・セブンの主要メンバーで、著作を通して生涯にわたり、グループの国土に根ざしたナショナリズムの推進者、代弁者を務めた。トム・トムソンと親交を結び、彼に絵画技法、特に色彩を指導し、一方ジャクソンは、トムソンを通してカナダのイメージ、北の荒野を知る。遠隔地の風景を求め、オンタリオ州はもとより、ロッキー山脈、北極、マリタイムズと国内を遍歴して絵筆を取ったことで知られる。またカナダの際立った特色の冬の風景を好んで描いた。単純なフォルムと温和な色彩で力強く、印象深い作品を残している。(伊藤美智子)

ジャスパー国立公園(Jasper National Park)
バンフ国立公園と並ぶカナディアン・ロッキーの世界的に有名な観光名所。1907年に設立。10,880km2。ロッキー山脈中の4公園(Bannff, Kootenay, Yoho, Jasper)の中では最北部に位置する。風雨氷によるU型渓谷や標高3,700メートルを超える山並みを有する。ムース・エルク・ミュールジカ・ブラックベア・コヨーテ・ワイルドゴートなどの野生動物も見られる。カナディアン・ナショナル鉄道(CNR)の開発と共に発展した。ジャスパーの町から南西3キロメートルにある標高2,400メートルのウィスラー山(Mt. Whistler) からのアサバスカ渓谷の眺望をはじめ、マリーン・レイク、ピラミッド・レイク、パトリシャ・レイク、エディス・レイク、エンジェル氷河、コロンビア大氷原などが特に有名である。(草野毅徳)

シャトー・クリーク(Chateau Clique, 城砦閥)
1830年代までロワー・カナダ植民地の政治・経済を支配した寡頭政治を指し、植民地総督公邸サンルイ城に政府が置かれたため付いた名称。任命制の行政・立法評議員やその他重要な官職についた少数派のイギリス系商人層がその構成員で、運河建設、銀行制度の確立を押し進める一方、ケベック法で保証された領主制とフランス民法の廃止を訴えた。フランス系が多数派を占めた立法議会との対立が深まり、パピノーの反乱(1837)を招くこととなる。(木野淳子)

シャーロットタウン (Charlottetown)
プリンス・エドワード・アイランド州の州都。同島の中部ヒルスボロー(Hillsborough)湾に臨む良港。人口約3万9千人(2021年)。製材業、羊毛・鋳物工業等が根づき漁業も盛んである。 1720年頃フランス人が建設した。1864年9月、大西洋沿岸3植民地の連合を議す会議の開催地として知られる。いわゆるシャーロットタウン会議は、本国の旧植民地体制の終焉と、南北戦争中のアメリカ合衆国からの外圧に対処し、3植民地の政治・経済上の自衛のための連合を企図したものであった。しかしこの会議は、強引に参加した連合カナダ代表達の、英領北アメリカ全植民地による連邦結成という、より壮大なる企画に呑みこまれて結局流会した。翌10月にはケベック会議が開かれて、コンフェデレーションヘの動きが加速されたのであり、シャーロットタウン会議は、カナダ自治領誕生への重要な一里塚となった。(江川良一)

シャンプラン,サミュエル・ド(Champlain, Samuel de c 1570-1635)
フランスの探検家、軍人、地図作成人、ヌーヴェル・フランス総督 。カナダへの初航海は1603年。以後、彼の生涯とキャリアは、植民活動、北米大陸の探検と地図の作成、一部先住民との連携などに注がれる。植民活動については、1605年に現在のノヴァスコシア州にあるポールロワイヤルを建設し、フランス人による入植を目指した。だがそこが地の利に適さないとわかると、1608年にセントローレンス川に面した現在のケベック市に要塞基地を築く。ケベックは毛皮交易にとって好都合の地であるのみならず、ヨーロッパにも通じる良港の要件をもっていた。やがてそこは北米におけるフランス文明の拠点となる。さらに五大湖周辺や彼の名を帯びるシャンプラン湖周辺を探検航行し、その結果、現在のオンタリオ州を含む東部カナダの地理的概要が少しづつ明らかになっていく。彼の探検記・地図は、歴史的にきわめて貴重な記録として伝わる。他方、行政官としては、初代総督(1608-35)を務め、農耕を中心とした永久的植民活動の基盤つくりに大きく貢献した。また先住民のヒューロンらと友好的関係を結ぶ。彼のカナダ史に果たした意義は絶大で、多く語り継がれ、「ヌーヴェル・フランスの父」とも称される。だが、実際のところ彼の生年ははっきりしない。探検記録は残っているものの、自分自身については何ひとつ語っていない。どんな容貌だったのかもわからない。彼の肖像画はあるものの、それは19世紀にケベックで創作された“想像図”に過ぎない。シャンプランとは、実は謎に包まれた人物でもある。(竹中豊)

初等・中等教育制度
カナダの学校制度は州によって異なる。例えば、最大都市トロントのあるオンタリオ州では法令上、学校は8年間の小学校と4年間の中等学校から成るとされているが、8年間の小学校の後期2年間を「中学校」としている場合もある。2010年に冬季オリンピックが開催されたバンクーバーのあるブリティッシュ・コロンビア州では、1-8年生を小学校、7-8年生を中学校、9-12年生を中等学校としていたり、中学校がない場合中等学校に7-8年生を含む場合もあり、同じ州内でも地域によって異なる。他方で、ケベック州の11年を除いて学校教育は12年間であり、就学前教育と併せて初等・中等教育は「K(kindergarten)-12」あるいは「JK(junior kindergarten)-12」と表現される。小学校や中学校、高校、中等学校など一定の学年段階で学校を区切るところは日本と同様であるが、学年の数え方は異なる。日本では学校段階が変わるごとにリセットする(小学校6年生の次は中学1年生)が、カナダでは通しで数える(日本の中学2年生・高校2年生に当たる学年をカナダではそれぞれ8年生・11年生と呼ぶ)のが一般的である。
 学校の種類としては、全10州で英語を教授言語とする無宗派のいわゆる「公立学校」とフランス語を教授言語とするフランス語系学校が公費で運営されている。例えばオンタリオ州では、英語系無宗派学校、英語系カトリック学校、フランス語系無宗派学校、フランス語系カトリック学校と、言語と宗教の観点から4種類の学校が存在し、それぞれを管轄するために4種類の教育員会が別々に設置されている。特に宗派的マイノリティの学校を「分離学校」と呼び、多くの州ではカトリック系学校がこれに当たるが、少ないながらもオンタリオ州にはプロテスタント系分離学校も存在する。州によってはカトリック系学校なども公費で運営されているが、私立の場合もあり、例えばブリティッシュ・コロンビア州では、フランス語系学校は公費で運営されているが、カトリック系学校は私立であるなど、州によって異なる。私学助成については、オンタリオ州には存在しないが、アルバータ州では一定の要件の下助成金が支給されることになっている。その他の州でも、フランス語イマージョンやホームスクーリングなど、多様なプログラムが準備されている場合が多い。(平田淳)

ジュアル(Joual)
 おもに発音と語彙に特徴をもつ、ケベック州の都市部で広まったケベック・フランス語のバリエーションの一つであり、一種のスラングでもある。フランス語で馬を意味するcheval(シュヴァル)という語がケベックで発音されるとジュアルと聞こえるということに由来する。ジュアルは多くの場合、調音にその特徴を見ることができる。例えば二重母音oi(ワ)はwe(ウエ)と発音される。このような音声上の特徴は書き言葉の中にも入っていった。ジュアルはイデオロギー的側面も併せ持つ。1960年代の革命派・独立派の雑誌『パルティ・プリ』やJ.ルノーの小説はモントリオールの労働者階級のジュアルを用いて、フランス系住民の疎外感を表現した。ジュアルによる言葉の劣化が当時のケベックの不安定な社会状況を告発する手段ともなっていたのだ。(寺家村 博/佐々木奈緒)

真実と和解の日 (National Day for Truth and Reconciliation)
2021年5月にブリティッシュコロンビア州カムループスにあった先住民寄宿学校の跡地から約200体の先住民児童の遺体が発見された。このことがきっかけとなり、先住民の子どもたちが強制的に寄宿学校で教育を受けさせられたという負の遺産を記憶にとどめ、先住民との和解を促進するための特別な記念日として「真実と和解の日」が制定された。カナダでは先住民を主流社会に同化させるために1880年代より各地に寄宿学校が創設された。最後の学校が廃校となった1996年までに約15万人の先住民児童が寄宿学校で教育を受け、このうち約6000人が病気や虐待が原因で死亡した推定されている。カナダにおける悲惨で痛ましい先住民寄宿学校の負の歴史については、2008年にケン・ハーパー首相(当時)が公式に謝罪していたが、2021年の先住民学童の遺体発見を契機に問題が再顕在化した。トルドー首相は、「寄宿学校の痛ましく、長く続く影響を振り返り、生存者やその家族、コミュニティーを尊重する日だ」という声明を発表し、2021年から毎年9月30日がカナダの祝祭日「真実と和解の日」となった。なお、9月30日は寄宿学校で命を落とした児童と生存者を歴史的記憶にとどめ、弔意や遺憾を表すための「オレンジ色のシャツの日」(Orange Shirt Day)でもある。(岸上伸啓)
(参考文献)
中井大助「カナダ「真実と和解の日」 先住民学校 負の歴史向き合って」『朝日新聞』2021年10月2日(土)朝刊。

セントジョンズ (St. John’s)
ニューファンドランド州の州都。人口は約11万人、都市圏人口は約21万人である(2021年)。島の南東海岸にある天然の良港。1497年にジョン・カボットが見つけたといわれ、その頃より白人集落ができた。1583年にイギリスの植民地が発足したが、1762年に至る間、何度もフランス・インディアン連合軍との争いがあった。北大西洋の重要な港や空港の町として発達。造船・水産加工が盛んである。かつては捕鯨基地として知られた。(正井泰夫)

十月危機(Crise d’octobre)
1970年10月5日、英国外交官J.クロスがケベック解放戦線(略称FLQ)によって誘拐された。10日には州政府労働大臣P.ラポルトも誘拐される。FLQの要求は、政治犯の釈放や身代金の支払いなどであった。15日にP.E.トルドー連邦首相は「戦時措置法」を発動して戒厳令をひいた。17日には、ラポルトが死体となって発見された。12月3日、5人の実行犯のキューバ亡命が許され、クロスが解放される。また、ラポルト誘拐殺人実行犯は同月28日に逮捕された。戒厳令発動によって過激派に関与したとして400人以上が逮捕され、人権侵害ではなかったか今でも賛否両論があり、ラポルト殺害の詳細に関しても謎が残っている。また、過激な分離独立運動が事件後影を潜め、ケベック党を中心とした合法的な運動に収斂していく。(小畑精和)

主権・連合構想(Sovereignty-Association)
圧倒的にフランス語系住民の多いケベック州において、1980年、当時の政権党ケベック党が打ち出した主要政策理念。その主張は、ケベック州の「政治的自治」の拡大、および連邦国家カナダとケベックとの間の「経済的連合」を意図する内容であった。もともとその思想的ルーツは、フランス系にとってのカナダとは、英語系とフランス語系から成る二元国家だ、とする考え方にある。同年5月、ルネ・レヴェック率いるケベック党は、この「主権・連合」構想実現のために、連邦政府との交渉権付与を求め、その賛否を州民に問いかけた。これがレフェレンダムである。結果は59.5%が「ノン」と出て過半数に至らず、ケベック党の目標は挫折した。ただ、この州民投票はよく誤解されるのだが、ケベック州政府がカナダからの分離・独立を求めて実施したものではない。この構想の底流にあるのは、英語圏のなかにあるフランス語圏社会の「独自性」を主張する、というケベック・ナショナリズムの政治的表現であった。(竹中豊)

ジュノー賞(Juno Awards)
米国のグラミー賞に相当し、毎年催されるカナダの音楽賞。1970年に創設、翌年にこの名称がつけられたが、これはギリシャ神話の女神の意味だけでなく、カナダ・ラジオ・テレビ委員会の最初の委員長で1970年にラジオ番組の音楽の30%を「国産」とすることを決めたピエール・ジュノー(Pierre, Juneau 1922-2012)の名にちなむ。1975年には審査団体としてカナダ録音芸術科学アカデミー(Canadian Academy of Recording Arts and Sciences:CARAS)が創設され、今日に到る。ジュノー賞には、ポピュラー、クラシック、ジャズとジャンルを網羅し、その年に最も優れたアーティストやアルバムを表彰する多岐にわたる賞が用意され、カナダの音楽産業の振興に役立っている。(宮澤淳一)

準州(Territory)
連邦制度をとるカナダでは、州(province)に指定された地域以外を準州と呼ぶ。準州の自治権は限定的であり、立法権や行政権は連邦政府が持っている。また、歳入のほとんどを連邦政府から得ている。1867年のカナダ自治領(Dominion of Canada)成立当時、大西洋岸、五大湖沿岸、ブリティッシュ・コロンビア、北極海諸島を除く範囲がNorth West Territoriesと呼ばれていた。その後、新州の成立、州の領域拡大、北極海諸島の正式領有による併合、1898年のユーコン準州(準州都ホワイトホース)の分離などがあり、ノースウエスト準州(Northwest Territories、準州都イエローナイフ)が成立した。しかし、1999年には同準州の中部および東部がヌナヴト準州(準州都イカルイト)として分離独立した。ノースウエスト準州とユーコン準州、ヌナヴト準州は、カナダの総面積のほぼ3分の1を占めている。総人口は約4.5万人(2021年)と非常に少ないが、カナダのほかの地域と比べると先住民人口の割合が非常に高い。地下資源や水資源、森林資源を豊富に有している。(岸上伸啓)

障害者法(Disability Legislations in Canada)
障害者に対する差別を除去し、その社会参加を保障するための法のあり方は、国や地域、さらには時代において相違がある。カナダでは、連邦憲法上の人権規定である「カナダ権利自由憲章」の第15条(平等条項)が、「人種、国籍、民族的出自、体色、性別、年齢」と並んで「精神的及び身体的障害」を差別禁止事由としていることを出発点として、カナダ人権法(Canadian Human Rights Act)をはじめとする各種立法やガイドラインを制定してきた。しかし、障害者の完全な社会参加を権利として保障するという観点から、より強力な法が必要であると考えられ、2010年には、国連の「障害者権利条約」(UN Convention on the Rights of Persons with Disablities)を批准し、さらに、2019年には「アクセシブル・カナダ法」を制定した。この法律は、2040年までにカナダをバリアフリー化することを目標とし、雇用等7つの優先分野でのアクセシビリティの障壁を積極的に特定、除去及び予防することを定めている。
州においては、オンタリオ州が2001年に「障害をもつオンタリオ人法」(Ontarians with Disabilities Act, 2001) を制定し、さらに2005年には「障害のあるオンタリオ人のアクセシビリティ法」定めて先行してきたが、マニトバ、ノバ・スコシア、BCでも同様の立法がなされている。(佐藤信行)

ショッピファイ (Shopify)
コンピュータ・ネットワークを通じて財やサービスの商取引を行うEC(eコマース[電子商取引])を仲介するソフトウェアはECプラットフォームと呼ばれており、そこには販売業者と消費者がそれぞれ参加する。Shopifyは、2004年にトビアス・リュトケ(Tobias Lutke)らによってスノーボードを販売するオンラインストアとしてカナダで設立された企業であり、その後ECプラットフォームとして急速な成長を遂げている。オタワに本社をおく同社は、インターネット上に開設したShopifyオンラインストアにおいて、販売業者の自社ECサイトによるオンライン販売店舗の立ち上げと運営を支援する。こうした事業は、製造者が消費者に商品を直接販売して顧客との関係を構築するD2C(ダイレクト・トゥ・コンシューマー)というビジネスモデルの発展を促進している。Shopifyを利用する販売業者は、Shopify専用アプリを利用することにより、SNS、オンラインモールなどと連携してEC機能を拡大することもできる。さらに、実店舗においてもShopify POS(point of sales)システムとして EC 販売を行うことができる。同社によれば、2021年現在、世界175か国において170万以上の販売業者がShopifyを利用している。(池上岳彦)

ショート,アダム(Shortt, Adam 1859-1931)
カナダ銀行史において欠かせない経済史・経営史学者。クィーンズ大学を卒業し、グラスゴー大学とエディンバラ大学で学んだ。帰国後母校クィーンズ大学において教授として教育と研究に専念し、大学付属図書館長としても図書館初のカードカタログを作成するなど活躍した。その後「政府公務員」労働争議事件の調停審議会委員長として手腕を発揮し、行政改革にもある程度成功を遂げた。学歴、職歴から見ると実証的・歴史考察的・帰納的な研究者タイプの人物であった。ショート博士は、派手好みの歴史解釈型の史論家への道を選ばず、むしろ地味で手堅い史料収集・編纂型の実証史学者の分野に自身を投じた。前人未踏の大業とも称しうる「カナダ金融制度・貨幣制度史料集」の編纂・刊行、ならびに「ベアリング兄弟商会」史料群の整理・分類・カタログ作成(未完成のまま)という不朽不滅な業績を残した。(杉本公彦)

ジョンストン,フランク(Johnston, Frank 1888-1949)
トロント出身の風景画家。高校卒業後、商業美術の世界で仕事を始め、1910年代はじめ米国に渡ってフィラデルフィアやニューヨークで商業デザインを学んだのち、トロントに戻り風景画に取り組んだ。1920年には風景画を新しい感覚で描くことをめざす7人による「グループ・オブ・セブン」の結成メンバーに加わり、1926年にグループを離脱するまでトロントを中心に活躍した。彼のテンペラ画はグループの中でも異色で際立っていた。その後1927年に名前をフランツ(Franz)と改め、オンタリオ、ケベック、さらに北西準州の自然を描き続けた。写実よりも自身の感性で描く彼の作品は、今日でも親しまれ、カレンダー、ポスターなどでよく目にされる。(高村宏子)

ジョンスン,E.ポーリン(Johnson, E.Pauline 1862-1913)
E.ポーリン・ジョンスンはモホーク民族の酋長を父に、英国人を母にオンタリオ州の六部族連合居留地に生まれた。幼時より多感で聡明であって 12歳までの学歴ながら多くの英国詩を読破し、また自作の詩を内外の新聞・雑誌に発表した。30歳のころ認められてプ日の朗唱者となり、民族衣装をまとった魅カ的な容姿とあいまって大いに人気を博した。そのリサイタルは20回に近い西海岸での開催を含めて全国に及び、英国で3回、米国でも1回開かれ、高い評価を得た。健康を損ない1907年にヴァンクーヴァー市に引退するまでに三つの詩集が発行されており、これらは1917年に『火打ち石と羽飾り』Flint and Feather 1冊にまとめられた。他に3冊のインディアン伝説集がある。その詩作品は現在でも愛唱されつつも文学的評価は総じて低いが、大衆迎合的な作品の多い中にも抑圧に抗する民族意識・主張の光る詩のあることも見落とせない。(渡辺 昇)

『白き処女地』
マリア・シャンプドーヌ 参照

シルク・ド・ソレイユ(Cirque du Soleil)
1984年にケベックで結成されたサーカス集団。伝統的なサーカスとは異なる「ヌーボー・シルク(新しいサーカス)」と呼ばれ、アメリカのショービジネスの世界に進出するとともに世界的に大成功を収めた。オペラやロック調の劇音楽と超人的でアクロバティックな身体パフォーマンスを融合させ、作品ごとに独自の世界観を構築している。シルク・ドゥ・ソレイユは、約50カ国から集まった1,300人のアーティストを含め、約4,000人の人員を擁する世界最大規模のパフォーマンス・グループであり、2016年には1000万人に迫る年間集客数を記録した。日本でも1992年の『ファシナシオン』以来、2019年の『キュリオス』まで、毎回日本の主要都市を回るツアー(巡回)公演を行って計13作品を上演し、累計1,400万人を超える観客を集めた(東京常設公演の1作品を含む)。だが、2020年3月にCOVID-19の影響により世界中で上演中の44のショーがすべて中止となり、同社は深刻な経営危機に陥った。その後、会社更生手続きにより2021年6月に1年3ヶ月ぶりにラスベガス他で公演を再開したことが報じられた。(曽田修司)

人口
ヨーロッパ人による開拓の初期、1665年のヌーヴェル・フランスの人口は3,215人であったが、イギリスがフランスから政治的支配を奪った後、1775年には約7万人に増加した。自然増加と移民により、その後、人口は増え、ドミニオン・オブ・カナダが発足した1867年の人口は約350万人、最初の国勢調査が行われた1871年では369万人であった。2016年の国勢調査では、総人口は3,500万人を越え、エスニック上の出自は250以上となっている。同じデータによると、人口の最も大きい州はオンタリオ州(人口約1345万人)で、2位はケベック州(約816万人)。この2州を合わせると全人口の約60%がこれら2州に居住していることになる。エスニック上の出自では、ヨーロッパ系が約73%、ヴィジブル・マイノリティが約22%、先住民が約5%となっている。同じく2016年のデータによると、2011年からの5年間でカナダの全人口は5.4%の増加をみており、それ以前の増加(4.0%)より急速である。ただし、出生率が1.54ときわめて低いことから、人口増加は移民によりものであることがわかる。カナダは世界の主たる移民受け入れ国であり、移民政策は人口政策を顕著に反映している。外国生まれの人口は800万を超えており、出生国別では、最大が中国(香港、マカオを除く)で約75万人、次いでインド(約73万人)、フィリピン(約63万人)からの移民であり、いずれも1990年代から増加している。これらの移民の定着先としては、2011年以前は、オンタリオ州がその半数以上を受け入れ、ブリティッシュ・コロンビア州、ケベック州が続いていたが、2011年以降は、オンタリオ州に続き、アルバータ州が2位の定着先となっている。人口の言語上の特徴は、一般に英語系と称されるカナダ人は約56%、フランス語系が約22%であり、約12%が英語とフランス語以外の言語を日常生活で用いている(2016年国勢調査)。最近の特色は、世界の先進諸国と同様、人口の高齢化が進んでいることであり、2016年のデータでは、65歳以上の人口は全人口の16.9%となっている。(飯野正子)

新聞
カナダ最初の新聞は1752年3月23日発行の『ハリファックス・ガゼット』であるといわれる。その後発展したカナダの新聞業界は、地方紙が強い点が特徴である。英仏語の日刊紙は94紙ある(2010年)が、そのうち全国紙は『グローブ・アンド・メイル』など2紙。最大部数はオンタリオ州の『トロント・スター』で29万部(同年、平日の発行部数)。1990年代には110紙を越えていたが、インターネットの普及などに伴って廃刊が相次ぎ、部数も減少傾向にある。なお、国内で最初にオンライン版を開設したのは1994年の『ハリファックス・デイリー・ニューズ』だった。
 地方紙が乱立するのではなく、グループ企業として経営効率化を進めてきた点もカナダの特徴である。生き残りをかけた厳しい経営は大手にも及んでいて、特にオタワ、ヴァンクーヴァーなど都市部を中心に業界をリードしてきた11紙のグループ(現存する国内最古の『モントリオール・ガゼット』など)は2010年、発行母体が経営危機に陥った末、買収によって存続が確保され、苦戦が浮き彫りとなった。
 仏語新聞では、『ラ・プレッセ』などのパワー・コーポレーション・オブ・カナダ社とケベコー社の二社が有力。ほか『ル・ドゥボワール』は単独で存続する新聞として定評がある。これらの日刊紙のほかに、町単位のフリーペーパーなどコミュニティ・ニュースペーパーと呼ばれる1,100紙がある(2010年)。さらに、カナダの特徴として、多言語多文化を反映したエスニックプレスの存在が挙げられ、250紙以上あるとされるが、これらもデジタル化等に伴って経営は苦戦を強いられている。(宮原 淳)

進歩保守党(Progressive Conservative Party)
1942年から21世紀初頭まで存在した政党。中道右派の伝統的な保守主義と新自由主義的なポピュリズムの併存をその政治理念の特徴としている。その形成は、オンタリオ州や西部諸州にて農業利害の見解を訴えることで一定の支持を得ていた進歩党の党員でマニトバ州首相のジョン・ブラッケンが、1942年に党名変更を条件に保守党党首に就任したことに端を発する。1957年総選挙にて、ジョン・ディーフェンベーカーが反米・親英のカナダ・ナショナリズムを掲げることで、進歩保守党は名称変更後初めて政権を獲得した。しかし、北米共同防衛政策をめぐって、同党はアメリカ合衆国の不信を招いたことで国民の支持を失い、その後もジョー・クラークが党首であった1978年に政権を得るも安定した政権運営を行うことが出来なかった。1984年に、ブライアン・マルルーニーが自身の出身であるケベック州のナショナリストや、党が堅持する西部からの支持を得ることで総選挙に勝利すると、それまでの自由党政権が進めていた経済ナショナリズムを放棄し、外資受け入れの拡大や対米自由貿易の推進といった新自由主義的な経済政策を採用することで不況に苦しむ国民からの支持を得ようとした。しかし、マルルーニーは1982年憲法を批准しないケベック州に対する優遇を認めた憲法改正案(「ミーチレイク協定」、「シャーロットタウン協定」)を提起することで、ケベック州の優遇に対して政治経済的に西部を軽視していると批判され、西部の右派ポピュリズムの見解を代弁する改革党が結党される一方、憲法改正案の破綻に落胆したマルルーニー内閣の閣僚ルシアン・ブシャールによる離反とブロック・ケベコワの結党を招いた。加えて、マルルーニー政権による不況克服策の失敗や物品・サービス税の導入も、進歩保守党支持の急落に拍車をかけた。こうした状況下で行われた1993年総選挙で、進歩保守党は169議席から2議席へと転落し、そこから復調することは出来なかった。その後、進歩保守党は保守勢力の結集を図るべく、改革党の流れを汲むカナダ改革・保守同盟(カナダ同盟)との合併交渉に入り、2003年にカナダ同盟党首のスティーヴン・ハーパーを新党首としてカナダ保守党が結成されることとなり、一部合併への反対者はいたものの、進歩保守党は事実上消滅した。 (福士純)

新民主党
カナダの社会民主主義政党。かつてはCooperative Commonwealth Federation (CCF)という党名であったが、1961年に現在の党名となった。連邦レベルと州レベルで政党が峻別される二元的政党システムが特徴的なカナダにあって、双方のレベルの政党のつながりが強いことが特徴的である。連邦レベルでの政権担当経験はない(少数与党であるカナダ自由党政府を非公式なかたちながらもサポートすることはあった)ものの、州レベルでは1945年のサスカチュワン州を皮切りに、オンタリオ州、マニトバ州、ブリティッシュ・コロンビア州などカナダの主要州で政権を獲得した実績もある。新民主党とその前身であるCCFが、カナダの充実した社会保障政策や、高度な福祉国家化に果たした影響力は大きい。たとえば皆保険制度は、トミー・ダグラス率いたサスカチュワン州政府がカナダで最初に導入し、のちにカナダ全土で採用されることとなった。新民主党が主張した社会福祉政策は、連邦レベルではカナダ自由党政府がそれを自らの政策に取り入れることによって実現したことが多く、カナダ政治におけるその存在感は実際の連邦議会下院での議席数以上に大きなものがある。20世紀後半に長く党首を務めたエド・ブロードベントはその飾らない人柄とユーモアに富んだ演説巧者ぶりからカナダ国民に親しまれ、このとき党勢が拡大することとなった。また、1990年代にはカナダ10州のうち4州で州政権を担当しており、やはり中道左派的なスタンスであるケベック州のケベック党政権をあわせて、カナダの人口の約8割が社会民主主義的な中道左派政権のもとにあったとも言われた。また、カナダの保守勢力の牙城、カナダ保守党の金城湯池であるはずのアルバータ州でも2015年から4年間、政権を担当したことは驚きをもって迎えられた。ジャック・レイトン党首時代の2011年の総選挙で、新民主党はこれまで最も多い103議席を獲得し始めて公式野党第一党となったこともある。ブロードベント党首時代は、第二次世界大戦中の日系人の強制収容問題の解決を一貫して訴えたことで知られ、現在も性的少数者や移民も含めて、さまざまな少数派の権利擁護に積極的であることでも知られる。2017年からカラフルなターバンを頭にまとう、パンジャーブ系シーク(シク)教徒のジャグミート・シンが党首である。(岡田健太郎)

スキーナ川(Skeena River)
1900年代初期からサケ漁業のためにこの地域に入った日本人は「スケナ川」と呼んだ。ロッキー山系に源を発し、ブリティッシュ・コロンビア州北部を流れてプリンス・ルパートで太平洋に注ぐ延長580kmのうち、河口から160kmまで航行可能。ここの先住民ツィムシアン族はク・シアン「雲からの水」と名付けた。1916年、2本目の大陸横断鉄道として、カナダ国有鉄道がこの谷ぞいに西岸に達した。フレーザー川に並ぶサケの産地として、川沿いに多くのキャナリー(缶詰工場)があった。(大島襄二)

スキードゥー(Ski-Doo)、スノーモービル(Snowmobile)
カナダ(特に北方カナダ)の冬の生活は、スキードゥーの発明によって一変したといってもよいだろう。J.アルマン・ボンバディエ(J.Armand Bombardier)が1922年、15歳のときスキーをとりつけたソリに自動車のエンジンを搭載し、ラジエーター部分に飛行機のプロペラをとりつけて走らせたのが、「スキー・ドッグ」すなわち現在のスキドゥーの原型。第2次世界大戦中は氷原や沼地を走る数人乗り軍用車両として重宝されたが、その後、平和時用に改良されて、1人または2人乗りの雪上スクーターすなわちスキードゥーとなった。今では北方カナダで犬ゾリに代わる必需品であるばかりか、南部の都市周辺や農村でも冬の移動や娯楽に広く利用されている。カナダではスノーモービルの商品名であるスキドゥという呼び名が一般的に流布している。特に北方の先住民や狩猟者の間では犬ぞりではなくスノーモービルが冬季の移動手段として好まれている。(吉田健正)

スズキ,デイヴィッド(Suzuki, David 1936- )
1936年3月24日、ブリティッシュ・コロンビア州ヴァンクーヴァー生まれの日系三世。ロンドン(オンタリオ州)の高校を卒業後、アメリカのシカゴ大学などで動物学・遺伝学を学び、1961年シカゴ大学で博士号を取得。1979年からカナダ放送協会の人気テレビ番組「ネイチャー・オブ・シングズ(The Nature of Things)」のパーソナリティーを務める。1988年のリドレス運動でも日系カナダ人のシンボル的役割を果たした。1990年には、NPO団体デヴィッド・スズキ基金(David Suzuki Foundation)を設立。カナダ勲章やカリンガ科学賞などを受賞している。(下村雄紀)

ステイプル理論(Staple Thesis)
カナダの経済発展を説明する際に一般的に利用されている考え方で、カナダの経済史家マッキントッシュ(W. A. Mackintosh)とインニス (Harold A. Innis)とによって理論的フレイム・ワークが形成された。この理論においては、ステイプル(重要生産物)は天然資源と強く結びついて第一義的に輸出用に生産されたものであると定義されている。そして、それぞれの時代によって違ったステイプルが作りだされ(魚一毛皮一木材一小麦)、その生産と輸出との発展が国内の他の産業に波及し(連関効果)、一般的な経済発展をもたらすと考えられている。したがって、こうしたステイプル生産に依存した発展は、輸出つまり外国需要の変化に左右されることになり、かなり不安定なものになる。ステイプル理論は、カナダ以外の国の経済発展の研究にも利用されたこともあって、この国の発展を説明する最も有力な理論として広く受け入れられてきている。しかし、最近になって、この理論はカナダ初期の経済発展の説明には有効であるが、多様化した現代カナダの経済発展のそれには有効ではないという主張もある。(加勢田博)

スティーブストン(Steveston)
ブリティッシュ・コロンビア州南西部のリッチモンド市に属する町で、人口は約2万5,000人。ジョージア海峡に面したカナダ最大の漁港で、かつてはサケ漁や缶詰加工業の中心として栄えた。町名は、この地を開いたマノア・スティーブス (Manoah Steves)に由来している。和歌山県出身(多くは和歌山県三尾村出身)の日系移民が多く住み着いた町でもあり、本間留吉、久野儀兵衛、吉田慎也などが代表的である。1900年には、本間留吉を団長とした「フレーザー河日本人漁者慈善団体」(後のスティーブストン漁者慈善団体)、1927年には吉田慎也をリーダーとする「スティーブストン農産会社」が設立された。病院や武道場なども完備した太平洋戦争前の日本人コミュニティとしては、最も発達したもののひとつと言える。日本語表記としては、「捨武須頓」などの字があてられた。(下村雄紀)

ストラットフォード・フェスティヴァル(Straford Festival)
第2次世界大戦後の1953年に創始された夏季に行われる演劇祭である。ナイアガラ・オン・ザ・レイクで開催されるショー・フェスティヴァルと並び、カナダの二大演劇祭としても知られている。ジャーナリストであったトム・パターソン(Tom Patterson)によって立案され、シェイクスピアの生誕地にちなんでオンタリオ州のストラットフォードで開催されている。当初はテント内で上演されたが、1957年にフェスティヴァル・シアターが創設され、以後トム・パターソン・シアターとエイヴォン・シアター、そしてスタジオ・シアターの3が加わり現在は4つの劇場が使用されている。シェイクスピア劇の上演を主な目的として始まったが、やがてシェイクスピア作品以外の戯曲をも取り上げ、レパートリーを広げていった。現在では、ミュージカルやカナダ演劇など幅広く上演し、毎年6月から10月までの期間、多くのカナダ人のみならず、アメリカを始めとするさまざまな国から観客を呼び寄せている。(神崎舞)

ストローン,ジョン(Strachan, John 1778-1867)
英国国教会牧師、教育者。トロント司教(1839)。1799年にアッパー・カナダに来て以来、コーンウォール(1803)、ヨーク(1812)で創設したエリート養成の学校で、後に「ファミリー・コンパクト(家族盟約)」を担う保守的指導者たちの教育に努め、民主主義的、アメリカ的な影響に対抗し、英帝国への忠誠心と英国国教会の勢力強化のため行政評議員(1817~35)、立法評議員(1820~40)として政治に深くかかわった。1841年以後その政治的影響カは衰えたが、宗教面では晩年まで影響力を行使した。(木野淳子)

スノウ,ハンク(Snow, Clarence Eugene, “Hank” 1914-1999)
カナダを代表するカントリー歌手。1914年5月9日、ノヴァ・スコシア州生まれ。10代より地元で音楽活動を始め、1936年にRCAヴィクター(カナダ)と契約。1945年に米国テネシー州ナッシュヴィルに拠点を移し(のちに帰化)、1950年発表の「アイム・ムービン・オン」「ア・ゴールデン・ロケット」が続けて大ヒット。米国での地位を確立する。他のヒット曲に1952年の「ルンバ・ブギー」「ア・フール・サッチ・アズ・アイ」、1954年の「涙もかれて」など。日本でも人気を獲得した。1999年12月20日、ナッシュヴィルで没す。(宮澤淳一)

スノーモービル(Snowmobile)
スノーモービルとは、1人または2人乗りの小型雪上車である。積雪地域の日常的な交通手段として用いられるほか、スキー場をはじめとする雪山での監視や救助、冬季のアウトドアレジャーなどにも広く用いられる。
 ケベック州のジョセフ・アルマン・ボンバルディアは、1922年にゴム製の無限軌道(トラックベルト)を駆動装置とし、そりによって操舵する現代のスノーモービルの基本構造を備えたものを開発した。1936年に製品として完成させ、翌1937年から「B7」と名付けられたスノーモービルの販売を開始している。このため、ボンバルディア社(Bombardier Inc)が本拠を置くカナダ・ケベック州は「スノーモービル発祥の地」と呼ばれることがある。
 操舵装置として前部に鋼鉄製のそりを、駆動装置として後部に一条のゴム製の無限軌道(トラックベルト)を備え、いずれもサスペンションが組み込まれている。跨座式の座席と棒形のハンドルを備え、乗員の乗車姿勢はオートバイなどの乗り物に近い。雪や氷の上を走行できる。エンジンは90cc前後から1,000cc近くの排気量となる大型の機種まで存在する。近年は大気汚染を抑制するため、2ストロークエンジンを搭載した車種は減り、4ストロークエンジン搭載車が増えている。実用性を重視した車種だけでなく、レジャーユースに求められる性能を重視した車種も製品化されている。(草野毅徳)

スパロー判決(R v. Sparrow, [1990] 1 SCR 1075)
「カナダの先住民族の現に有する先住民族の権利および条約上の権利は、ここに承認され確定される」と規定する1982年憲法35条1項の内容について初めて最高裁が判断した判決。この規定の「現に有する」とは、1982年憲法が施行されたときに存在していた権利を意味し、それより前に消滅した権利が1982年憲法によって復活するものではないが、先住民族がかつて行使していた形態に限定した権利しか認めないのではなく、以前から今日まで発展してきた形態で権利を保障するものである、と解している。なお、権利が消滅したことの立証責任は国王にあり、権利を消滅させる国王の意図が「明瞭かつ簡潔」でなければならない。
 「承認され確定される」とは、35条1項の規定を寛容でリベラルに解釈すること、そして政府と先住民族の歴史的関係(信認関係)から定義することを要請する。連邦議会は、1867年憲法91条24号に基づき先住民族に関する立法権を有しているが、「承認され確定される」という文言は、この立法権を制限する。連邦議会は、先住民族の権利を規制する場合には、当該立法の正当性を示さなければならない。
 裁判所が先住民族の権利を規制する立法の合憲性を審査する際には、最初に、一応の権利侵害があるかを検討する。その際、第1に、当該規制が不合理なものであるかどうか、第2に、当該規制が不当な困難を課しているかどうか、第3に、当該規制が権利を行使するより望ましい手段を否定していないか、が問われ、立証責任は先住民族集団または個人の側にある。これらが認定されると、次に権利制限の正当性が審査される。ここでは第1に、妥当な立法目的が存在するかどうかが問われる。天然資源の保全や管理、一般市民や先住民自身に害悪を与えることの防止、やむにやまれぬ実質的な目的であるなら正当化されるが、公共の利益といった過度に曖昧であったり過度に広汎であったりする場合には、正当化されない。(守谷堅輔)

スミス,リリアン(Smith, Lillian H. 1887-1983)
リリアン・スミスは図書館司書であり児童文学研究者である。オンタリオ州に生まれ、トロント大学を卒業後、米国のカーネギー児童図書館員養成学校で図書館学を学び、ニューヨーク公共図書館の児童部で1年間部長を務めた後、1912年にトロント公共図書館に児童部部長として着任し、40年間その職についた。1922年には、少年少女の家と呼ばれる児童図書館を設立。ここを起点に国内に多数の児童図書館、学校図書館を設置、ストーリーテリングをはじめとする児童サービスの充実、さらには児童図書館員の育成に尽力した。1949年には、その活動に感銘を受けたイギリスの図書館員で児童図書蒐集家のエドガー・オズボーンから約2000冊の蔵書の寄贈を受け、これが国内外に知られる「オズボーン・コレクション」の母体となる。著書『児童文学論』(2016年、第1刷、岩波現代文庫)(The Unreluctant Years : A Critical Approach to Children’s Literature.1953)は、古典や伝承文学の重要性を確認した上で、詩、絵本、ファンタジー、歴史小説などを取り上げて児童文学の意義を論じたもので、英語系カナダのみならず、英米をはじめ日本でも高く評価され、現在まで長く読み継がれている。トロント公共図書館は、1995年に「リリアンH.スミス分館」を創設するかたちで彼女を顕彰した。(深井耀子/白井澄子)

責任政府
議会における多数派から組閣する制度で、後の議員内閣制。イギリスで確立されたこの制度が英領北アメリカ植民地に適用された時には、イギリス本国が任命した植民地総督は、帝国に関する事柄を除いて、植民地の責任政府の勧告に従うこととなった。
 1830年代に、J・ハウやR・ボールドウィンらが、植民地の寡頭政治から生じる不満を解消し、また、植民地を英帝国内に、自由にかつ確実にとどめるために責任政府の樹立を主張した。1839年のダラム総督の報告においても、1837年の反乱の原因の解決策のひとつとして責任政府が勧告された。この時点ではその勧告を無視した本国も、1846年の穀物法の撤廃にはじまる自由主義の勝利によって、その政治風土が変化し、1848年初めにまずノヴァスコシア植民地、2ヵ月後には連合カナダ植民地に責任政府が樹立され、他の植民地もこれに続いた。責任政府樹立と、その後の権限の拡大により、英領北アメリカの各植民地は革命なくして自治を獲得した。(木野淳子)

セジェップ(CEGEP)
College d’enseignement general et professionnel(一般教育・職業専門教育コレージュ)の略で、英語ではカレッジと呼ばれる。ケベック州の学校体系の独自性を代表する教育機関で、「静かな革命」による教育改革の中で1967年に法制化され、義務教育ではないが無償制で発足した。中等教育機関(5年制)と大学(3年制)の中間に位置付けられ、大学準備教育としての一般教育課程(2年制)と中堅技術者養成のための職業専門教育課程(3年制)を有する。一般教育課程では学問の土台づくりとして、思考力、言語能力などを重視した必修科目と、一つの分野に集中しつつ、他の分野の科目も若干履修することとしている。職業専門課程は、多様な専攻分野が用意され、かなり高度な技術が習得できるように構成されている。なお、教育課程の部分履修によって与えられる資格(CEC、DPEC)もある。入学資格は中等教育修了資格(DES)で、セジェップ修了資格(DEC)が大学入学資格となる。フランス語憲章が適用されないため、フランス語または英語のどちらでも教授言語として選択することができる。(小林順子・時田朋子)

セリエ,ハンス(Selye, Hans 1907-1982)
ストレス学説で世界的に有名な生化学者・内分泌学者。オーストリアに生まれ、モントリオールで死去。1932年にマギル大学のスタッフとなりストレスに関する研究を始めた。1945年にモントリオール大学の実験医学外科研究所の初代所長となり、1977年には、自宅に国際ストレス研究所を設立した。彼は、生体が外傷・中毒・寒暑・伝染病のような非特異的な刺激(ストレス)に当面すると、その刺激に無関係な一連の個体防衛反応が現れること、これには下垂体前葉一副腎皮質系の内分泌系がその役割の主たる部分を演じることを提唱し、これを「適応症候群」と名づけ、「警戒反応」・「抵抗反応」・「疲労困憊」の 3つの段階からなることを示した。彼によれば、ある種の心臓血管系・腎臓・関節などの疾患の原因はこの反応に関係するという。(草野毅徳)

セルカーク卿,トマス・ダグラス(Selkirk, Thomas Douglas, 5th Earl of, 1771-1820)
スコットランド人貴族。土地から追い立てられたスコットランド高地人の救済のため、英領北アメリカヘの定住をすすめた。プリンス・エドワード島(1803)、アッパー・カナダ(1804)への移住は成功しなかったが、1812年に建設されたレッドリバー植民地(現マニトバ州)は、1816年のセヴンオークスの虐殺を頂点とするたび重なるノースウェスト会社とメイティによる攻撃にもかかわらず、その後再建され、セルカークの名を後世にとどめた。(木野淳子)

全カナダ日系人協会(National Association of Japanese Canadians:NAJC)
 1980年に設立された日系カナダ人を代表する全国組織。「日系カナダ人のアイデンティティを育み、各地域の日系コミュニティとその全国的統合を強化することと同時に、すべての人々、とりわけ人種・民族的マイノリティの、平等な権利と自由を求めて努力すること」を綱領としている。前身の「全カナダ日系市民協会(National Japanese Canadian Citizens Association, NJCCA)」は、アメリカの同様の組織をモデルに、戦争でトロントに移住した二世たちを中心に1947年に形成され、戦争中に侵害された日系人の市民権や生活基盤の確保、コミュニティへの娯楽や情報提供などを行うために活動を開始した。NJCCAは比較的早い時期から会員の資格を日本国籍の日系一世にも開き、1949年に西海岸への日系人の帰還が認められると、西海岸からケベックまで全国の日系カナダ人の団体をつなぐ、民族をベースとした互助組織となった。
 カナダでは1977年の日系移民百年祭の活動を通じて全国の日系人たちの交流が急速に促進されたが、強制移動・収容に対する補償を求める「リドレス運動」の機運が高まると、リドレス賛成派と反対派の間の意見対立が日系組織内や組織間の関係に緊張をもたらした。そこで二大勢力であったバンクーバーJCCAとトロントJCCAではなく、ウィニペグを本拠とした新たな組織としてNAJCが創設され、初代会長アート・ミキを中心にNAJCはリドレス運動の母体として運動を成功に導いた。その後もNAJCは、日系カナダ人の歴史の掘り起こしや現在活躍する日系カナダ人の紹介、世界の日系コミュニティに関する情報提供、カナダの人種・人権問題に関する啓発活動を積極的に行なっている。これに対し、日本・日系文化の推進活動などは各地の日系人団体が主に担っている。NAJCは近年、先住民寄宿学校問題やアジア系をはじめとする移民コミュニティへの暴力の増加などについて発言を行っているほか、2022年には第二次大戦中の日系人への迫害に対するブリティッシュ・コロンビア州からの公式謝罪を勝ち取った。(和泉真澄)

選挙制度
カナダ連邦議会では下院議員のみ選挙によって選出される(上院議員は任命制)。任期は5年だが、総選挙は通常4年目に実施される傾向が強い。議員総数および議席配分は、10年ごとの国政調査結果にもとづいて決定される。ちなみに、2013年以来総選挙の定数は338議席だが、初回の1867年には181議席だった。制度的には小選挙区制を“建国”以来採用している。選挙資格は18歳以上。かつては財産別・性別・民族性(とくにアジア系や先住民等)による制限選挙も行われていた。2002年以降、全ての収監中の人にも選挙権が与えられている。(竹中 豊)

先住民アート(Indigenous Art)
カナダにおける先住民アートにはイヌイット・アート、北西海岸先住民アート、森林地域派アートの3つの大きな流れがある。イヌイットの石製彫刻(1949年から制作開始)や版画(1950年代後半から制作開始)は、国際的に高い評価を受けている。1960年代半ばからブリティッシュ・コロンビア州の北西海岸先住民の間で民族文化の復興が起こり、トーテムポールや仮面などの木彫品、銀細工、版画が制作され、商業的に成功を収めた。1960年代にはオジブワのノーバル・モリソーのような森林地域派(woodlands school)の作家の作品が名声を博するようになった。彼らの作品には各先住民族の独自の世界観や図像が表象されている。現在では国内外の美術館や博物館で収集・展示されている。(岸上伸啓)

先住民政策
ファースト・ネーションズ参照

戦争博物館(Canadian War Museum)
オタワ近郊にある国立の戦争博物館。カナダ歴史博物館法人が管理運営にあたっている。第1次世界大戦終結60周年にあたる2005年にオープンした現在の建物は、日系カナダ人のレイモンド・モリヤマ(Raymond Moriyama:1929?)がデザインした。所蔵コレクションには、戦闘機から勲章まで含まれ、カナダが過去関与した様々な戦争に関する約300万点を有する。常設展示は4つの時代区分に従って展示(①1885年以前、②南アフリカ戦争と第1次世界大戦、③第2次世界大戦、④冷戦から現在)されるとともに、戦死した兵士を悼むコーナーや、戦闘機や戦車等の展示ギャラリーもある。イギリスの帝国戦争博物館やオーストラリアのオーストラリア戦争記念館とともに、世界3大戦争博物館と称されることもある。(溝上智恵子)

セントジョンズ(St John’s)
ニューファンドランド州の州都。人口11万人(2021年)。島の南東海岸にある天然の良港。1497年にジョン・カボットが見つけたといわれ、その頃より白人集落ができた。1583年にイギリスの植民地が発足したが、1762年に至る間、何度もフランス・インディアン連合軍との争いがあった。北大西洋の重要な港や空港の町として発達。造船・水産加工が盛んである。かつては捕鯨基地として知られた。(正井泰夫)

セントメアリーズ大学(Saint Marys University)
ノヴァ・スコシア州の州都ハリファックスにあるカナダで最も古い大学のひとつ。1802年創立。1960年代末から障碍を持つ学生への各種プログラムと支援制度の拡充に取り組み、早くも1975年には同校の図書館にボランティアによって音声録音された図書が配架された。大学には教養学部、理工学部、ビジネス学部があり、そこでの教育プログラムは高い評価を得ている。また、ビジネススクールはカナダ大西洋側における研究の中心的存在である。留学生や聴講生を含めた学生数は7,000人以上である。(宇都宮浩司)

セント・ローレンス水路(Saint Lawrence Seaway)
カナダの発展にとって生命線とでもいうべき重要な交通路であって、大西洋岸のモントリオールからセント・ローレンス川―オンタリオ湖―エリー湖―ヒューロン湖―スペリオル湖に至る長大な内陸水路を構成している。このルートの中で、カナダの西部への発展との関連で、セント・ローレンス川を水路と成すための航行改良が、歴史的に特に重要である。この川の最初の航行改良は1848年に完成したが、アメリカ(ニューヨーク)のエリー運河建設(1825年)による西部への発展に比べてかなり遅れたことが、カナダ(モントリオール)が西部通商においてニューヨークとの競争に敗れる原因の1つになったと言われ、その後のカナダの発展に大きな影響を及ぼしたと考えられている。19世紀の中頃まではアメリカ船にこのセント・ローレンス川水路の航行を認めなかった時代もあったが、20世紀になって両国の共同事業として大規模な運河建設が計画され、紆余曲折があって、1959年の春に漸く2万トン級の大型外洋船が航行可能な今日のセント・ローレンス海路(Seaway)が開通した。(加勢田博)

1791年憲法 
カナダ法(1791年)(Canada Act)、 立憲条令(constitutional Act) 参照

1812年戦争(War of 1812、第2次英米戦争)
1812年6月18日、ナポレオン戦争や西部インディアン問題で生じた英米の確執によってアメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告した。主戦場になったのは、アッパー・カナダとロワー・カナダであった。米軍は、王党派(ロイヤリスト)の4倍ものアメリカ系移民で占められたアッパー・カナダの寝返りをねらって攻撃をしかけ、人口が合衆国の1/10の英領北アメリカにとって、5,000人の英正規軍と民兵で長い国境地帯を防衛するのは困難に思われた。しかし、イギリス軍指揮官I・ブロック将軍は、アッパー・カナダを忠誠に保つには迅速な勝利が重要であると考え、1812年にミシェリマキノ、デトロイトを攻略し、同年10月13日のクィーンストンハイツの戦いで米軍を撃退した。ブロックはこの戦いで戦死したが、アッパー・カナダ住民の態度は反米に固まり、またフランス系カナダ人もイギリス支配下で保証された諸権利を守るため積極的に戦った。戦争はその後も続いたがどちらにも決定的勝利とならず、1814年12月24日ガン条約が締結された。カナダにとっては、アメリカ独立戦争に次いで合衆国の侵略を防いだ第2の戦いとなった。(木野淳子)

1818年協定
同協定により、ウッズ湖以西の境界線はロッキー山脈に至るまで北緯49度線に沿うこととなった。また、ロッキー山脈から太平洋岸に至るオレゴン地方は、当面の間、英米の共同管轄下に置くことが定められた。これによって、加米間の境界線はロッキー山脈まで明確に引かれた。境界線とともに懸案事項となっていた漁業権については、アメリカ合衆国はニューファンドランドおよびラブラドル沿岸での漁業権を確保した。(高野麻衣子)

1867年憲法
「英領北アメリカ法」を参照。

総督文学賞(Governor General’s Literary Awards)
カナダでもっとも権威のある文学賞で、カナダ作家協会が1937年に英語による文学のみを対象に設置したが、以後さまざまな改革をへて現在は英語、フランス語による作品別に、それぞれフィクション、ノンフィクション、詩、ドラマの計8分野、各1名ずつに毎年授与される。カナダ協議会指名の作家・専門教授・批評家が審査にあたり、受賞者には銀メダルと5千ドルの賞金が与えられる。(渡辺 昇)

ソープストーン(Soapstone, 石鹸石)細工
ソープストーンは軟らかい、石鹸あるいはグリースのような感触をもった緑色っぽい灰色の変成岩の一種である。熱、酸、また電気の絶縁性に対して強い性質をもっているので、実験室用の机や、配電板など色々の形に加工されて利用されている。また、滑石成分を多分に含有することから、粉末状で、ペイントや化粧品のべ一スとして使われる。この岩石は、その軟らかくて加工のし易さから、北米先住民によって、装身具・装飾品として、また食器、壷などの生活用品の素材として使われてきた。また、1949年以降、イヌイットの芸術的な彫刻、いわゆるソープストーン細工の材料として使われている。ただし、この細工に使われる石は、ソープストーンに限られないで、同様に細工がしやすく奇麗な蛇紋石、玄武岩、緑色岩、石灰岩などがある。(多湖正紀)

租税制度(Tax System)
OECD の租税統計(OECD、 Revenue Statistics 1965-2020)によれば、2019年現在、カナダにおける租税・社会保障負担の対GDP比は33.8%である。これはOECD 38カ国のうち上から21番目である。税制の中心は個人所得税(対GDP比12.2%)であり、それは一般消費税(同4.7%)を大きく上回る。カナダの個人所得税においては、人的控除(基礎控除、配偶者控除、扶養控除など)をはじめとする多くの控除が、税額控除の形をとっている。連邦と州は、個人所得税、法人所得税、一般消費税、酒・たばこ・燃料税等の主な税源を共有する。地方税は不動産税がほとんどを占める。州は税目・課税標準・税率・税額控除などを独自に決定するが、個人所得税と法人所得税については連邦と多くの州の間で租税徴収協定が結ばれており、カナダ歳入庁(Canada Revenue Agency)が徴収事務を担う。一般消費税については、連邦が税率5%の消費型付加価値税である「財・サービス税」(Goods and Services Tax[GST])を課す。州も消費型付加価値税や小売売上税を課すものが多いが、課税する州の場合も税率は多様である(6%~10%)。そのうち、連邦と州が消費型付加価値税の課税ベースを調整した5州の場合、「調和型売上税」(Harmonized Sales Tax[HST])の形がとられている。HSTの税率(13%~15%)は、連邦税率(5%)と州税率(8%~10%)を合わせたものである。なお、消費型付加価値税の負担は低取得者にとって重い、すなわち逆進性をもつ。この逆進性への対策の1つとして、個人所得税のなかに“GST/HST Credit”などの名称で還付型税額控除(refundable tax credits)が設けられているのもカナダ独特の制度といえる。(池上岳彦)

そば(Buckwheat)
カナダでそばが栽培されている、ということに奇異な感じを抱く方が多い。そばの発祥地は中国南西部のヒマラヤ山麓である、と最近の学説は述べているが、その伝播の仕方については種々風聞があるが、現在では世界の多くの地域で栽培・食用されている。最大の栽培量(収穫量とは必ずしも一致しない)はロシアであろうが、その周辺、例えば東欧地域で現在も多く栽培・食用化されている。カナダへ東欧諸国から移民してきた人々が持ち込んで現在もなお栽培・食用している例はケベック州やオンタリオ州・マニトバ州等で見られる。マニトバ州南部の米国との国境領域では米加双方共にそばの産地として適地である。
 1970年~90年代にはこれらの地域を中心に、日本のそば製粉組合から積極的に委託形式で栽培がなされていた。世界的に著名なそば育種学者を中心として会社組織で実施され、日本人好みのそばの育成・栽培・輸出が盛んであった。その会社組織が崩壊して以後そばの栽培は中断され、現在に至っている。輸送手段が大きなネックになっている由である。日本でのそば消費の大部分を主として中国産に委ねている現在、加米国境沿いでのそば栽培の活性化が待たれる。(草野毅徳)

タ行

タイガ(Taiga、亜寒帯針葉樹林)
ロシア語で山地の針葉樹林のこと。転じてシベリアからロシア北部の広範囲に及ぶ亜寒帯林をいうが、地理学的術語として広義に使われて、カナダやアラスカのものもタイガといわれる。カナダでは、国土面積のほぼ半分をタイガが占めるが、木材や毛皮獣などの資源を育み、これらがイギリス、フランスなどからの商人の初期の取引の対象ともなり、ひいてはヨーロッパ人のこの地への関心を引き寄せる契機ともなった。(大島襄二)

第三の選択(Third Option)
「第三の選択」とは、1972年にミッチェル・シャープ外相が発表した論文「加米関係:未来への選択」(Canada-U.S. Relations: Options for the Future)のなかで打ち出されたカナダの対米政策に関する政策選択肢の一部である。この論文のなかでカナダの対米政策には、(1)現状維持、(2)北米統合の推進、(3)米国との友好関係を維持しながらも、他の諸国、とくにアジアとヨーロッパとの関係を拡大し、カナダ経済・社会の自立性をはかる、との3つの選択肢があるとされた。そしてカナダは3番目の政策を選択すべきであるとの結論が導かれた。この政策は対米依存度の高いカナダに衝撃をあたえた1971年のニクソン・ショックをきっかけとして検討され、また対米関係に直接ふれなかった1970年の外交白書「カナダ人のための外交政策」を補完するものでもあった。(渋谷 進)

タイタニック号(Titanic)事件
映画『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン監督、1997年)の元になった事件。豪華客船タイタニック号は、乗客乗員約2,200人を乗せてイングランド南部のサウサンプトンを1912年4月10日に出航した。フランスのシェルブールとアイルランドのクィーンズタウン(現在はコブと改名)に寄港してからアメリカ合衆国ニューヨークに向かう処女航海だったが、その途中、カナダのニューファンドランド島(当時はカナダとは別の自治植民地)沖合で氷山に衝突して沈没した。その当時としては最先端の安全対策が取られており、「不沈船」と宣伝されていた豪華客船が、衝突後わずか2時間40分のうちに船体を半分に折る形で沈んでいった。事故の知らせを受けた客船カルパチア号が、100キロ近い距離を急いで駆けつけた時には、沈没から既に2時間半以上が経過していた。それでも約700名は救助されたが、1500名以上が犠牲になる大事故となった。事故後、ノヴァスコシア州ハリファックスから4隻の船が捜索と遺体回収のために現場に駆けつけたが、収容できたのは320名前後で、その多くは海で水葬された。ハリファックス港へと運ばれた約120名が、同地のフェアビュー共同墓地に埋葬されている。また、同地の大西洋海洋博物館には、タイタニック号事件関係の展示コーナーが設けられている。(田中俊弘)

第二次英米戦争
1812年戦争  参照

大陸横断鉄道
1871年のブリティッシュ・コロンビアの連邦加入条約によって、カナダ政府は、中央カナダから太平洋岸に達する鉄道の建設を約束していた。この約束は、政府の援助と独占的特権を与えられたカナディアン・パシフィック鉄道会社(Canadian Pacific Railway[CP])によって1885年に果たされた。これによって、大西洋から太平洋への大陸横断国家が名実ともに完成されることになったのであり、その政治的・経済的意義は計り知れないほど大きいものであった。その後、20世紀に入って、補助金や土地払い下げといった種々の莫大な政府援助を受けてグランド・トランク鉄道(Grand Trunk Railway)とカナディアン・ノーザン鉄道(Canadian Northern Railway)の2つの大陸横断鉄道が完成した。かくして、1915年までに、カナダは3本の大陸横断鉄道を有していた。しかし第1次世界大戦の勃発によって移民が停止し、西部の鉄道サービスに対する需要も減退したことから、とりわけ後発の2つの鉄道は厳しい経営難に陥った。両鉄道会社は政府に援助を要請したが、結局、国有化によって鉄道サービスを続けることが決定され、1917年にカナディアン・ノーザン鉄道が、1923年にはグランド・トランク鉄道が接収され、カナディアン・ナショナル鉄道(Canadian National Railway[CN])に統合されたのである。こうして、カナダ大陸横断鉄道はCPとCNの2路線となった。やがて、第2次世界大戦後の自動車輸送の時代に至って、カナダにおいても、鉄道輸送は厳しい冬の時代を迎え、1978年以降、これら2つの大陸横断鉄道の旅客サービスは、VIA Rail Canada Inc.に移されることになった。(加勢田博)

ダグラス,トミー(Douglas, Tommy 1904-1986)
政治家。1904年イギリスのスコットランド生まれ。1910年にカナダに移民。社会主義政党である共同連邦党(新民主党の前身)の党首として、1944年から1961年までサスカチュワン州の州首相を、1961年から1971年まで新民主党の党首を務めた。同州に北米ではじめてとなる公的医療保険制度を導入し、現在のカナダの医学的に必要な医療サービスをすべての国民に無料とする普遍的(ユニバーサル)な健康保険制度の端緒となった。今日では、「医療保険の父(Father of medicare)」と呼ばれ、カナダでもっともよく知られた人物の一人である(2004年にカナダ放送協会(CBC)が行った「最も偉大なカナダ人」調査で1位に選ばれた)。1981年にカナダ勲章を受章した。(岩﨑利彦)

田中・トルドー共同声明(Tanaka-Trudeau Joint Statement)
第2次世界大戦後、日本とカナダの関係は経済を軸に展開していった。日本はカナダの資源を輸入し、カナダは日本からの工業製品を輸入というように相互補完的な関係を維持していた。しかし、文化交流や学術交流についてはまだ不十分なものに止まっていた。この傾向を変えて本格的な文化・学術交流を推進したのはカナダのP・E・トルドー首相であり、日本の田中角栄首相であった。カナダではそれまでの対米依存を反省し、米国以外の国々との関係を深めてはどうか、という構想(第三の選択と呼ばれる)が1972年には提案され、アジアでは日本との関係強化というアイディアも出てきていた。また貿易面では1972年には日本が英国を抜き、カナダにとり第二の貿易相手国になるという変化も生まれていた。
 1974年9月23日から26日まで田中首相は、日本の総理として13年ぶりにカナダを公式訪問し、トルドー首相との間で新時代の幕開けを謳う共同声明が公表された。交流の多様化を通して両国関係の基盤の拡大と強化をはかり、緊密化のためにあらゆるレベルでの相互理解の促進に努力することで合意し、その第一歩として文化・学術交流のためにそれぞれ100万ドルを拠出することが明示された。日本政府はカナダにおける日本研究を促進するための「日本研究促進基金」(いわゆる田中基金)を1975年に設立し、日本研究についてすでに実績があったいくつかの有力大学(UBC、トロント、ヨーク、モントリオール)に研究助成を開始した。日本におけるカナダ研究についてもカナダ政府側の支援などもあり、日本カナダ学会の設立(1979年)や日本の大学でのカナダ講座の設立(筑波、慶応)も1970年代末から開始された。1979年はまた日加外交関係樹立50周年という記念すべき年でもあり、カナダと日本でそれぞれ画期的なシンポジウムなどが開催された。
 1976年10月、カナダからトルドー首相が日本を公式訪問し、「日加文化協定」と「日加経済協力大綱」が交わされて、田中・トルドー合意が実現した。現在では経済や貿易に止まらず、両国における相手国の研究は深化し、学生の留学や研究者の交流もきわめて活発になってきている。(加藤普章)

多文化主義(Multiculturalism)
1960年代のケベック・ナショナリズムの高まりを反映して設置された「二言語二文化主義に関する王立委員会」が用いた「二文化主義」という語に対抗して広く使用され始めた用語。少なくとも3つの意味で用いられる。(1)エスニック上・文化上の多様性を特徴とする社会をさす。(2)人口の中のエスニック集団または文化集団の間に平等で、相互に認め合う関係が存在するという理想をさす。(3)1971年に連邦政府が宣言し、引き続き多くの州でも採択された政策をさす。1867年のコンフェデレーション結成以降、カナダの人口は多様化の道を進んでおり(1)の意味での多文化主義はこれまでも現実であった。この現実を認めた上での(2)の意味での多文化主義は、第2次世界大戦後、一般に受け入れられてはいたが、政府の政策としては確立しなかった。そして(3)の意味では、英・仏系以外のエスニック集団が政府に対し、自分たちの立場を認めるよう要望した時点から使われるようになったのである。1972年には多文化主義政策を政府の広範なプログラムを通して実施する多文化主義担当大臣が任命され、多文化主義局が設置された。翌年にはカナダ多文化主義 問評議会(後にカナダ多文化主義政策と改称され、調査活動に関する権限も拡大される)も設置され、多文化主義政策はカナダの重要な姿勢を示すものとなる。これらの連邦機関を通して、エスニック集団の組織や研究団体などに援助が与えられるなど、文化的多様性の保持と促進に力が入れられてきた。多文化主義が成功していると見る論者は多いと言われるものの、この政策に対する評価は、肯定的なものから、効果に疑問を示すもの、そして否定的なものまで、さまざまであり、ことにアジア系など「目に見える少数派集団」にはプラスになっていないとの批判もなされてきた。それらの批判や時代の要請に応じて、多文化主義は見直され変化してきたが、最近では、統合を重視した多文化主義の時代に入ったと言われている。(飯野正子)

タラ漁業
かつてカナダ東部、ニューファンドランド島の南東沖に広がるグランドバンクから大西洋に回遊していた夥しいタイセイヨウタラの魚群は、10世紀ごろのバイキング、クジラを追うバスク人を魅了した。後には探検家ジョン・カボットの報告書に記され、ヨーロッパの人々を北米大陸へと誘った。イギリスやフランスの漁民は沿岸部に拠点を確保した。タラは浜辺で背開きにし、寒風にさらして塩干し加工され、たんぱく質豊富な保存食として本国に持ち帰られ、また三角貿易の商品として重宝された。この地方には郷土食としてタラの舌のフライや内臓の煮込み料理が伝わる。やがて船舶の近代化、漁業技術の進歩に伴って漁獲高は飛躍的に増加したが、底引き網による大量捕獲により資源は1968年をピークに1970年以降は急激に減少し、サイズも小型化した。カナダ政府、カナダ漁業海洋省は1992年から禁漁とし、約4万人が失業した。2010年にはタイセイヨウタラを絶滅危惧種に指定した。現在は調査監視漁業で自家消費用のみが許可されているゆえに流通量はわずかである。ノルウェイがすでに行っている養殖は、カナダではまだ実用化されていない。(友武栄理子)

ダラム報告(Durham Report)
1837年のアッパー・カナダ、ロワー・カナダ両植民地での反乱の原因の調査のため、1838年に英領北アメリカ植民地総督となったダラム伯爵が、5ヵ月間植民地で精力的な調査を行い、帰国後1839年2月に出版した報告書のことで、原題は『英領北アメリカ情勢に関する報告書』。柱となる3つの勧告は、帝国と植民地の事柄の分離、責任政府の樹立、両カナダ植民地の政治的統合であった。責任政府については、アッパー・カナダの寡頭政治に対する不満の解決策となるとして、改革主義者R・ ボールドウィンの進言をダラムが受け入れたとされている。また、ロワー・カナダの反乱がイギリス系とフランス系の人種的対立に原因があると考えたダラムは、両カナダを統合し、フランス系を同化することでこれを解決しようとした。本国政府は、この最後の点のみを承認し1841年に連合カナダ植民地としてアッパー、ロワー・カナダを統合した。責任政府の樹立は1848年になったが、ダラム報告がカナダの自治の発展に貢献したことは明らかであろう。(木野淳子)

ダルハウジー大学(Dalhousie University)
ノヴァ・スコシア州の州都ハリファックスにある1818年創立の州立大学。創立者はノヴァ・スコシア植民地総督ジョージ・ラムゼイ(ダルハウジー伯爵)。3つのキャンパスと13の学部からなるカナダ東海岸方面で最大規模の大学で、在学生は20000人以上である。同校の卒業生には第11代カナダ首相のベネットをはじめ多くの政治家がいる。また『赤毛のアン』の作家として有名なモンゴメリが聴講生として1年間在籍しており、作中に登場する大学のモデルとなっている。(宇都宮浩司)

タロン,ジャン(Talon, Jean c 1625-1694)
ヌーヴェル・フランスの地方長官(1665-68年、1670-72年)。この地方長官職はフランス植民地の治安・経済・対居住者政策などを担当する大きな権限をもち、本国出身の高級官僚がその任務についていた。1663年の創設からヌーヴェル・フランス時代の終わる1760年まで、その数は19名に及ぶ。とりわけタロンの活動は、最も傑出していた。最大業績は、ヌーヴェル・フランスの経済・社会の基盤づくりに貢献した点である。そのためになによりも“ヒト”の増加を目指した。圧倒的に男性の多かった植民地に花嫁移民を受け入れ、多産や早婚が奨励された。その結果、人口は1665年の約3200人から1672年には約6700人にまで増大した。わずか7年で約2倍の増加である。経済の活性化のために、農業や沿海漁業の奨励、初歩的とはいえビール醸造所の開設や造船、さらには西インド諸島との交易などに関わった。1668年に一旦フランスに帰国するが、2年後にはふたたびヌーヴェル・フランスに戻る。地方長官としての第2期目は主に対外関係に目が注がれ、北米におけるフランス植民地のさらなる繁栄・安定を模索していく。南側のイギリス植民地との境界における防衛の強化、先住民との交易や連携、あるいは内陸部への探検・発見などを目指した。(竹中豊)

地域主義(Regionalism)
カナダで地域主義という場合、基本的にはブリティッシュ・コロンビア州、アルバータ州などカナダ西部諸州を中心とする地域主義(「西部地域主義」)のことを指す。カナダにおいては、西部地域主義と、エスニシティを軸とする仏語系ケベック州のナショナリズムの二つの「イズム」が大陸の東西で併存している点が特徴的である。そしてケベック・ナショナリズムへの反感と、連邦政府によるケベック優遇策への反発が西部地域主義を育んだと言える点が特徴的でもあり、また特異でもある。西部地域主義の特徴は、大きくはふたつある。ひとつは、カナダ中央、つまり政治・経済エリートであるオンタリオ州やケベック州など東部の老舗諸州にとって、西部諸州は、小麦等農産品や石油など天然資源の生産地でしかなく、カナダ中央に思うがままに搾取され、疎外されているという被害者感情である。もうひとつは民主主義における代表という問題である。たとえば連邦議会下院の議席配分は、建国以来東部諸州や沿岸諸州が西部に比べてやや過剰に代表される構造になっている。そのためこれまで人口が増え続けてきた西部諸州にとっては、これは民主主義という観点からも見過ごせないことになる。また、連邦政府による各州への補助金等の資源配分も東部、とりわけケベック州に過剰に配分されていると批判し、公平な配分を求めたのである。これらふたつの要素からなる西部地域主義的思考は1990年代、ケベック州分離独立運動が激しさを増すなかで、まるで歩調を合わせるように西部諸州でひろがりをみせた。1990年代、プレストン・マニング率いた改革党はWest Wants In!(西部の声を中央に!)をスローガンに選挙戦を戦い、1997年には連邦議会下院で公式野党第一党にまでなった。そして西部地域主義にとってのもうひとつの到達点が、2006年のスティーヴン・ハーパー・カナダ保守党政権の成立であろう。新しい保守勢力による政権奪取のプロセスで、かつて改革党が主張した急進的な西部地域主義は穏健化することとなったものの、それでも西部地域主義的な価値観を基層に持つ政党が2006年から15年まで政権の座にあったことは、西部地域主義にとっての大きな到達点と考えてよいと思われる。West is In! 西部の声は中央に届いたのである。(岡田健太郎)

チーム・カナダ
994年からクレティエン首相によって実施された貿易振興ミッション。首相の他に、国際貿易大臣、官僚、州政府首相、ビジネスパーソン、学者などが1つのチームとして世界各地を訪問し、カナダの輸出やカナダへの投資の機会を増やすイベントなどに参加した。クレティエンは2003年の引退までに、7回のチーム・カナダによるミッションを実施し、日本のみならず、中国、韓国、インド、フィリピン、ロシア、アメリカ、ドイツなどを歴訪し、カナダとの通商・投資面での強化を訴えた。続く、マーティン自由党およびハーパー保守党政権では、そのようなミッションは実施されていないが、2011年7月には、オンタリオ州やブリティッシュ・コロンビア州首相などにより、翌年度には中国やインドをチーム・カナダによるミッション方式で訪問することが、訴えられた。(櫻田大造)

中国系移民に対する人頭税への謝罪
太平洋横断鉄道建設のため、多くの中国人労働者がカナダへ渡り、建国間もないカナダの発展に大きな貢献を果たした。しかし連邦政府は鉄道建設完了と同時に中国人の渡航制限を開始した。1885年に制定された中国人移民法(Chinese Immigration Act)により、中国人は入国時に人頭税50ドルを支払うことが求められた。これが民族的出自を理由に移民を入国制限したカナダ最初の差別的立法である。人頭税は1900年に100ドル、そして1903年には500ドルへと増額された。当時の中国人労働者の年収は200ドル程度で、1年で40ドル貯蓄できればよい程度だった。
 法外な人頭税の徴収は、中国からの移民を完全に禁止する中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)が1923年7月1日に導入されるまで、38年間実施された。8万1000人がこの税を納め、およそ2300万ドルもの税金が支払われたともいわれる。さらにこの中国人排斥法は1947年に撤廃されるまで、24年間にわたり実施された。これらの制限の結果、中国系コミュニティは男性中心の独身社会となり、健全なコミュニティの発展が妨げられた。
 戦後カナダがようやく人種差別的な移民政策を撤廃すると、中国からの家族呼び寄せが再開した。高学歴、専門職である香港や台湾出身の新移民の増加も相まって、中国系カナダ人コミュニティの政治力も徐々に強まった。またカナダ社会における人権意識が高まりをみせるなか、過去の人種差別を正し、補償を求めるリドレスの機運が高まっていく。1983年になると、2人の中国系カナダ人が連邦政府に人頭税の返還を求める訴訟を起こし、その後約4000人がこの流れに加わることになる。
 長年のロビー活動が実を結び、2006年6月、 ハーパー保守党政権が下院で公的な謝罪を行うに至った。人頭税の支払いを行った生存する当事者とその寡婦あわせて785名に対して、一人2万ドルの個人補償が約束された。さらには中国系カナダ人コミュニティや他の人種・エスニックコミュニティが経験した差別やその影響についてカナダ人が学ぶことを目的とする、コミュニティ歴史認識プログラム(Community Historical Recognition Program)を支援する基金が立ち上げられた。 (大岡栄美)

チルコーティン判決(Tsilhqot’in Nation v. British Columbia, [2014] 2 S.C.R. 257)
先住民族の土地権を初めて認めた最高裁判決。土地権のリーディング・ケースであるDelgamuukw事件最高裁判決(Delgamuukw v. British Columbia, [1997] 3 SCR 1010)は、コモン・ローの視点だけでなく先住民族の視点を考慮する必要性に言及し、土地権の立証のテストを提示した。それによると、先住民族は、①国王が主権を主張する前から土地を占有していること、②国王が主権を主張する前からの土地の占有と現在の占有とに継続性があること、③国王が主権を主張したときに、その占有が排他的であること、を立証しなければならない。しかし、先住民族の視点とは何か、それを考慮すべきか、考慮するとしてどのように考慮するのか、について明確ではなかった。その後の判例は、先住民族の視点を考慮することを否定するかのような判断を示すこともあった。こうした動向の中で、Tsilqhot‘in判決は、土地権の立証テストに関する一定の判断枠組みを提示した。
 Tsilqhot’in判決は、コモン・ローの視点と先住民族の視点の双方を考慮することを強調し、先住民族の土地の利用の集中度や頻度を文脈に応じて検討する必要があると判示し、土地権の立証に必要な次の2つの要件について論じた。第1に、十分な占有といえるかどうかである。ここにおいて先住民族の視点とは、先住民族の法、慣行、慣習および伝統に焦点を当てることを意味し、先住民族の視点を検討する際には、集団の規模、生活様式、物的資源や技術力、そして当該土地の性格が考慮されなければならない。コモン・ローの視点とは、土地の保有と統制を意味し、土地の保有は家屋など物理的に占有している場所よりも広い範囲に及び、実際に利用し実効的統制を及ぼしている周辺の地域も含まれる。第2の要件は、排他的統制を保持する意思と能力をもっていることである。排他性は、他の集団が土地に立ち入る際に許可を要求されたり、条約を締結していたりする場合には証明される。(守谷堅輔)

チェン・イン(Chen, Ying 1961- )
中国、上海生まれ。大学卒業後、1989年、モントリオールに移住する。マッギル大学で創作活動を学び、1991年、繊細な文体のなかに祖国中国の姿を浮かび上がらせた小説『水の記憶』(La memoire de l’eau)でフランス語表現作家としてデビューする。また『中国人の手紙』(Les lettres chinoises, 1993年)では移住先の北米社会を批判精神に溢れた筆致で描き、『恩知らず』(L’ingratitude, 1995年)では力強い文体で反逆をテーマにした物語を描いて、ケベック・フランス文学賞など数多くの文学賞に輝いた。2003年ヴァンクーヴァーに拠点を移した後も、『骸骨と分身』(Querelle d’un squelette avec son double、2003) 、『食べる人』(Manguer、2006)などフランス語で作品を発表し続け、簡素な文体で戯画化されたテーマを描き独自の文学世界を切り拓いている。(真田桂子)

チャーチル(Churchill)
マニトバ州北方のハドソン湾(Hudson Bay)沿いに位置し(北緯約59°)、ノーザン・インディアン湖から流れるチャーチル川の河口に発展した町。ヨーロッパまでモントリオールからよりも海路1,600キロメートル近い。しかし、冬期はハドソン湾が凍結するため船の運航期間は夏場の3か月に過ぎない。平原3州からの穀物等の出荷のためのターミナル・エレベーターがあり、陸路・海路・空路の文字とおり北方のターミナル的役割を担っている。取り扱い量は、小麦が国内全ターミナル・エレベーターの約1%、大麦が約5%である。現在は間近で野生のホッキョクグマを見るツアーで多数の観光客がチャーチルを訪れている。(草野毅徳)

駐屯地心理(Garrison Mentality)
カナダの文芸評論家でトロント大学教授のノースロップ・フライ(1912-91)が、『カナダ文学史』(Literary History of Canada, 1965)の「結語」において、英語系カナダ文学の伝統的特性を表す言葉として用いた。果てしなく広がるこの国独自の孤独感が生みだす恐怖心、それを避けるための集団化が生みだす分裂と抗争にいたる心理をいう。また、自分たちの砦・秩序に満ちた世界を固守しようとする姿勢をも意味した。フライによって、これが英語系カナダ文化の原点の一つだと解釈される。フライはこのいわば負とも思える現象を、「他者との相剋から修辞法が、自己との相剋から詩が生まれる」として積極的に評価した。(渡辺昇・竹中豊)

ツンドラ(Tundra)
北半球の高緯度地方の広い範囲に見られる、コケ類を主とし、樹木(とくに樹高の高いもの)を欠く植生態をいう。また、そうした植生の地域の気候型の名称としても用いられる。もともとはロシア語で、シベリア~北ロシア高緯度地方のものを指したが、今は、カナダのノースウェスト準州、ヌナヴト準州の大部分とマニトバ州・オンタリオ州・ケベック州・ニューファンドランド州の北部一帯であり、ユーコン準州では、高緯度にもかかわらずツンドラの見られる地域はほとんどない。こうした植生が生じるのは、寒冷な気候(とくに夏の短さ)と乏しい降水量による。この植生帯の下には、土壌中の水分が凍結したままの永久凍土層が数メートルから数十メートルもの厚さで存在しているが、夏季にはこの永久凍土層の表面近くが融けるため、低地では広い湿地ができる。なおカナダでは、この植生の見られる北部の荒野をBarren Groundsと呼ぶことが多い。(山田 誠)

ディーフェンベーカー,ジョン?G.(Diefenbaker, John George 1895-1979)
「ディーフェンベーカー,ジョン・G.(Diefenbaker, John George 1895-1979)」
政治家。第18代首相(1957~1963)、進保守党党首(1956~1967)。オンタリオ州生まれのドイツ系カナダ人で、後に現在のサスカチュワン州に移り住む。サスカチュワン大学で学ぶ。雄弁でカリスマ性を有していたこともあって、彼の首相就任は西部カナダの発展を物語る象徴となった。彼は初代首相ジョン・A・マクドナルドを信奉するナショナリストとして「カナダ主義」を掲げた。在任中、彼は年金の増額・農業保護などに取り組み、また基本的人権を保障する「権利章典」を成立させ、さらに北方開発にも熱心であった。外交面でも、米国とは異なる独自の政策を追及し、キューバ危機の際にも米国の政策に一定の距離を保った。しかし、カナダの核武装問題で米国との関係が悪化し、その収拾に失敗した彼は首相退陣に追い込まれた。(渋谷 進)

ディオン,セリーヌ(Dion, Celine 1968- )
カナダを代表するシンガーソングライター。1968年3月30日モントリオール郊外のシャルルマーニュ出身。音楽家の両親のもと14人兄弟の末っ子として生まれる。幼少の頃より類稀なる才能を発揮。1981年にレコードデビューを果たし、翌年には「第13回ヤマハ世界歌謡音楽祭」のため初来日して金賞を受賞。1992年のディズニー映画『美女と野獣』で使用されたデュエット曲でアカデミー賞主題歌賞、ゴールデン・グローブ賞最優秀主題歌賞、グラミー賞最優秀デュエット・ソングのトリプル受賞の快挙を成す。また1997年公開の映画『タイタニック』の主題歌「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」は世界的大ヒットとなり、フランス語圏だけでなく英語圏でもその人気を不動のものとした。現在もその歌声は世界中の人々を魅了し続けている。(宇都宮浩司)

ディフォー,ジョン W.(Dafoe, John Wesley 1866-1944)
ジャーナリスト。『マニトバ・フリー・プレス』Manitoba Free Press(1931年、『ウィニペグ・フリー・プレス』Winnipeg Free Pressと改称)の主筆を務めた(1901-44)。徴兵制支持、国際連盟における代表権獲得、日英同盟廃棄などを訴え、北米国家かつ太平洋国家としてのカナダの自立的発展を主張し、カナダ世論に多大な影響を与えた。(細川道久)

ティム,ホートン(Horton, Miles Gilbert〔Tim〕1930-1974)
オンタリオ州コクレーン出身。トロント・メイプルリーフスなどNHLで活躍した戦後カナダを代表するアイスホッケー選手。5歳でホッケーを始め、17歳の時にスカウトの目に留まり奨学金で大学へ進学。1952年にプロ選手となり22シーズンを過ごす。この間4度のスタンレーカップ優勝を経験。1977年にホッケーの殿堂入りを果たす。彼はまた実業家としても優れており、1964年、オンタリオ州ハミルトンにコーヒー&ドーナツ店“ティム・ホートンズ(Tim Hortons)”を創業。この1号店の成功によりフランチャイズ化を決断。現在では店舗数3000以上、北米で最も有名なドーナツ店となった。なお、そのドーナツ・チェーンは2014年にバーガーキングに買収された。(宇都宮浩司)

テイラー,チャールズ(Taylor, Charles 1931- )
カナダを代表する世界的な哲学者で主な著書は20ヵ国語に翻訳されている。2008年には京都賞(思想・芸術部門)を受賞し、来日する機会も得ている。1998年からマッギル大学の名誉教授。1931年11月5日生まれでモントリオールのマッギル大学で歴史学を学び、その後は権威あるローズ奨学金を獲得してイギリスのオックスフォード大学で研究を続けた。オックスフォード大学での指導教授は政治思想・哲学の大家であるI・バーリンであり、1961年には博士号を取得した。その後、カナダには1961年に帰国し、母校のマッギル大学で1997年まで教鞭を取り、多くの優れた業績を発表してきた。また1976年にはオックスフォード大学のチチェリ政治・社会理論教授として招かれ、講義をしている。哲学や思想の研究と同時に現実問題にも関心を抱き、1960年代にはケベックの新民主党の党首に就任し、連邦下院議員選挙にも4回ほどチャレンジしたが落選している。カナダの連邦制度や多文化主義を擁護する立場からの著作も多く、2007年2月、ケベックにおける多様性を検討する調査委員会の委員として州政府から任命され、2008年5月には内外にこれが公表されている。
なお、この委員会の報告書(委員の名称をとりブシャール・テイラー報告書と呼ばれる)の要約版は日本でも翻訳され、刊行されている(『多文化社会ケベックの挑戦』)、明石書店、2011年)。(加藤普章)

デズモンド,ヴァイオラ(Desmond, Viola 1914-65)
1914年、ノヴァスコシア州都ハリファクスの黒人コミュニティに生まれた。父は黒人、母は白人だった。美容師になった後、黒人女性のための美容化粧品の開発・販売や美容院・美容学校の経営など、ビジネスパーソンとして成功を収めていた。1946年11月8日、会合のため同州シドニーに赴く途中のニューグラスゴーで車が故障。部品交換をともなう修理には時間を要するため、同地での滞在を余儀なくされた。その夜、映画を観に訪れた劇場の1階席に座ったところ、黒人専用のバルコニー席に移るよう求められた。それを拒否したため、逮捕・留置された。翌日の裁判では、1階席とバルコニー席の差額料金の娯楽税分の1セントを支払わなかったという脱税の罪で、罰金刑を受けた。これを不当とみて、ノヴァスコシア有色人種向上委員会の支援を受けて法廷闘争を試みたが、敗北した。死後になって、黒人差別に立ち向かった功績が称えられ、2010年、恩赦が与えられた。2018年発行の10ドル紙幣の肖像にもなった。
 「カナダのローザ・パークス」と称されるが、ローザ・パークスがアメリカ合衆国アラバマ州モントゴメリーでバス・ボイコット運動の引き金となる事件(バスの白人専用席からの移動を拒否した)を起こしたのは、1955年12月であり、デズモンドの方が約10年早かった。また、公的に人種隔離政策をとったアメリカ合衆国とは異なり、カナダの人種隔離は曖昧な形で進められていた。(細川道久)

テリオー,イヴ(Theriault, Yves 1915-1983)
ケベック州出身のアメリカ先住民の血を引く作家。1941年に最初の短編を発表してから70作を超える小説を中心に、劇作などを含め数多くの作品を発表する。そして1950年に出版された小説『アガグク』Agagukuでテリオーは小説家としての地位を確立する。同小説にはイヌイットの青年アガグクが妻とともに村の因習を断ち切り、個として成長していく姿が過酷なツンドラでの生活を通して描かれている。テリオーの作品にはアウトサイダーや社会的弱者が数多く登場する。その小説世界は先住民と白人、自然と文明、山と平地、男と女、暴力と平穏、そして個人と共同体といった相反する要素の対立で常に彩られている。(寺家村 博)

テリドン(Telidon)
カナダ通信省が1970年代に開発した、最先端の双方向ビデオテックス(文字画像情報)システムおよびテレテキスト(文字多重放送)。ギリシャ語のテレ(遠隔)とイドン(見る)の合成語。1980年代初めには、カナダで教育テレビ、農業情報サービス(Grassroots)、証券市場情報サービス(Marketfax)、パイロット用情報システム(TABS)、予約サービスなどに利用され、カナダ史上、太平洋鉄道の建設に匹敵する可能性をもつとさえ言われた。しかし、1980年代後半になると、テリドンという言葉はほとんど聞かれなくなる。その他のマルチメディアの急速な発達が、文字画像情報システムとしてのテリドンを時代遅れにしてしまったのである。ただし、テリドンの発明者ハーバート・ブラウン(Herbert Brown)によれば、テリドンの本質は情報交換のコードシステムにある。テリドンの情報交換方式は、1980年にはテリドンに基づくコード規格 NAPLPSが同委員会によって公認された。テリドンは商業的に失敗したが、NAPLSはさまざまなビデオテックスのハードウェアやソフトウェアに生きている。(吉田健正)

天然資源委譲法(Natural Resources Transfer Acts)
1930年に、アルバータ、サスカチュワン、マニトバの平原諸州に対して、連邦政府が天然資源の管轄権限を委譲した法律。1867年に制定された英領北アメリカ法(1867年憲法法)では、石炭・石油・鉱石などの非再生資源や森林資源は州の管轄とされ、資源収入の徴取方法についても州に決定権が与えられていたが、新規にカナダに加入した平原諸州においては、このような権限が認められていなかった。本法は、これら平原諸州の不満に対応して施行されたものであり、こうした経緯が、平原諸州における反中央的政治風土の形成に影響したと考えられる。(高橋卓也)

同性婚
2005年の「市民婚姻法(Civil Marriage Act)」により、カナダは世界で4番目に同性婚を承認する国家となった。同法の前文に「差別なき平等への権利は、市民的目的のための婚姻への平等なアクセスを同性と異性のカップルが持つことを求める」ことや「市民的目的のための婚姻への唯一の平等なアクセスは、同性カップルの差別なき平等への権利を尊重することであり、婚姻以外の1つの制度としてのシヴィルユニオンは、婚姻への平等なアクセスを同性カップルに提供しないし、権利及び自由に関するカナダ憲章に違反し、同性カップルの人間の尊厳を侵害するだろう」と記されていることからも分かるように、同法成立の背景には、憲法による平等権保障(憲章15条)をめぐる裁判所の判断の積み重ねがあった。まず、カナダ最高裁は、性的指向に基づく差別が憲章15条の問題になることを認め、1999年には「配偶者」の意味を男女のみに限定するオンタリオ州家族法を違憲とする判断を示した(M v. H [1999] 2 S.C.R. 3)。本判決は、ブリティッシュ・コロンビア州、オンタリオ州、ケベック州で同性婚訴訟が提起される契機になり、その結果、同性婚を認めていないことを違憲と評価する裁判例が登場することになった。それを受けて、連邦政府は、2003年、ブリティッシュ・コロンビア州およびオンタリオ州で争われていた訴訟について上告しないことを宣言したうえで、市民的婚姻へのアクセスを同性カップルに広げる法案(市民婚姻法案)を起草することになった。連邦政府は、法案の連邦議会への提出に先立つ2004年、カナダ最高裁に勧告的意見を求め、同性婚の法制化が憲章に適合する旨の判断(Reference re Same-sex Marriage [2004] 3 S. C. R. 698)を得た。これを受けて法案は、翌2005年に議会で審議され、反対はあったものの賛成多数で可決成立した。現在、市民婚姻法2条において「市民的目的にとって、婚姻は、全ての他者を排除した2人の人の法的結合である」となっている。(河北洋介)

トーテムポール(Totem Poles)
トーテムポールとは、北アメリカの北西海岸先住民が自らの家族の歴史にゆかりのある動物や人間などを独特な形姿で彫り込んだ巨木柱である。そこに描き出される動物は彼らの家族やクランの紋章であるワシ、ワタリガラス、クマ、ビーバー、シャチ、サメ、カエル、サンダーバード(想像上の怪鳥)、シシウトル(想像上の大ウミヘビ)などである。彼らは家族の歴史や出来事を記録するためや死者の功績をたたえるために木柱を制作した。柱はレッド・シダーの木が使われ、大きさは直径1m以上、高さ15mもあるものもあった。彩色も種々だが、ハイダ族の無地で巧みに彫像が施された巨大なポールは有名である。現在では博物館や美術館などで展示するためや学校や病院の開設を記念するために制作されることが多い。(多湖正紀・岸上伸啓)

トムソン,トム(トマス)(Thomson, Tom (Thomas) 1877-1917))
オンタリオ州出身の風景画家。同州のアルゴンキン・パーク地方の荒々しい自然を描いたが、39歳の制作の絶頂期に湖上で謎の死を遂げた。油彩の『ウエスト・ウインド』、『ジャック・パイン』は、恐らくカナダ美術史上もっとも名高い作品であろう。カナダの北方性のシンボルとされ、トムソンの悲劇的な死とあいまって人々の脳裏に深く刻み込まれている。トム・トムソンは、活動を共にした結成前のグループ・オブ・セブン(結成1920年)のメンバーに多大な影響を与え、カナダ絵画の黎明期を抜けて、国家意識を形成していくグループのさきがけとなった。(伊藤美智子)

トランス・カナダ・ハイウェイ(Trans-Canada Highway)
セント・ジョーンズ(マイルワン・センター)~ウィニペグ(カナダのへそ)~ヴィクトリア(ビーコン・ヒル)を走る全長8,030kmの道路であるが、道路番号は州によって異なる。カナダの太平洋岸から大西洋岸まですべての州(準州は含まない)を通る。1948年のトランス・カナダ・ハイウェイ法にて制定され、1962年に供用開始、1970年に完成した。緑地に白のメイプルリーフ標識で表される。略称はTCH。ヴィクトリア側での起点はビーコン・ヒルにあり、正式なトランス・カナダ・ハイウェイ西端として「マイル・ゼロ」という記念碑が建っている。ニューファンドランド・ラブラドール州のセントジョンズには「マイルワン・センター」がある。主な経由都市は、ヴァンクーヴァー、バンフ、カルガリー、リジャイナ、ウィニペグ、サンダーベイ、サドベリー、トロント、オタワ、モントリオール、ケベック・シティ、シャーロットタウン、フレデリクトン、モンクトン。(草野毅徳)

トランスカルチュラリズム(Transculturalism)
トランスカルチュラリズムは、1980年代のケベックにおいて、英語系、仏語系に加えアロフォンと呼ばれる移民たちが共存するモントリオールの言語的三極構造を背景にした横断文化と、マイノリティの側からの文化変容のダイナミズムを問いかける思想的、政治的な動向。 F.カッチャ、T.タシナーリらのイタリア系移民二世の知識人らを中心に創刊された雑誌『ヴィス・ベルサ』はこの思潮を広く流通させることに貢献した。80年代の多民族化が進むケベック社会を反映し、21世紀に入るとケベックの行政レベルにおいて推進されたインターカルチュラリズムに先駆けて、カナダ連邦政府が標榜する多文化主義を批判的に乗り越え、ケベック独自の新しい多文化共存のあり方を模索した。(真田桂子)

トランブレイ,ミシェル(Tremblay, Michel 1942- )
モントリオール下町生まれのフランス系カナダ劇作家。1965年に発表した『義姉妹』Les Belles-Soeursは、ケベックの下層階級労働者の言葉であるジュアル語(Joual)を使用して書かれており、賛否両論の論議を呼び起こした。以後、次々と戯曲作品を発表し、多くの文学賞を獲得している。最近では小説も手がけ、精力的に活動しているケベックの代表的作家である。(南 良成)

トルドー、ジャスティン(Trudeau, Justin 1971- )
カナダの政治家。第23代首相。前カナダ首相ピエール・トルドーの長男。1971年オタワ生まれ。1994年マギル大学卒業(文学士)。1998年、ブリティッシュ・コロンビア大学卒業(教育学士)。大学卒業後は、ヴァンクーヴァーにて中等学校の教師を務めていたが、2008年にカナダ連邦自由党から連邦政界に進出。2013年、カナダ連邦自由党の党首に選出され、2015年カナダ連邦議会選挙において単独過半数の議席を得て政権を獲得した。選挙前には第3党にまで転落していたカナダ連邦自由党の党勢の回復に貢献した。思想的には、父ピエール・トルドーが開始した多文化主義を熱烈に支持し、カナダ的価値観として公平性や多様性をとりわけ重視した。そのことは内閣の構成においてカナダ史上初めて閣僚を男女同数とし、先住民や難民出身者などを閣僚に加えたことにもみられる。また、およそ4万人のシリア難民の受け入れも行った。さらに、大麻の合法化などにみられるように個人の多様性の尊重ともいえる政策を実施している。児童の貧困問題解決や炭素税の導入などの環境政策にも積極的に取り組んだ。しかし、2019年のカナダ連邦議会選挙では大手建設会社の贈賄事件への司法介入疑惑や、顔を茶色や黒色に塗った過去の写真が発覚したことを巡るスキャンダルにより、公平性や多様性を重視するトルドー自身の真の人間性が問われることになり、少数与党政権に追い込まれることとなった。(荒木隆人)

トルドー,ピエール E.(Trudeau, Pierre Elliott 1919-2000)
法律家、政治家、知識人。第20代、22代首相(1968~79年、1980~84年)、司法大臣、自由党党首(1968~84年)などを歴任。モントリオール生まれ。モントリオール大学で法学を学び、弁護士資格取得。ハーバード大学MA、ロンドン大学やパリ大学などでも学ぶ。世界放浪の後で、1950年代、彼は弁護士としてモントリオールで労働問題などに取り組み、ケベック州のデュプレシ政権の政治腐敗を批判。仲間とともに雑誌『自由市民』(シテ・リーブル)を創刊し、民主化運動を展開する。その後、今度はケベック分離独立主義者やナショナリストを批判し、モントリオール大学助教授として、行政法を教えた後で、連邦主義の再構築をめざしてカナダ連邦政界へ進出する。1965年、自由党の連邦下院議員に初当選。ピアソン政権下で、司法大臣などを務めた後に、1968年カナダ首相に選出される。その後、5回の総選挙で4回勝利し、15年以上の施政を行い、戦後最長の首相在任期間を誇る。「公正な社会の実現」を訴え、人権憲章を含む憲法改正(1982年)や連邦制度の改革を推進した。外交面では、1970年に米国に先駆けて、中国を承認し、1972年に「第三の選択」路線を発表し、対米依存脱却をめざす。南北問題や東西対立間題などで一定の外交的評価を得たが、対米政策は完全に成功したとは言い難い面もあった。彼は知識人としても知られ、著作物も数多い。主なものに『連邦主義の思想と構造』Federalism and the French Canadians(1968)、『アスベスト・ストライキ』The Asbestos Strike(1974)などがある。引退後は、マルルーニー政権による憲法改正発議(ミーチレーク協定)において、ケベック州を「独自の社会」と認めることに反対する論陣を張り、改正頓挫に寄与した。(櫻田大造)

トロワリヴィエール(Trois-Riviere)
ケベック州のモントリオールとケベック市の中間に位置し、セント・モーリス川の三角州に広がる町。メイプル街道と呼ばれる観光ルートの通り道でもある。ヌーヴェル・フランス時代、ケベック市に次いで開拓移民が多く定住した歴史ある地域である。旧市街には1697年に創設された聖ウルスラ修道院と博物館、トロワリヴィエール聖堂が建ち、カトリックの巡礼地として知られるノートルダム・デュ・キャップ教会は川沿いの広大な敷地に1714年に建てられたカナダ最古の石造聖堂と、高さ78メートルの尖塔、350枚のステンドグラスが美しい大聖堂を擁しており、多くの観光客が訪れる。(友武栄理子)

トロント(Toronto)
トロントはオンタリオ湖北岸に広がる人口約270万人(2016年国勢調査)、面積630km2の国内随一の大都市である。その起源はヨーロッパ人による入植以前にまでさかのぼることができるが、古名のヨークから現在のトロントに改称されたのは、町から市へと発展した1834年である。1793年以降、アッパー・カナダの首都であったため、1867年にオンタリオ州が設立された際には州都に定められた。短期間ではあるが、連合カナダの首都であった時期もある。19世紀中頃以降、鉄道、路面電車、蒸気船などの導入で交通の要衝となり、市街地も広がった。初期のアイルランド、それに続くドイツ、イタリアのあとを追うように、ロシア、東欧、中国などからも移民が流入し、カナダでもっともコスモポリタン的な都市になった。大恐慌の頃を境にモントリオールからの企業流入が始まり、ケベック独立の動きがこうした流れを加速した。1998年にトロント市とその郊外地域を含む自治体が合併し、トロント大都市圏(Greater Toronto Area)が誕生した。移民が人口の半数を超える世界有数のコスモポリタン都市であり、経済、メディア、教育などで抜きん出た集積量を誇る。治安や生活水準などが高く評価され「世界でもっとも住みたい都市」に常時ランクインしている。(林 上/大岡栄美)

トロント株式取引所(TSE)
証券取引所は、企業の株式が取り引きされる所である。カナダにおける最も古い証券取引所は1861年に設立されたトロント証券取引所(Toronto Stock Exchange[TSX])であり,わずか18の株式の取引がもっぱら州レベルで行われた。そのほか、モントリオール、ヴァンクーヴァー、カルガリー、ウィニペグに証券取引所があるが、モントリオールを除く3社は1990年代末に統合し、カナディアン・ベンチャー取引所(Canadian Venture Exchange[CDNX])として再編された。2000年代初頭、TSXがCDNXを買収し、CDNXをTSXベンチャー取引所(TSX Venture Exchange)に変更した。加えて、2007年にはTSXはモントリオール取引所(Montreal Exchange)を傘下に収め、翌2008年にTMX Groupへ改称した。だが、2011年にロンドン証券取引所(London Stock Exchange)との合併話が持ち上がった際、カナダ主要銀行で形成されるメープル・グループ(The Maple Group)の反対で、この提案は阻止された。この結果、現在TSXを含むTMX Groupはメープル・グループの統制下にあるといえる。(榎本 悟)

トロント大学(University of Toronto)
1827年創立のカナダ最大の総合大学で、「UofT」の愛称で親しまれている。セント・ジョージ、ミシサガ、スカボローの3つのキャンパスを持ち、フルタイムの学部生は約7万4千人と大学院生約2万1千人を合わせて9万5千名ほどで、カナダ最多の在籍数を誇る(2020年度)。首相、ノーベル賞受賞者、作家を輩出しており、その教育・研究体制は世界的に評価されている。イギリスの高等教育専門誌による「THE世界大学ランキング2021」では世界18位 (カナダ1位)の評価を得ている。多文化都市トロントの中心部に位置する緑豊かなキャンパスは『グッド・ウィル・ハンティング』などの映画のロケ地にもなっている。留学生の受入れも盛んで、世界164か国出身の留学生が学び、多数の日本の大学とも交換留学の提携をしている。(大岡栄美)

トロント・ブルージェイズ(Toronto Blue Jays)
1977年に創設されたオンタリオ州トロントに本拠地を置くプロ野球球団。アメリカメジャーリーグ、アメリカンリーグ東地区に所属。愛称は「ジェイズ(the Jays)」。アメリカ国外に本拠地を置く唯一の球団でもある。ワールドシリーズ優勝2回、リーグ優勝2回、地区優勝6回を経験。1989年に世界初の開閉式ドーム球場、スカイドーム(the SKY DOME)を完成させるが、現在はオーナー企業が同球場を買い上げてロジャーズ・センター(Rogers Centre)と名称変更。メジャー球団では珍しく企業が球団オーナーを務めており、総合メディア企業のロジャーズ・コミュニケーションズ社がそれである。野球殿堂入りしたロベルト・アロマー(Roberto Alomar)の背番号「12」は永久欠番となっている。(宇都宮浩司)

トンプソン・リバーズ大学(Thompson Rivers University)
ブリティッシュ・コロンビア州のカムループスにメインキャンパスを有する州立の総合大学。1970年に創立されたカレッジ(カリブーカレッジ:Cariboo College)を前身とし、1989年にはユニバーシティーカレッジ(カリブー・ユニバーシティー・カレッジ:University College of the Cariboo)に、そして2004年にトンプソン・リバーズ大学と名称を変更して総合大学になった。2021年時点で、教養学部、教育・社会福祉学部、法学部・理学部・看護学部などとともに、地域の特性を活かした冒険・料理・観光学部を含む9学部があり、さらに大学院修士課程、生涯教育コース、ESLコースなどが開講されている。14,000名程度の学生はキャンパスで、11,000名程度の学生はオンラインで授業を受けている。留学生の受け入れにも積極的であり、全学生の2割を占める。また、カムループスキャンパスとウイリアムズ・レイクキャンパスがセクワプミック・テリトリー(Secwepemc territory)内に位置することもあり、先住民の学生を積極的に受け入れ、全学生の1割を占める先住民学生に対して手厚いサポートを行っている。(時田朋子)

ナ行

ナイアガラの滝(Niagara Falls)
エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にある世界最大の水量を誇る滝。ナイアガラとは先住民の言葉で「水の雷」という意味。滝はゴート(Goat)島で二分され、アメリカ側の滝は高さ64m、幅305m、水量毎分工1,400万リットル。カナダ側の滝は馬の蹄鉄の形をしており、高さ54m、幅 675m、水量毎分1億5,500万リットル。滝は約1万年前に形成され、1年に約1.2mの速度で侵食により後退し続け、現在では約11km後退した位置にある。1950年にアメリカとカナダの間に締結された「ナイアガラ水路変更に関する条約」によって滝の最低水量が確保され、残りの水はアメリカとカナダで等分されて水カ発電に利用されている。このため、滝の侵食の速度は著しく低下した。1887年にクイーンヴィクトリア公園としてカナダでは最初の州立公園(オンタリオ州)に指定された。(大石太郎)

ナショナル・パーク(国立公園)
1930年にカナディアン・ロッキーのバンフ国立公園が指定されて以来、カナダ公園省が管理する国立公園は39カ所、また国立公園保留地区9カ所にまで増え、すべての州と準州にある。土地所有権問題が残っているものが保留地区とされる。面積で最大のものはウッド・バッファロー国立公園で4.5万k㎡、北海道の半分以上の広さである。公園省は各公園の自然環境の保護と来訪者へのサービスにあたっている。公園の内、ノースウエスト準州のナハニ国立公園など4ヵ所がユネスコの自然遺産に登録されている。また公園省は、オタワのリドー運河など170ヵ所の史跡と4ヵ所の国立海洋保護区も管理している。(小川 洋)

ナショナル・ポリシー(Nanional Policy)
1878年の総選挙の際に保守党党首のジョン・A・マクドナルド(Sir John A. MacDonald, 1815-1891)が、時の自由党政権の歳入関税政策に対抗して掲げ、勝利したスローガンで、工業育成のための保護関税、大陸横断鉄道の建設、移民誘致による西部の開発を三大支柱とする国民経済政策をいう。1867年に発足したカナダ自治領は、ノヴァスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる小さな連邦にすぎなかったが、1869年にルパーツランドが、1871年にはブリティッシュ・コロンビアが加わって「海から海ヘ」の大陸横断国家へと膨張した。
政権についたマクドナルドは、1879年に繊維・鉄鋼などの工業製品と石炭の関税率を10~30%引き上げ、逆に原料品・半製品の関税を引き下げて国内工業を育成し、これによって増加した国庫金を大陸横断鉄道の建設にあてて1885年に完成させ、この鉄道によって移民を誘致して西部を開発すると同時に工業製品の市場を拡大し、国民経済の発展をはかった。それは中央カナダの実業界を支持基盤とする中央集権的な国家統合政策であったため、州権論や地域主義に基づく地方の反発や抵抗を招き、妥協と調整を余儀なくされた。
1896年にマクドナルド亡き後の保守党を破って政権の座についた自由党ウィルフリッド・ローリエ(Sir Wilfrid Laurier, 1841-1919)も実質的には保護関税政策を踏襲したが、1911年米加互恵条約を結んで自由貿易を選択した結果総選挙で大敗し、保守党政権による「ナショナル・ポリシー」が継続された。(富田虎男)

ナナイモ(Nanaimo)
ブリティッシュ・コロンビア州ヴァンクーヴァー島東岸の、人口10万人を超える、州都ヴィクトリアに次ぐ大きな街。北米西海岸最大の炭鉱街として栄えた歴史もあり、2008年にはカナダ文化都市(Cultural Capitals of Canada)のひとつにも選ばれた。壮大な海の景色とアウトドア・アクティビティを楽しめるため、移住者も多い。夏には1967年に始まったバスタブレース(Bathtub Race)、春には20周年を迎えたMaple Sugar Festivalが開催されている。ナナイモ発祥のカナダスイーツ「ナナイモバー」も有名である。(杉本公彦)

七年戦争 (Seven Year’s War)
フレンチ・アンド・インディアン戦争 参照

難民法
追害や危険から逃れるために母国を離れる人々?難民?を受け入れることはカナダの移民政策が人道主義に基づいていることを世界に示すためにも、またカナダが労働力を必要としている理由からも、重要であり、これまでカナダは概して積極的に難民を受け入れてきた。ハンガリー革命の際やベトナム戦争後の難民受け入れは、その典型である。しかし最近では、2012年の改正に示されているように、正規の手続きをせずに入国しようとする難民に対し難民法の乱用を避ける方針も打ち出し、やや慎重な姿勢を見せている。2012年の改正難民法に関して、難民に寛容な国としてのカナダの国際的評価が揺らぎつつあると論じる者もいる。(飯野正子)

ニーパワ(Neepawa)
マニトバ州の町(人口約5,700人、2021年)。ウィニペグから西北175kmの地点にあり、ライディング・マウンテン州立公園へ行く途中にあるオアシス的閑静な美しい町。穀物・畜産業が中心で経済的に豊かである。作家のマーガレット・ローレンス(Margaret Laurence)や音楽家のエヴァ・クレア(Eva Clare)の生誕地として有名。また、この地域で開発・育成されたパン用小麦の品種名にもなっている。(草野毅徳)

二言語主義(Bilingualism)
今日のカナダは、17~18世紀のフランスの植民地に由来し、それが1763年にイギリスの植民地となった後でも76,000人の住民のほとんどがフランス語を話し、その後も減ることがなかった。このことを考慮したイギリス政府は、1774年の「ケベック法」で、公の場所でフランス語を使うことを許した。今日の連邦を形成した「1867年憲法」では。第133条でカナダの連邦政府とケベックの州政府では英語とフランス語の両方を使用することを保証し、さらに1870年の「マニトバ法」でもフランス語の使用が保証された。
 二言語主義に対する真剣な取り組みは、二言語二文化主義に関する王立委員会(Royal Commission on Bilingualism and Biculturalism, 1963-71)の設置であった。その結果、「公用語法」が1969年に制定され、連邦議会、連邦政府の諸機関、王立の諸機関においては英語とフランス語の二言語の使用が保証され、その徹底した実施が推進された。1982年に制定された「カナダの権利と自由の憲章」では、フランス語と英語がカナダの公用語であることを確認し、それぞれ少数派の立場にある集団がその言語で子供に教育を受けさせることができることを保証した。また、ニュー・ブランズウィックも完全な二言語主義の州として確認された。
 1988年には1969年の「公用語法」が改訂され、さらに英仏平等の立場が強化された。このような連邦政府レベルの努力にもかかわらず、ケベック州では1969年に「ケベック州におけるフランス語の推進に関する法」、1974年に「公用語法」、1977年に「フランス語憲章」が制定され、フランス語のみが州の公用語とされ、フランス語以外の言語を使用した学校教育にも制限が加えられた。(広瀬孝文)

日加協会(Canada-Japan Society)
日本とカナダの相互理解と友好親善の増進・促進を目的として幅広い活動に取組んでいる民間団体である。1929年の日本とカナダの国交樹立の翌年(1930年)に創立されて以来、第2次世界大戦による中断を経ながらも90年近い活動を有する。名誉総裁の守谷絢子氏(元高円宮絢子女王殿下)や名誉会長の駐日カナダ大使をはじめ、日加関係の最前線で活躍する会員が、公的レベルから草の根レベルに至るまでの両国の交流促進のために日々奔走している。活動内容も特定の領域に限定されるのではなく、両国の政治経済といった硬派な内容から、食や落語までを含めたコメディなどの身近な分野まで、カナダを多角的にアプローチしている。日本各地の教育機関や国際交流イベント等での日加関係の理解増進の活動をはじめとして、各地で実施されるカナダ関係の行事にゲスト参加するとともに、会員間の交流・情報共有も実務的なものから文化的なものまで幅広い。また、クィーンズ大学に留学していた故高円宮憲仁親王殿下を記念し設立された『高円宮記念クィーンズ大学留学奨学金』の創設にかかわり、日程等があえば受賞者の高円宮妃殿下への紹介、駐日カナダ大使館における帰国報告会など派遣の支援をしている。毎年発行しているニューズレターは、名誉会長である駐日カナダ大使をはじめとして様々な分野に精通する会員からの寄稿文、そして、カナダに留学した高円宮記念奨学生の体験談など、幅広い領域・世代をカバーした現在進行形の日加関係を反映するものとなっている。(山田亨)

日加フォーラム
1991年5月に当時の海部首相とマルルーニー首相によって設置された諮問機関であり、日本とカナダの協力体制の強化を目標とする。最初は「日加フォーラム2000」として、両国で合同会議などが行われ、政治・経済・人的交流などについて多くの提言を行った。2000年まで活動が続けられたが、日本側座長は大河原良雄(元駐米大使)が、カナダ側の座長はローヒード(元アルバータ州首相)が勤め、23名のメンバーから成り立った。第二次日加フォーラムとしては、2003年6月のグレアム外相の訪日時に、川口外相と意見が合い、両国から6名ずつのメンバーによるフォーラム結成が決定。日本側座長は、佐藤嘉恭(元中国大使)、カナダ側座長はキャンベル(元日本大使)が勤め、2006年6月の小泉首相訪加にあわせて、両国に最終報告書が提出された。その内容は価値観を共有する日加両国間の多くの面でのパートナーシップや協力体制の強化であり、たとえば、少なくとも2年に1回は日加の首相が相互訪問することを提言している。(櫻田大造)

日系カナダ人
カナダに渡った日本人移民およびカナダで生まれた彼らの子孫をさす。カナダへの日本人移民の始まりは1877年とされるが、移民が本格的になったのは1887年以降である。初期の移民の大半は独身男子であり、移住の目的は出稼ぎであった。カナダへの移民を多数送り出したのは滋賀県、広島県、三重県などであるが、定着の傾向が見られ始めたのは20世紀に入ってからであり、その過程で県人会なども組織された。カナダへの日本人移民のほとんどがブリティッシュ・コロンビア州(BC州)に集中し、第2次世界大戦時に内陸部へ強制移動させられるまで、カナダの日系人の95%がBC州に在住していた。彼らの就労先は漁業、炭鉱、山林伐木業、製材業、鉄道建設などであった。BC州では、東洋人排斥を経験しながらも、日本から「写真花嫁」を迎えて家庭を築く者や第1次世界大戦に義勇兵として参加した日系人もおり、次第にカナダ社会に定着していくが、第2次世界大戦時、総人口約22,000人の日系人は、カナダ生まれの二世、三世も含め「敵性外国人」として強制的に立ち退き・収容された。このような取り扱いに対するカナダ政府の謝罪と補償がカナダ議会で認められたのは1988年のことである。2016年の国勢調査では日系人人口は12万1485人であり、そのうち、戦後、カナダへ移住した、いわゆる「新移住者」は約60,000人。出自を「日本人」とだけ申告しているのはその半数以下であり、残りは日本人を含む複数の出自を申告している。彼らはBC州には集中せず、頭部やプレーリー地域に拡散している。他のエスニック集団との結婚率も高く(2016年のデータでは79%)、カナダ社会に溶け込んでいるといわれる日系人は、教育程度や所得の面でもカナダの平均を上回り、文学などの分野での活躍も顕著である。最近では日系カナダ人の呼称として「ニッケイ」(日系)が一般的になってきている。(飯野正子)

日系文学
一世による日本語の短歌・俳句はヴァンクーヴァーやトロントの日系紙等に随時発表され、合同歌集『楓』(如月短歌会、1972、英訳 Maple, 1975)などに収録されている。中心人物中野雨情(本名武雄、1903-)は収容所体験記『鉄柵のうち』Within the Barbed Wire Fence(1980)を英訳で出した。
 英語を媒介とする二・三世では、斬新なモダンアートの手法を駆使する詩人ロイ・キヨオカ(1926-94)と、繊細な感受性を持ち、第2次世界大戦中・後の日系人の苦難の体験を感動的な小説『おばさん』Obasan(1981)に昇華させた詩人・作家ジョイ・コガワ(1935-)が代表的。他にトロント『スター』紙書評担当、日系人史『存在しなかった敵』The Enemy That Never Was(1979)を書いたケン・アダチ(1928-89)、一・二・三世の詩集『障子』Paper Doors(1981)を編集した三世詩人ジェリー・シカタニ(1950-)、劇作家リック・シオミなども注目に値する。(堤 稔子)

新渡戸稲造(1862-1933)
文久2年(1862年)岩手県盛岡市生まれ。1984年から2004年まで五千円札の肖像であったことから名前と顔は知られている。学者(農学・農業経済学)、クエーカー教徒、哲学者、政治家、教育者であった。東京英語学校、札幌農学校とジョンズ・ホプキンズ大学で教育を受けたことから、『太平洋の橋』でありたいと願い、日米間の信頼構築と理解増進に生涯を捧げた。学者、教育者として、札幌農学校教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となって尽力した。国際人として、国際連盟事務局次長、太平洋問題調査会理事長になり、台湾における糖業発展の基礎を築いたことでも有名である。アメリカには大学留学、メアリー夫人と結婚、病気静養中に『武士道』を執筆など、第二の故郷ともいえるほど長期に滞在している。しかしカナダには数度の訪問を合算しても生涯でおよそ3か月未満の滞在に過ぎず、カナダの風物をこよなく愛したといわれているが、意外にもカナダ人との交流はさほど濃密ではなかった。BC州には、ブリティッシュ・コロンビア大学に新渡戸記念庭園(Nitobe Memorial Garden)がある。(杉本公彦)

日本カナダ学会(Japanese Association for Canadian Studies / L’Association japonaise d’etudes canadiennes)
日本カナダ学会(Japanese Association for Canadian Studies; JACS / L’Association japonaise d’etudes canadiennes; AJEC)は、カナダを対象とする学際的地域研究学会であり、国際カナダ研究協議会(International Council for Canadian Studies; ICCS / Le Conseil international d’etudes canadiennes; CIEC)の創立学会の一つである。1977年5月に馬場伸也、大原祐子ら10数名の有志によって設立された前身組織「日本カナダ研究会」を発展的に改組し、1978年11月18日に当学会が設立された。主たる活動は、年次研究大会、機関誌『カナダ研究年報』発行、地区研究会(北海道、関東、中部、関西及び九州)、『ニューズレター』発行、研究書・啓蒙書の出版、カナダ学会賞授賞、各国カナダ学会との連携協力等である。ウェブサイトは、<< https://jacs.jp/ >>。(佐藤信行)

日本カナダ会
カナダの大学における研究生活を通して親しくしていた家族同士が帰国後結集して京都で1977年に初めての親睦会を開催した。以来、年に一回各地で持ち回りの会合を催し親交を深めてきていたが、1989年の名古屋での集まりを最後に一時休会状態にあった。その後、会員の親睦を深めることに止まらず、各種の文化交流活動を通じて、日加間の友好親善を深めると共に会員間の人の輪を広めることを目的として1993年に神戸を拠点として再編成し自由な会員構成とした。年間行事を通し国際協力交流組織の一環として国内海外での活動に寄与してきている。現在登録会員数は250名である。(河合睦文)

日本カナダ文学会(Canadian Literary Society of Japan/ L’Association Japonaise de la Litterature Canadienne)
日本におけるカナダ文学の研究および普及を目的として1982年に設立された学術団体。本会は普通会員、学生会員、賛助会員から成り、カナダ文学・文化に関心のある人はだれでも参加できる。毎年カナダから作家、研究者を招聘して年次研究大会を開催。日本カナダ文学会紀要『カナダ文学研究』を毎年発行。また、春と秋の年2回ニューズレターを発行し、最新情報等を会員に届けるとともに、読書会等の研究会も活発に行われている。(佐藤アヤ子)

日本ケベック学会(L’Association Japonaise des ?tudes Qu?b?coises:AJEQ)
「ケベックを中心として、フランコフォニーに関する学術研究及び芸術文化交流の振興」を日本で推進することを目的として、2008年10月に創設された学会。毎年十月第一土曜日を年次大会の日に定めて、総会・研究発表会・講演会などの催しを開いている。他の活動としては、学会誌・ニューズレターの発行、研究発表会の随時開催、ケベック州政府から助成を受けた短期研究・留学助成、各種講演会の主催・後援などを行っている。詳細はHP(www.ajeqsite.org/)を参照。国際交流も活発で、年次大会には必ず海外から講演・発表者を招いている。特に韓国ケベック学会とは創設以来緊密な関係にある。フランコフォニー国際学会(CIEF)にも積極的に参加している。(小畑精和)

ニューファンドランド・ラブラドル州(New Foundland and Labrador)
カナダ東端の州。ニューファンドランド島(11.1万km2)およびその周囲の多数の小島と、北側のラブラドル沿岸地方(29.3万km2)からなる。痩せた土壌と寒冷な気候で、ほとんどが不毛の地である。しかし、沿岸にはグランドバンクスそのほかの浅堆(バンク)が並び、そこまで北上するメキシコ湾流の恩恵を受けて、世界屈指の好漁場が形成され、バイキング時代からヨーロッパの漁民には知られており、1497年ジョン・カボットによって発見されたという歴史上の記録以前から、ノルマン人、バスク人、ブルターニュ人らが競って来漁していたことは疑いない。カボットはここを「新発見島new founde isle」と呼んだが、これ以来、イギリスの公文書にNew Founde Launde、フランスのものにTerre Nouveと書かれるようになった。いまでは一語のNewfoundlandと綴り、発音もニューファンドランドとなっている。1949年カナダ第10番目の州となる。州都セント・ジョンズはトランス・カナダ・ハイウェイの終点。なおこの州だけはカナダやアメリカの東部標準時よりさらに30分早い。(大島襄二)

ニュー・ブランズウィック州(New Brunswick)
カナダ東部の州。東はセント・ローレンス湾、南はファンディ湾に臨む「沿岸諸州」の一つで、北はケベック州、西はアメリカ・メイン州、さらに南東のシグネクト地峡をはさんでノヴァ・スコシア州に接する。農業と漁業が盛んである。17世紀初めのフランス人の入植以来、フランス領アカディアAcadiaの一部と考えられていたが、アカディアがイギリスに割譲された1713年のユトレヒト条約では解釈が分かれていた。1763年のパリ条約により明確にイギリスの支配下におかれるが、アメリカ独立革命によって忠誠派(ロイヤリスト)が流入し、彼らの要求にもとづいて1784年にノヴァ・スコシアから分離して独立した植民地となった。住民の約65%が英語、約30%がフランス語を母語とし、英語とフランス語の両方を州の公用語とするカナダ唯一の州であるが、やや詳細に見れば、州の南西部、アメリカのメイン州に接する側が英語圏、州の北西部や東部がフランス語圏となっている。とくに州都フレデリクトンには忠誠派(ロイヤリスト)の伝統があり、結果的にはアメリカのニューイングランド地方にも似た古いイギリス風の景観が見られるのに対し、東のセント・ローレンス湾岸では、フランスの三色旗に黄色い星を配したアカディアの旗がはためいている。(大島襄二・大石太郎)

ニュー・ブランズウィック大学(University of New Brunswick)
1785年に創立された、カナダで最古の英語系の州立大学である。キャンパスは州都であるフレデリクトンと産業の中心地セント・ジョンの2つ。アメリカの大学で教鞭を執っていた王党派で、第1次英米戦争(アメリカ独立戦争)時にノヴァ・スコシアに移住して来た人々が中心となり、1785年のニュー・ブランズウィック州成立と同時に専門の教育機関設立の請願書をカナダ総督に提出したのが大学創立の契機である。現在は 人文科学、教育学、法学、コンピューターサイエンスなど60以上の幅広い分野の教育プログラムが準備されている総合大学である。(宇都宮浩司)

ヌナヴト準州(Nunavut)
カナダ極北地域の中部から東部にかけての準州。1999年4月にノースウェスト準州の東半部をいて設けられた。陸地面積193.2万?、人口39,000人あまり(いずれも2021年)で、カナダ全国の10州、3準州のうち、面積は最大であるが、人口は最も少ない。州都はバフィン島南部にあるイカルイト。ヌナヴトは、イヌクティトゥト語で「われわれの土地」を意味する。この地に居住する先住民イヌイットによる権利要求運動の結果、本準州が成立した。これはアラスカにおける同種の運動が、1970年代初頭に経済的権利の獲得という点である程度の成果を得たことに刺激を受けたもので、連邦政府との間で20年近い交渉の結果、1993年に合意に達し、その後6年の準備期間の後に準州成立をみた。準州成立の背景からもうかがえるように、本準州ではイヌイットが人口の多数を占め、約7割がイヌクティトゥト語を母語とする。イヌイットの言語としてはイヌクティトゥト語のほかにイヌイナクトゥン語(母語とする者は人口の約1%)があり、英語・フランス語に加えて、これら2言語も準州の公用語に指定されている。本準州の産業としては、準州成立以前から鉱業への期待が寄せられ、過去にも、また今日においてもいくつかの鉱山が採掘を行っているが、必ずしも長期にわたる安定的な操業が保証されているわけではなく、準州の経済基盤は脆弱である。(山田 誠)

ヌーヴェル・フランス(Nouvelle-France)
北アメリカにおけるフランスの植民地時代のことを言う。1524年、イタリアの探検家ジオヴァンニ・ダ・ヴェラッザーノによって、現在のアメリカからカナダの大西洋沿岸地域を「ノヴァ・ガリア」(新しいフランス)と名付けたのが最初である。しかしフランス領としては、探検家ジャック・カルチエが、1534年、セントローレンス川下流のガスペ半島に上陸した際、フランス国王の名でその地の占有宣言をしたのが始まりであった。本格的定住にともなうヌーヴェル・フランスの歴史は、1608年のサミュエル・ド・シャンプランによるケベック創設から、英・仏植民地戦争によってモントリオールが陥落する1760年までの約150年であった。その領土は、北はニューファンドランドから南はアメリカのルイジアナに至るまで、北米大陸の広大な地域に及んだ。その拠点となったのが、ケベック、トロワ・リヴィエール、モントリオール、ニューオーリンズだった。これらの要塞都市はセントローレンス川・五大湖・ミシシッピー川で結ばれていた。しかし人口は全体で最大時でも約7万人にすぎず、そこはいわば「点」(都市)と「線」(河川)で結ばれた巨大な空間地帯だった。ただ後世からみると、北米大陸にフランス文化・フランス語・カトリシズムの種が蒔かれたのは、この時代である。(竹中豊)

ヌーヴェル・フランス会社(Compagnie de la Nouvelle-France)
フランスの枢機卿リシュリューにより1627年に創設され、翌1628年、フランス国王から認可を受けた会社。北アメリカにおけるフランス植民地活動を実質的に担った組織。100名の出資者よりなることから、「百人会」とも言う。1629~ 1635年にかけては、ケベックの創設者サミュエル・ド・シャンプランが最高指揮官だった。同会社は、毛皮交易および漁業を除く他の交易の独占権を有し、ヌーヴェル・フランスの開拓にあたった。フランスからの移民政策も担い、一時は年間約160名の移民を目指していた。その一方で、ライバルのイギリスとの対立もあり、1629年にはカーク兄弟率いるイギリス船団にケベックが占領される。1632年にフランス側に返還されたものの、 17世紀半ば以降は先住民イロコイのさらなる脅威や財政危機などにみまわれ、ついに1663年、ルイ14世により特許状の認可が取り消される。以降、ヌーヴェル・フランスはフランス国王の直轄地となる。(竹中豊)

年金制度
1951年に「老齢所得保障法」(Old Age Security Act)を制定することにより、連邦が運営する年金制度が開始された。カナダの年金制度は、3階建てといわれることが多い。
 1階部分は、老齢所得保障制度と呼ばれ、18歳以降に40年間カナダに在住すれば、だれでも65歳になると満額受給できる「OAS年金」(老齢基礎年金)、OAS年金以外にほとんど所得のない者に追加支給される年金として1967年に導入された「補足所得保障」(Guaranteed Income Supplement:通称GIS)」、および配偶者手当である「加給手当」(Allowance)の3つで構成されている。財源は、連邦政府の税金である。なお、1989年、高所得高齢者に対してOAS年金受給額の一部ないし全額を返還させる制度(OAS pension recovery tax)が導入された。
 2階部分は、1965年制定の「カナダ年金制度法」(Canada Pension Plan)による所得比例の「カナダ年金」(通称CPP)である(ケベック州には独自の「ケベック年金」(Quebec Pension Plan[Le Regime de rentes du Québec]:通称QPP)があり、給付内容はほぼ同じ)。財源は、労使が折半して支払う保険料とその運用収入である(自営業者も加入可能)。年金支給開始年齢は65歳である。高齢労働者が60歳から70歳までの期間も保険料を支払い続けた場合に「退職後給付」(Post-retirement Benefit:通称PRB)」が上乗せされる制度が2012年に実施された。
 3階部分は、個人的な私的年金である。税制優遇のついた登録企業年金(Registered Pension Plan:通称RPP)および登録貯蓄年金(Registered Retirement Savings Plan:通称RRSP)などがある。(岩﨑利彦)

ノースウェスト会社(Northwest Company)
現在のカナダに存在した毛皮交易会社。17世紀から19世紀にかけての時代は、主にビーバーの毛皮がカナダの経済的重要性を担い、ヨーロッパ人の関心を集めていた。ヌーヴェル・フランスの時代が終わってイギリス領となった同地に、モントリオールのイギリス系商人たちが合同して1779年に設立したノースウェスト会社は、重要な毛皮交易会社の1つであった。18世紀末には北米北部の毛皮交易の8割近くを扱い、19世紀初頭には1,000人以上の従業員を雇う大会社となって、ライバルのハドソン湾会社を凌駕して優位を保っていた。ハドソン湾会社がロンドンに本部を置いていたのに対して、ノースウェスト会社はモントリオールに拠点を置いた。フランス系のカヌー漕ぎ(ヴォワヤジュール)を大量に雇用し、先住民との親密な関係を許容していた点が、ハドソン湾会社との差異であった。ノーウェスター(Nor’Wester)と呼ばれた同社のエージェントには、1793年にロッキー山脈を越えて現ブリティッシュ・コロンビア州ベラクーラで太平洋岸に達したアレクサンダー・マッケンジーや、1807年にコロンビア川を下って同じく太平洋岸に到達したデイヴィッド・トンプソンら、カナダの内陸地図作りの歴史に貢献した優れた探検家が含まれていた。ノースウェスト会社がハドソン湾会社に敗れ、1821年に合併吸収されてしまった最大の理由は、毛皮交易の主たる現場となっていく現カナダ北西部までのアクセスの悪さであった。イギリスで製造された交易品はモントリオールまで船で運ばれ、そこから長い輸送路で北西部へと運ばれたが、ハドソン湾まで物資を運び込むハドソン湾会社の方が、経済効率に優れていたのである。こうしてノースウェスト会社は姿を消すが、19世紀に毛皮交易の時代から農業の時代へと移行していく過程で、勝ち残ったハドソン湾会社も、その役割を変えていくことになる。(田中俊弘)

ノースウエスト準州(Northwest Territories)
現在のノースウエスト準州は、東部地域がヌナヴト準州として分離独立した1999年4月1日に成立した。その面積は約117万平方キロメートルで、2021年現在約4.5万人が住んでいる。先住民人口は全体の48%程度である。準州都はイエローナイフである。準州の北辺はボーフォート海(北極海)に接し、そこから南下するにつれ広大な亜寒冷森林性タイガ地帯が広がっている。グレートベア湖など多数の湖沼があるほか、全長約4,200キロメートルのマッケンジー河が流れている。準州の基幹産業は、金や銀、ダイヤモンドの採掘と石油・天然ガス開発である。このほか観光業やグレートスレーブ湖でのホワイトフィッシュの商業漁業、先住民の狩猟やワナ猟、工芸品制作などがある。(岸上伸啓)

ノースウェストの反乱(Northwest Rebellion)
1885年、北西部サスカチュワン川流域を舞台とした、ルイ・リエル(Louis Riel)指導のメイティ及びインディアン等による、カナダ政府に対する反乱。1869~70年のレッドリバーの反乱との連続要因が多い。独占的な鉄道運賃、関税保護下の高物価等の西部の一般的不満の上に、メイティに対する土地所有権の不承認、バッファローの激減、わな猟や毛皮交易の衰退、干ばつ・冷害続きによる飢饉等、彼らの生存を脅かす問題が重なった。窮状を訴える度々の請願に対する、連邦政府の無関心さが彼らの怒りを爆発させたと見られている。アメリカ合衆国モンタナから呼び戻されたルイ・リエルがメイティを組織し、インディアンの協力を得て反乱を指導した。政府は、大陸横断鉄道として完成しつつあったカナダ太平洋鉄道を効果的に用い、東部からF・D・ミドルトン(F. D. Middleton)将軍下の7,000余の軍隊を急派し鎮圧に当った。最後にバトーシュ(Batoche)で敗れたリエルは5月15日に降伏、反乱は終結する。しかし、メイティのリエルが、数々の弁護にもかかわらず反逆罪で絞首されるや、それは「フランス系カナダ勢力ヘの宣戦布告であり、権利と正義の侵害である」とする不満が高まった。この事件は、東部カナダをイギリス系とフランス系両勢力の、政治闘争の場と化せしめた契機としても注目される。(江川良一/田澤拓哉)

ノーマン,E.ハーバート(Norman, E. Herbert 1909-1957)
カナダの外交官、歴史家。駐エジプト大使として第一次スエズ危機の解決に尽力したが、マッカーシーの赤狩りの標的とされた心労からカイロで自死した。ノーマンはカナダメソジスト教会の宣教師の次男として長野県の軽井沢で生まれた。トロント大学を経てケンブリッジ大学に進み、ハーバード大学でエリセイエフに学んだ。同期に日本時代の幼友達エドウィン・O・ライシャワーがいた。博士論文はニューヨークの太平洋問題調査会からJapan’s Emergence as a Modern State(『近代国家日本の成立』岩波書店、1953)として出版された。外務省に入ったのは1939年で、東京のカナダ公使館で日本語担当官を務めた。戦後は、カナダ政府の首席代表として着任、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍と緊密な関係を持った。日本に土着的変革思想家はいないのかというマッカーサーの問いかけに応えるようにして完成し、英和両語でほとんど同時に出版されたのが、ノーマン著『忘れられた思想家一安藤昌益のこと』(岩波新書、上下2巻、1950年)である。(三輪公忠)

ノヴァ・スコシア州(Nova Scotia)
カナダ東部、沿岸諸州の一つで、おもにノヴァ・スコシア半島とケープ・ブレトン島(今日では橋で連絡)からなる。陸地面積は約5.3万km2。地形は概して低平で、標高 300m以上の地域はケープ・ブレトン島の北部に限られる。気候は冷涼湿潤で、おおむね北海道北部に類似する。歴史的にはアカディア地方の一部をなす。ノヴァ・スコシアの名称は、1621年にスコットランド人のウィリアム・アレキサンダー卿が、ラテン語で「新スコットランド」を意味するこの名の下に、アカディア地方全体の開発の特許を得たことにちなむ。その後イギリスとフランスの間で激しい勢力争いがあり、1755年にはアカディア人追放の舞台ともなった。1763年のパリ条約によって英領北アメリカの一部を構成する植民地となり、アメリカ合衆国成立後には、そこから多くの王党派の人々が移住してきた。1867年のコンフェデレーションには当初から参加し、今日に至っている。人口は約97万人(2021年)で、近年は大きな増減はみられない。住民の多くは英語を母語とするが、一部の地域にはフランス語を母語とする人々も居住している。特徴的な産業としては水産業がある。州都はハリファックス。(山田 誠)

ハ行

バートン,ピエール(Berton, Pierre 1920-2004)
作家、キャスター、歴史家。ユーコン準州生まれ。31歳で雑誌、Maclean’sの編集長となる。1963年から1973年まで、CTVのテレビ番組であるThe Pierre Berton Showのキャスターを務める(1972年1月放映のブルース・リーの出演した時のものが、日本でDVDとして販売された)。作家としての最初の重要な著作は、1956年のThe Mysterious North。1970年にカナダ太平洋鉄道建設を描いた著作The National Dream、および翌年のThe Last Spikeは、1974年にCBCテレビのミニ・ドキュメンタリー・シリーズThe National Dreamとなった。カナダ総督賞を3度受賞。これを含めて30を超える文学賞を受賞。報道関係の受賞も多数。また、12の名誉学位を授与されている。(岩﨑利彦)

PANCS
アジア太平洋カナダ研究ネットワーク参照

ハイウェイ,トムソン(Highway, Tomson 1951- )
クリー族出身の劇作家、小説家、児童文学作家。マニトバ州北部のインディアン居留地に生まれる。6歳の時、白人同化政策のためのロ-マカトリックの寄宿学校に入れられ、親元から離される。後に白人家庭に里子に出される。早くからクラシック・ピアノに興味を持ち、ウェスタン・オンタリオ大学で音楽と英文学の学士号を取得し、コンサート・ピアニストとしてのキャリアを積んでいく。しかし、都会に暮す先住民の悲惨さを目の当たりにし、ソロピアニストの道を捨て、先住民の社会事業関係で働く。その間、先住民作家と係わり創作を始める。著作の『居留地姉妹』The Rez Sisters(1986)がヒットし、カナダ演劇界に新風を吹きこむ。主な戯曲に『ドライリップスなんてカプスケイシングに追っ払っちまえ』Dry Lips Oughta Move to Kapuskasing(1989)、『アーネスティン・シャスワップがマスを釣る』Ernestine Shuswap Gets Her Trout(2004)。ミュージカル『ローズ』Rose(1999)。『毛皮の女王』Kiss of the Fur Queen(1998)で小説家としてもデビュー。ド-ラ・メイヴァ-・ム-ア賞を2回受賞。1994年にはカナダ勲章受賞。トムソン・ハイウェイが描く世界は、現在の先住民社会の内部世界であり、同時に近代、現代の歴史の検証、将来への希望である。(佐藤アヤ子)

ハイダ(Haida)
ブリティッシュ・コロンビア州のハイダ・グワイ(旧称クィーン・シャーロット島)を主な居住地とする先住民グループで北西海岸文化圏に属する。白人との接触以前から、豊富な海洋資源と森林資源を利用して独自の生活文化を生み出していた。大家族用の厚板造りの大きな家屋に住み、精巧な彫刻と色彩を施したトーテムポールや大型カヌーなどを製作し、仮面ダンスやポトラッチなどの儀式を行なった。19世紀半ばには約8,000人いたと推定されるが、1915年までには天然痘などにより558人に激減し、1996年には3,423人にまで回復した。(富田虎男)

ハイダ・ネーション判決(Haida Nation v. British Columbia, [2004] 3 SCR 511)
先住民族が法的に土地権を立証していなくても、その土地で開発等を行うには、連邦政府は先住民族と事前に協議し便宜を図る義務があるとした最高裁判決。土地権を含む先住民族の権利をめぐって従来から訴訟で争われてきたが、裁判には時間がかかり、その間に先住民族の権利の侵害や消滅をもたらすこと、権利の立証には高いハードルがあること等が指摘されてきた。最高裁はこうした問題に対処するために、Van der Peet判決が示した「調和」の観念を強調し、「国王の名誉」を根拠に、先住民族と協議し便宜を図る義務を導き出した。ただし、この義務は先住民族に拒否権を与えるものではなく、対立する利益を衡量し妥協を図るものとされる。
協議の義務の程度は場合によって異なる。権利の請求が弱く、先住民族の権利が侵害されており、侵害の可能性が小さいときには、政府は先住民族に告知し、情報を公開し、告知に対する応答の中で提起された何らかの論点を論議するだけでよい。それに対し、請求が強固で明白に確定されており、先住民族に対する侵害の可能性が非常に重大で、補償することができない損害を与える危険性が高い場合には、満足のいく暫定的な解決を見出すことを目的とする、強度の義務が要求される。この場合は、状況によって異なるが、検討事項を提出する事項を提出する機会、意思決定プロセスへの正式な参加、先住民族の懸念を考慮し、当該決定が与える影響を証明する理由づけを成文化した文書の提出を含む可能性がある。この義務は連邦政府だけでなく州政府にも課せられるが、私人には課せられない。その後、この法理はカナダと先住民族が締結した条約に基づく権利(条約上の権利)にも及ぶことが明らかにされた。(守谷堅輔)

ハイド・パーク協定(Hyde Park Declaration)
1941年4月にニューヨーク州のハイドパークにて締結された加米間の経済協定。1930年代のカナダの経常収支は、膨大な対米貿易赤字を対英黒字で相殺するかたちとなっていた。しかし、1938年にイギリスが通貨交換性を停止したことに加えて、1939年9月の第二次世界大戦の開戦によって、イギリス向け軍需品生産のための原料、資材のアメリカ合衆国からの輸入が増加し、対米貿易赤字が激増することでカナダは深刻な金・ドル不足に陥った。こうしたカナダの外貨不足を改善することに寄与したのが、1941年3月にアメリカで施行された武器貸与法であり、これによってアメリカは当時中立国であったものの、連合国に対して当座の米ドルの支払い無しで、軍需品や関連資材の供給が可能となった。他方で、武器貸与法はカナダでの対英軍需品輸出を減少させ、アメリカの対英輸出を増加させることでカナダ産業を停滞させるのではないかという懸念も生じた。こうした懸念を払拭し、武器貸与法を補完すべく、武器貸与法施行の1か月後の1941年4月にカナダ首相W・L・M・キングとアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトの間で締結されたのが、ハイドパーク協定である。これによって、カナダはアメリカからの軍需物資を輸入する一方で、アメリカに対してアルミニウムをはじめとする一次産品やカナダで生産される軍需品の輸出を行うことが取り決められた。これに加えて、カナダで製造されるイギリス向け軍需品に投入されるアメリカ製部品の輸入代金の支払いが直接イギリスに請求されることになった。ハイドパーク協定は、武器貸与法と共にカナダの対米貿易赤字の改善や経常収支の安定、金・ドル準備高の増加に貢献する一方で、加米経済関係のますますの緊密化によってカナダ経済の対米従属化を加速させる要因の一つともなった。(福士純)

ハウ,ジョセフ(Howe, Joseph 1804-1873)
カナダのコンフェデレーション(連邦結成)前後の時期にノヴァスコシア植民地・州で活躍したジャーナリストであり政治家。『ノヴァスコシアン』紙を買い取ると、それを州の代表的な新聞に育て上げた。同紙の政治家批判の記事が1835年に「文書煽動罪(seditious libel)」で訴えられた時には、報道の自由を訴えて無罪を勝ち取り、衆目を集め、その翌年の1836年、政界に進出した。連合カナダ(現在のオンタリオ州とケベック州)よりもノヴァスコシアが先に責任政府を勝ち取り、内政の自治権を得たのは、ハウの手腕によるところが大きい。1861年から1863年にかけては植民地首相を務めた。連邦結成に対しては、それが市民の賛同を得ずに進められており、また、彼自身が目指す大英帝国像とも合わないとして反対派の先頭に立ったが、ノヴァスコシアが連邦結成に参加するのを止めることは叶わなかった。その後、すでに州となっていたノヴァスコシアへの助成金の約束を得て、1869年に反対を取り下げて枢密院議長として入閣した。1873年にはノヴァスコシア州総督に任ぜられたが、その後間もなく亡くなっている。(田中俊弘)

バッドランド(Badland)
乾燥ないし半乾燥の気候条件と、風化や流水による侵食に弱い地質・土壌条件をともに備えた地域でみられる独特の自然景観で、深い溝をもつ急斜面が特徴的である。地学上はこのような一般的術語として用いられ、北アメリカ西部以外に中国・地中海沿岸などにも存在が確認されているが、カナダではアルバータ州南部のレッドディア川流域を指す固有名詞としても用いられる。ここは、恐竜化石が多く出土する場所として著名である。なお語源は、西部探検に訪れたフランス人が、歩行・騎行に困難をきたしたことからterre mauvaise(「悪い土地」の意)と名付けたことによるという。(山田 誠)

ハテライト(Hutterites)
フッターライト 参照

ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company)
ハドソン湾会社は1670年にチャールズ2世よりルパーツ皇子と17名の投資家が特許を得た株式会社であり、ハドソン湾に面した広大なテリトリーでの独占的な交易権を始めとする幅広い権利を与えられていた。 1763年のパリ条約以降、フランスのライバル会社がいなくなったため、毛皮貿易において絶対的な地位を獲得した。もともとこの会社の利害は毛皮貿易にあったことから、毛皮生産とは相入れない農業植民は阻止され続けた。コンフェデレーション成立後、ハドソン湾会社は1870年に広大なルパーツランドをカナダ政府に譲り渡し、30万ポンドとその肥沃地帯の土地の20分の1とを受け取った。本国政府に代わって西部を管理してきたハドソン湾会社の役割はこれで終わり、その後は西部カナダの最も重要なデベロッパーの1つとして発展していくことになった。同社は資源開発を始め多くの分野で事業を展開しており、特に流通業においては現在もカナダ最大の小売企業グループを形成している。(加勢田博)

パピノー,ルイ・ジョセフ(Papineau, Louis Joseph 1786-1871)
ロワー・カナダの改革者。仏系が中心のロワー・カナダ植民地議会の指導者として1815年以降議長を務め、英系商人に支配された寡頭政治に対抗し、政治制度の改革を求めた。しかし、1830年代以降急進化し、アメリカ式の選挙制立法評議会を要求した。これが英政府に拒否されると、政治的危機は深まり、1837年11月23日、モントリオールから40kmのサン・ドゥニで、反乱軍とイギリス軍の間で小競り合いが起こった。しかし、騒ぎが大きくなるのを恐れたパピノーは、すぐ合衆国に亡命した。パピノーはリベラルで共和主義者と主張したが、自ら領主でもあり、仏系カナダの農業経済の基盤である領主制を擁護し、経済的には保守的であった。指導者であるパピノーの逃亡により、反乱は直ちに鎮圧され、1年後に終結した。パピノーは1844年に恩赦を受け、翌年自らの領地に戻った。1848年には連合カナダ植民地議会に選出されたが、かつてのような影響力はなく、1854年政界を引退した。(木野淳子)

ハーパー、スティーブン (Harper, Stephen Joseph, 1959-)
1959年トロント生まれのカナダの元首相。2004年より保守党党首を2006 年から2015年まで第22代カナダ首相を務めた。トロント大学を中退後、エドモントン大学・同大学院で経済学を学んだ。カナダ史上ハーパーほど何度も支持政党を変え、首相となった政治家はいない。高校時代は自由党系のヤング自由党クラブに所属していたが自由経済論を信奉していたためP・トルドー政権の政府による市場介入型のナショナル・エネルギー・プログラムに反対し、離脱した。1985年に自由党の政敵である進歩保守党の連邦下院議員J・ホークスの下で働いたが、同政党のB・マルルーニー連邦首相の経済政策に反対し間もなく辞職した。地方保守党「改革党」の党員となり、1993年に同党推薦として連邦下院選挙に出馬し、初当選した。しかし所属する改革党とも意見が合わなくなり、1997 年1月に議員を辞職し、ナショナル市民連合(NCC)に入党。同年その党首となった。2000年に革新党の再編成で誕生したカナディアンアライアンス(CA)の党首選挙の直前に、CAに入党し、2002年の党首選挙で勝利し、補欠選挙で連邦下院議員に復帰した。間も無くCAと進歩保守党の合併による保守党の党首に選ばれたが2004年の選挙では99議席しか獲得できず野党党首となった。2005年に自由党政権の「スポンサーシップ疑惑」を巧みに利用し、P・マーティン自由党政権の内閣不信任案を通過させ、2006年と2008年の選挙では少数連立政権を樹立した。予算関係の明示の欠如等などで国会侮辱罪でハーパー内閣の不信任案が可決されたが2011年の選挙では逆に166議席を獲得、初めて単独政権を樹立した。
 ハーパー政権は対外的には米国寄りで、カナダ軍のアフガニスタン駐留の延期を決定した。内的にはケベック独立運動を緩和するため2006年末、ケベック州の人々をカナダ連邦内の”Nation”と認める法案を可決し、保守党の支持者を増やそうとした。社会政策は保守的でLGBTや同性婚の合法化や回教徒の難民受け入れに難色を示したが、経済的には市場の論理を重視し、減税やEUとの自由貿易協定やTPPに批准し、自由経済政策を推進した。が、批准した。だが京都議定書は非現実的だとして軽視し、避難を浴びた。経済に強いはずのハーパー政権は石油の価格の低下などにより財政赤字の他、経済低迷が続き、景気が悪化し、これが大きな原因となり、2015年の選挙でJ・トルドーの率いる自由党に惨敗した。が保守党としては初代のJ・マクドナルド政権以来の歴史的長期政権を維持した。(水戸考道)

バフィン島(Baffin Island)
バフィン島は、カナダ極北地域の東部にある島。その名前は、1616年に同島の沿岸を探検した英国人ウィリアム・バフィン(William Baffin)にちなんで19世紀に命名された。同島の面積は約50万?で、カナダで1番、世界で5番目に大きな島である。バフィン島には大自然が残っており、周辺の海域にはシロイルカやイッカク、セイウチ、ホッキョククジラ、アザラシ類が多数生息している。現在、同島は1999年に成立したヌナヴト準州の東部地域を占めており、準州都のイカルイトやイヌイット・アートの制作地として有名なケープドーセット(キンガイト)など8の市町村(うち1つは無人)が存在している。同島の人口の8割以上はイヌイットである。(岸上伸啓)

ハミルトン(Hamilton)
オンタリオ州の工業・港湾都市で人口約57万人、都市圏人口は約79万人である(2021年)。オンタリオ湖西端に位置する交通の要点で、1813年に町が建設されて以来、水上・陸上交通の要衝となった。19世紀後半から製鉄業が盛んとなり、カナダのピッツバーグといわれるようになった。電子機器や食品加工などの工業も行われている。1887年創立のマクマスター大学の所在地で、文化機能も高い。(正井泰夫)

パリ講和条約(1763)
北米でのフレンチ・アンド・インディアン戦争を含む七年戦争を終結させた条約。この条約によって、イギリスはフランスからケープ・ブレトン島とミシシッピ川以東のヌーヴェル・フランスを、スペインからフロリダを割譲された。フランスはミシシッピ川以西のフランス領をスペインに割譲し、ニューファンドランド沖の漁業権やセント・ローレンス湾の漁業の基地、サンピエール、ミケロン島の領有のみを得て、北アメリカ大陸におけるイギリスの覇権が確立した。またイギリスは新たに獲得したセント・ローレンス川流域のフランス領をケベック植民地と命名し、同植民地に対し同化策を採ったが成功せず、ケベック法(1774)で修正されることとなる。(木野淳子)

ハリケーン・ハゼル
1954年10月5日にカリブ海で発生したハゼルは、ハイチやアメリカ東部諸州に大きな被害をもたらし、15日にはカナダ南東部に達した。カナダでの被災面積は30,000?、死者数81名、家を失った世帯数4,000、被害金額1億3,755万加ドル(当時)と、史上最悪な災害のひとつとして、今も語り継がれている。河川の氾濫により、氾濫原に住む貧困層の被害が特に深刻であった。これを契機に、社会改良的な地域政策や都市政策が展開されるようになり、流域の開発規制や防災計画を織り込んだ地域計画や都市計画の策定が進んだ。2004年には、「ハゼル50周年集会」がトロントで催され、同市ハンバー川岸に、記念碑が設置された。(藤田直晴)

パリ条約(1783)
イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認した条約。これにより合衆国は、北は五大湖から南はジョージア南境まで、西はミシシッピ川に至る広大な領土の領有権を得たが、1763年の国王宣言でイギリスが先住民領域とした土地も含まれていた。合衆国はさらにニューファンドランド周辺の漁業権を得たかわりに、王党派(ロイヤリスト)の処罰の停止と没収財産の返還を各邦に説明することを約した。(木野淳子)

ハリス,ローレン(Harris, Lawren 1885-1970)
カナダを代表する英語系の画家。オンタリオ州の裕福な家の出身。1920~31年にかけ、カナダの大自然を強いカナダ人意識をもって描いた風景画家たちを「グループ・オブ・セブン」というが、その代表的人物の一人がハリスである。3年間ベルリンでの美術留学後、訪れたオンタリオ州のアルゴマ地方(オンタリオ州)の自然風景に魅せられ、後に仲間とともにカナダ独自の風景画世界を築きあげる。その底流には、ヨーロッパと異なる独自の美的表現の追求にあった。当初は具象画を描いていたが、1930年代以降ロッキー山脈や雪と氷に被われた北方の景観を主なモチーフとし、抽象画へと変貌していく。信仰深い両親の影響もあって神智学にも惹かれ、自然を神秘世界の表現ととらえ、その画風は幾何学的な抽象画へと発展していく。代表作に「北岸、スペリオル湖」(1926)など。(竹中豊)

パリゾー、ジャック (Parizeau, Jacques 1930-2015)
ケベック州の政治家。第26代ケベック州首相(1994-1996)。1930年モントリオール生まれ。モントリオール高等商業学校やパリ政治学院で学び、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学の博士号を取得した。カナダ帰国後は、モントリオール高等商業学校の教員を務めるかたわら、「静かな革命」期のケベック自由党政権の経済顧問として、電力事業の州有化やケベック貯蓄投資公庫などの政策の形成に関わった。ケベックの主権独立に強い共感を抱き、1969年にケベック党に入党し、1976年の州選挙で州議会の議席を獲得した。ルネ・レヴェック政権においては、財務大臣(1976-1984)を務めたが、1984年にレヴェックが「主権・連合」構想を党の公約から外そうとしたことに抗議し、財務大臣を辞任し、ケベック党からも脱退した。レヴェックの死後、1988年にケベック党党首に選出されると、1994年に州政権を獲得した。州議会選挙の公約であった主権独立の州民投票の実施に際しては、ケベック連合のルシアン・ブシャール党首の意見を受け入れ、カナダとの経済的・政治的連携を伴う「主権・連携」構想を提示した。州民投票は反対派に僅差で敗れるが、選挙後に敗因が金とエスニック票であると発言したことで、ケベック党内や州民からの批判を受け、党首を辞任し政界を引退した。2015年逝去。(荒木隆人)

ハリファックス(Halifax)
ノヴァ・スコシア州の州都で二つの大陸横断鉄道の起点でもあった。イギリス風の伝統をもつ美しい港町。深い湾入をもつ不凍港はヨーロッパにいちばん近い商港であるとともに北大西洋漁業の最大の基地でもある。1749年、フランス軍に対抗するためイギリス軍が要塞をおいたのがはじまりで、町の中心部の丘上にある星型の旧要塞シタデル(Citadel)は1828年から30年余をかけて築いたもの。五稜廊の設計との関連から函館市と姉妹都市提携が結ばれている。(大島襄二)

バルフォア宣言(Balfour Declaration)
1926年に開催された帝国会議に提出されたイギリス本国と自治領(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、ニューファンドランド、アイルランド自由国)の関係性を定義した報告書。自治領は、第一次世界大戦中からイギリスへの支援の引き換えに帝国政策に対する発言権の強化を求めていた。こうした自治領の自立に対する意識の高まりを背景に、1926年の帝国会議にて帝国内における自治領の地位をどう定義するかがイギリスの元首相バルフォア卿の下で議論された。この議論において、帝国内にて独立国に相応する地位を求める南アフリカ、アイルランドと過度な分権化を望まないオーストラリア、ニュージーランドの間で激しい対立が見られた。しかし、帝国内での自治強化とイギリスとの紐帯維持の両方を訴えるカナダ首相キングは、バルフォア卿を支えて自治領間の意見の調整に尽力した。議論の結果、イギリスと諸自治領の関係は、「イギリスと諸自治領は、地位において平等であり、国内あるいは対外問題のあらゆる点において互いに従属せず、国王に対する共通の忠誠心で結ばれ、ブリティッシュ・コモンウェルスの構成国として自由意志によって協調していくイギリス帝国内の自治共同体である」と定義され、この報告書をもってイギリスと自治領との間の平等が明文化されることとなった。(福士純)

バンクーバー (Vancouver)
ヴァンクーヴァー参照

バンティング,フレデリック・G(Banting, Frederick Grant 1891-1941)
F. G. バンティング(Frederick Grant Banting、1891−1941)は、1891年11月14日オンタリオ州アリストンに、英国系カナダ人のメソジスト派の家庭の末子として生まれた。地元の高校を卒業後、当初はトロント大学で神学を学ぶも、途中で専攻を医学に変更。1916年、第一次世界大戦による繰り上げ卒業の後、カナダ軍の医療班のメンバーとして欧州で従軍した。戦後、トロント大学の外科学教室で研鑽を開始するが職を得られず、ロンドン(オンタリオ)で一般内科外科を開業するも今度は経営が振るわず、1920年からウェスタン・オンタリオ大学で非常勤として生理学の講義を担当することになった。開業中に得た膵臓から分泌される物質に関するアイデアについて、上司F.R.ミラー教授の勧めに従い、1921年よりトロント大学のマクラウド教授の指導下で研究を進めることになる。結果、アシスタントの医学生ベスト(Charles Herbert Best、1899-1978)らと共にインスリンを発見し、それまで治療法のなかったインスリン依存型の糖尿病に対し、劇的な治療効果をあげた。この功績により、フレデリック・バンティングと指導教授のJ・J・R・マクラウド(John James Rickard Macleod, 1876-1935)は、1923年、ノーベル医学生理学賞を受賞、これに伴いカナダ政府から生涯にわたる生活保障を授与される。国内外の数多くの医学会に会員として迎えられ、1934年には英国王室より騎士の称号を与えられた。第2次世界大戦では英国と北米の医療連携を担当し、その任務による移動中の飛行機事故のため、1941年にニューファンドランドでその生涯を終えた。
 2006年12月の国連総会で「糖尿病の全世界的脅威を認知する決議」が採択され、あわせて国際糖尿病連合と世界保健機関が実施する「世界糖尿病デー」(11月14日)がフレデリック・バンティングの誕生日を記念して定められた。ロンドン(オンタリオ)にあった彼の住所兼診療所は現在、その業績をたたえる記念館「バンティング・ミュージアム」として公開されている。(内野三菜子)

PANCS 
アジア太平洋カナダ研究ネットワーク 参照

バンフ国立公園(Banff National Park)
カナダのロッキー山脈の東の裾野を中心に南北240kmに広がる総面積6,640km2の国立公園。カナダで最初の国立公園であり、年間300万人以上が訪れるカナダ屈指の観光地。カルガリーの西128kmにある人口約8千人(2021年)のバンフを中心に、レイク・ルイーズ、ボウバレー、カナナスキス等の観光地を含む。1885年にバンフに沸き出た温泉を公共の財産として管理するために4haの土地が国有地の指定を受けたことに始まり、1887年にロッキー山脈公園保護地区として拡大され、1930年に今日の形でバンフ国立公園の指定を受けた。岩肌の見える山岳地帯、氷河、U字谷、裾野に広がるマツ、エゾマツ、トウヒなどの森林地帯(タイガ)にその風景は象徴され、ムース、エルク、アメリカクロクマ、ハイイログマ、オオツノヒツジ、クーガー、オオカミを始め、数多くの動物が生息する。園内には、1,100kmのハイキングルートやキャンプ場が整備され、冬にはスキーを楽しむことができる。現在は、近隣の国立公園とともに、世界遺産に登録されている。(広瀬孝文)

ピアソン,レスター(Pearson, Lester Bowles,“Mike” 1892-1972)
カナダの元首相・外交官。メソジスト教会の牧師の息子として1897年にオンタリオ州ニュートンブルックで誕生、第一次世界大戦時にギリシャや英国で従軍する。ロンドンで交通事故に遭い、帰国後、トロントのビクトリア大学を1919年に卒業し、奨学金を得てオックスフォード大学で進学した。最初の職はトロント大学の歴史の講師であったが、間も無くカナダ外務官として転職した。外交の才能が認められ1935年に駐英カナダ大使館の1等書記官として再度渡英し、ヒットラーの台頭するヨーロッパにおいて集団安全保障の重要性を強く認識した。1941年帰国後、翌年より駐米公使、1945年には駐米大使を務めた。国際連合の設立会議にも参加した。翌年、M・キング首相に外務次官に任命され帰国した。カナダのNATO加盟などで尽力したが1948年に首相より外務大臣に任命され、外務省の職員を辞任した。その後、政治家として連邦議会下院議員に選出され、外務大臣として朝鮮戦争時カナダ軍を国連軍へ動員すると共に国連総会のプレジデントとして活躍した。が、外交面での偉大な活躍はスエズ危機時における国連平和維持軍の設立の提言とその活用による平和的解決であった。この功績によりピアソンはカナダ人として初めて1957年にノーベル平和賞を受賞した。が、その際英国側に立たなかったという批判を受けてサンローランの自由党政権は倒れ、それに代わってJ・ディーフェンベーカー保守政権が樹立した。1958年に自由党の全国大会でP・マーティンを破り党首となったが、その後実施された連邦下院選挙では265議席のうち49議席しか獲得できず、自由党は野党として大きな困難に直面した。徐々議席を拡大し1963年の選挙で自由党は128議席を獲得し、連立政権を樹立したが、ケベックの独立運動などに遭遇した。1967年に引退を表明するまで国民年金制度や普遍的健康保険制度の設立あるいは白地に赤の楓の斬新な国旗の制定など数々の歴史的偉業を成し遂げた。(水戸考道)

ピーターソン,オスカー(Peterson, Oscar 1925-2007)
モントリオール出身の世界的なジャズ・ピアニスト。1925年8月15日、カリブ海からの移民の家庭に生まれる。幼少よりピアノを習う。1940年にカナダ放送協会のコンテストで優勝して以降、ラジオ番組でピアノを弾いていたところ、米国の興行主ノーマン・グランツに見出され、1949年にニューヨーク・デビュー。グランツ率いるジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)に所属して全米各地で演奏して地位を築いていった。目覚ましい技巧とスイングの利いた豪華な演奏で人々を魅了。1953年初来日。レコード多数。『カナダ組曲』『アフリカ組曲』などの作品もある。2007年12月23日、ミシサガで没。1973年、カナダ勲章オフィサー、1980年、同コンパニオン。(宮澤淳一)

ビーバー
かつて西ヨーロッパ人が南米に惹きつけられていったのが金銀だとすれば、カナダの場合、それに相当するのが豊富な毛皮動物の存在だった。とりわけ青年期の“冬物”のビーバーがもっとも高い価値で取引された。ビーバーはカナダの湖沼河川をもつ森林地帯に多く生息する。ヨーロッパ人が北米に到来する以前、約1千万匹いたとも推測される。その皮からつくられた良質のフェルト帽は、ヨーロッパの王侯貴族や富裕商人にとり、富・権力など「地位の象徴」となっていた。おのずと、カナダにとってのビーバーとは、ヌーヴェル・フランス時代およびその後のイギリス植民地時代を通し、「富と繁栄」に連なる動物であった。「ビーバーがカナダ史を開いた」ともいわれるが、それは決して誇張ではない。1851年のカナダ初の切手にはビーバーが大きく描かれている。そして1975年、カナダ政府は、ビーバーをカナダのナショナル・アニマルと指定した。(竹中豊)

ビール(Beer)
厳選された国内産麦芽用大麦を使用したビールは、苦味が少なくすっきりしたのどごしのものが多い。現在、国内の主要ビール会社は外国資本もしくは世界的な飲料品会社に統合されたものかのいずれかである。1786年にモントリオールで創業し、カナダで2番目に古い企業のモルソン社は2005年に米国クアーズ社と統合し、国内シェア首位のラバット社は、1995年にベルギー最大手のインターブリュー社に買収された。国内シェア3位のスリーマン社は日本のサッポロの傘下にある。一方、カナダには小規模ながら多くの優れた地ビール醸造所があり、環境に配慮した製法や地元とその周辺に向けたビール造りが行われている。(宇都宮浩司)

ビクトリア(Victoria)
ヴィクトリア参照。

ビッグ・ベア(Big Bear 1825-1888)
平原クリーの有力首長。クリー名ミスタヒマスクワ。1876年にカナダ政府の先住民統合政策の一環である「第六条約」への署名を拒否したが、白人入植者の急増、バッファローの減少による飢餓によりカナダ西部の先住民集団は存亡の淵に追いつめられ、1882年にやむなく条約に署名した。このためクリー内での発言力が弱体化し、息子リトル・ベアを含む若き戦士たちを中心とする勢力が主導権を握り、平原クリーは1885年のメイティによる「ノースウエストの抵抗」に加わった。ビッグ・ベアは平和的解決の道を模索したが、抵抗の鎮圧後、首謀者のひとりとしてカナダ政府から裁判にかけられ、禁固3年の刑を受けた。服役中病を得て2年で釈放されたが、その後間もなく病没した。息子リトル・ベアは合衆国モンタナに逃れ、ロッキー・ボーイズ・インディアン保留地の指導者となった。(富田虎男・岩﨑佳孝)

ヒューイット,アンジェラ(Hewitt, Angela 1958- )
カナダを代表するピアニスト。1958年7月26日、オタワ生まれ。トロントのロイヤル音楽院やオタワ大学で学ぶ。1978年のヴィオッティ国際音楽コンクール優勝など各地のコンクールに入賞したが、1985年の第1回グレン・グールド記念トロント国際バッハ・ピアノ・コンクール優勝が決定的となる。以来、英国ロンドンを拠点に活発に国際的な演奏会活動と録音活動を行う。来日公演多数。バッハ演奏が特に定評があるが、レパートリーは幅広い。2000年、カナダ勲章オフィサー。2006年、大英帝国勲章。(宮澤淳一)

ヒューストン,ナンシー(Huston, Nancy 1953- )
アルバータ州カルガリー生まれ。小説家、文学者。15歳のときアメリカに移住。大学卒業後、1973年パリに渡りロラン・バルトに師事し博士論文を執筆。文芸評論家ツヴェタン・トドロフと結婚しパリに在住。英語とフランス語の両方で多数の作品を発表する。1993年に、当初英語で執筆した小説を、自らフランス語で翻訳し発表した『草原賛歌』(Cantique des plaines)がカナダ総督賞(フランス語部門)を受賞したが、その正当性をめぐって議論となる。2006年に『時のかさなり』(Lignes de faille)でフランス文学界の栄誉であるフェミナ賞を受賞。その他、数多くの小説を発表する。フェミニズムにも強い関心を持ち続け、出産と創造のテーマを重ね合わせたエッセイ『愛と創造の日記』(Journal de la creation, 1990)など多くのエッセイを発表している。小説やエッセイなどいくつもの作品が日本語に翻訳されている。(真田桂子)

氷河 (Glacier)
現在は北極海諸島の一部とロッキーの高山(最大はコロンビア氷原)に氷河はみられるにすぎないが、地質年代で現世より一つ前の洪積世の氷期にはカナダのほぼ全域が氷河に覆われた。ハドソン湾に中心をもつ大陸氷河が合衆国中西部まで広がり、ロッキー・海岸山脈には山岳氷河が発達して、東西に流れ下っていた。その後の気候温暖化で氷河は退いたが、その影響は地形や土壌などに今も強く残る。例えば移動する氷河に削られたカナダ楯状地では堅い岩盤が露出している。グレートベア湖から五大湖へ連なる湖沼群は氷河が掘りくぼめた低地に水をたたえる氷河湖で、伸張した大陸氷河の末端近くを示す。この湖沼帯を迷走する水路や排水不良の低地も氷河の置きみやげである。後退する氷河が残した堆積地は石が多く、農耕に向かない。ロッキーの山岳氷河も後退した氷河の谷にルイーズ湖やエメラルド湖などの氷河湖を残している。(島田正彦)

標準時 (Standard Time)
東西に広いカナダでは、六つの標準時が使用されている。東から、大西洋標準時(Atlantic, ハリファックス等)、東部標準時(Eastern, トロント等)、中部標準時(Central, ウィニペグ等)、山岳地帯標準時(Mountain, カルガリー等)、太平洋標準時(Pacific, ヴァンクーヴァー等)の五つが主要なもので、東の大西洋標準時で日本より13時間遅れ、そこから西へ行くにつれて1時間ずつ時差が広がり、太平洋標準時は17時間違いとなる。ただし、最東端の大西洋標準時より30分早いニューファンドランド標準時を採用している。多くの州では、デイライト・セイヴィング・タイム、いわゆるサマータイムを採用しており、3月第2日曜日に1時間進め、11月第1日曜日に1時間戻す。ただし、夏季は山岳地帯標準時、冬季は太平洋標準時を採用するユーコン準州のように、年間を通じて時間を変えない州・準州や地域も存在する。(大島襄二・大石太郎)

ファースト・ネーションズ(First Nations)
かつて「インディアン」と呼ばれていた先住民は、現在ではファースト・ネーションズと呼ばれている。1982年憲法ではカナダの先住民とはインディアンとメティス(メイティ)、イヌイットであると規定されている。インディアンとは多様な先住民族の総称である。彼らは、英国政府やカナダ政府と土地に関する条約を締結しているかどうかによって公認インディアンと非公認インディアンに分けられ、前者にはインディアン法(1876年制定)が適用されている。2016年のカナダ先住民の総数はおよそ167万人であるが、ファースト・ネーションズ(インディアン)は約74万5千人(約60%)であり、その60%が故地であるリザーブを離れ、都市で生活している。(岸上伸啓)

ファミリー・コンパクト(家族盟約、Family Compact)
アッパー・カナダ植民地期の特権的支配層に対する呼称。同植民地の事実上のトップである初代副総督ジョン・シムコーが王党派(ロイヤリスト)を近習として抱え、政治ポストや土地を与えたのが始まりとされる。後には、王党派の子孫や新たに到来したイギリス移民の保守派が、植民地副総督と結託して、行政評議会と立法評議会を牛耳り、彼らが関与する商業活動の振興やイギリス国教会の国教化を進め、政治・経済・宗教など多方面で特権を享受した。1830年代、改革派の台頭で徐々に影響を失ったが、非アメリカ的で保守的な社会の形成に寄与したとされる。行政評議会、立法評議会のメンバーを兼任したイギリス国教会主教ジョン・ストローンは、代表例である。(細川道久)

フィンドリー,ティモシー(Timohy, Findley 1930-2002)
カナダの代表的な作家・劇作家。1930年10月30日、トロント生まれ。高校を中退し、俳優として国内外の舞台に立つが、1962年に作家に転身。1977年、3作目の長篇小説『戦争』The Warsを出版。第1次世界大戦に従軍したカナダ人青年将校の悲劇を証言や記録の断片から再構成していくポストモダン的な手法でまとめたこの作品は国内外で評判となり、同年のカナダ総督賞を受け、映画化もされた。その後も多くの小説や戯曲を発表。戯曲に『エリザベス・レックス』(2002年)など。1986年、カナダ勲章オフィサー。1996年、フランス文化勲章シュヴァリエ。2002年6月20日、フランス、プロヴァンスの自宅で没す。(宮澤淳一)

ブーラサ,アンリ(Bourassa, Henri 1868-1952)
ケベックの政治家、および言論人としてモントリオールの有力紙『ル・ドヴワール』(Le Devoir)の創刊者。22歳で市長として政界入り。1896年から1935年まで断続的だがカナダ自由党議員として選出され、連邦議会下院議員も勤める。その間の1908~12年までは政治活動を州議会に移し、ケベック・ナショナリズムの擁護に邁進する。第一次世界大戦中の徴兵制には反対の立場をとった。1910年に同新聞社を創刊。思想的には近代社会の脅威に対抗し、アメリカ資本の導入に反対。伝統的なカトリック的価値観擁護の立場をとる。祖父は1837年ロワー・カナダでの反乱指導者ルイ・ジョセフ・パピノー。(竹中豊)

ブーラサ,ロベール(Bourassa, Robert 1933-1996)
元ケベック州首相(在任1970-76、および1985-94)。前職は大学教師。1966年にケベック自由党から政界入りし、弱冠36歳で州首相に就任。だが政権内部の腐敗とケベック党の台頭で1976年の州総選挙で敗北、いったん政界を退き、ヨーロッパの大学での学究生活に入る。だが1983年、ケベック自由党党首として返り咲き、政界復帰を果たす。1985年の州総選挙で勝利し、州首相に再任される。政治姿勢としては連邦主義者だが、ケベックの独自性を強く主張する立場をとる。ケベックのカナダからの分離志向には反対で、ケベック党とは鋭く対立した。(竹中豊)

フェロン,ジャック(Ferron, Jacques 1921-1985)
物語作家。ラバル大学で医学を学び医師となる。1943年から1945年までカナダ軍の兵役につき医療部隊で働く。その後、ガスペジーの僻地に勤務し、1946年からはモントリオールの下町で医師として働く。その頃に採集したケベックの土着の民話をもとに、コントと呼ばれるおとぎ話風の短編を次々に発表する。『パルティ・プリ』や『リベルテ』などケベックを代表するフランス語系文芸誌や、主要なフランス語系日刊紙『ル・ドゥボワー』などに多数の作品を寄稿する。フェロンの作品は素朴で無邪気な作風の裏側にしばしば痛烈な皮肉が込められており、ファンタジーにケベック社会への鋭い風刺を織り混ぜた独特の作風を切り開いた。代表作の一つは『不確かな国の物語』Contes du pays incertain(1962)で同年のカナダ総督文学賞を受賞する。その他『イギリス風架空譚』Contes anglais(1964)、『野ばら』 Les roses sauvagesなどの作品を発表し数々の賞を受賞する。政治にも関心を示し1964年には「犀党」を結成し活動する。1972年には自ら絶筆宣言を行い、その後創作から遠ざかった。1977年にはフェロンのそれまで創作活動を称えアタナール・ダビッド賞が授与された。(真田桂子)

フォークロラマ(Folklorama)
フォークロラマは、1970年にマニトバ州制100周年の記念行事として開催されて以来、定期的に開催されている年中行事であり、同時に、年間を通じた出張イベントでもある。年中行事としては毎年8月の2週間に渡り、ウィニペグ周辺の各エスニック・コミュニティによる食、歌や踊り、そして、展示を見たり体験することができるイベントとしてウィニペグで開催される。現在では、来訪者数が多いマニトバ州屈指の年中行事となっている。フォークロラマの焦点は、ウィニペグが有する文化的多様性であり、参加するエスニック・コミュニティも地元の先住民から、ヨーロッパ系、アジア系、そして、中南米系など、とても様々である。2020年は新型コロナウイルス拡散の影響を受けて行事自体が中止となったものの、2021年は3日間のオンライン配信イベントとして開催された。フォークロラマは文化的多様性の尊重だけでなく、州内の多文化の理解の向上も目的としていることもあり、年間を通じて教育や職場、そして、家庭といった様々な行事でのパフォーマーによる出張公演も行っている。特にウィニペグを拠点とするNHLのプロアイスホッケーチームのウィニペグ・ジェッツの試合前の前座も実施しており、観客を楽しませるだけでなく、マニトバの文化的多様性の伝道的な存在にもなっている。(山田亨)

フォックス,テランス(テリー)(Fox, Terrance Stanley “Terry” 1958-1981)
癌研究の基金を募る目的で、片足義足でカナダの大陸を横断する「希望のマラソン(Marathon of Hope)」を企画・実行した人物。2004年に「最も偉大なカナダ人」を選ぶCBCテレビの企画が放送され、視聴者から120万もの票が投じられたが、その結果、「カナダ国民皆保険の父」と称される政治家トミー・ダグラスに次いで2位にランクインしたのがフォックスであった。スポーツ好きの少年はサイモンフレーザー大学(BC州)在学中の1977年に骨肉腫で片足を切断することとなるが、そこで挫けず、自分が義足で走ることで募金を集めるチャリティを思いつき、実行に移した。1980年4月12日にニューファンドランド州セントジョンズを出発して、太平洋岸を目指して西に走り出したのである。毎日フルマラソンの距離に相当する42キロを走り大陸を踏破する企画は、テレビでも中継されて国民の注目を浴びた。143日目の同年9月1日にオンタリオ州サンダーベイまで到達していたが、癌が肺に転移しており、マラソンは予定の約8,000キロ中5,373キロ走ったところで中断せざるを得なくなった。彼は間もなく23歳で亡くなるが、1981年までに2,400万カナダドルの寄付を集めた。そして彼の死後も、カナダの各地で、あるいは他国でも、毎年9月には「テリー・フォックス・ラン」というマラソン行事が行われており、彼が始めたチャリティは継続している。(田中俊弘)

フォレスター,モーリーン(Forrester, Maureen 1930-2010)
カナダを代表するコントラルト歌手。1930年7月25日、モントリオール生まれ。スコットランド系の父、アイルランド系の母の貧しい家庭の出身で、13歳より働いたが、周囲の勧めでバリトン歌手バーナード・ディアマン(Bernard Diamant)などに師事。1950年代前半にカナダ国内で実績を積み、1956年、ニューヨークでのリサイタルに成功。ブルーノ・ワルターにも認められ、彼女を独唱者に迎えたマーラーの『復活交響曲』(1958年録音)は今なお名盤として有名。以後、オペラ出演も含め国内外で広く活躍し、多くの録音を残す。1967年、カナダ勲章コンパニオン。2010年6月16日、トロントで没す。(宮澤淳一)

ブシャール、ルシアン (Bouchard, Lucien 1938- )
カナダの政治家。ケベック連合(Bloc Québécois)党首(1990-1996)。第27代ケベック州首相(1996-2001)。1938年ケベック州サグネ・ラック・サン・ジャン生まれ。弟はケベック・ナショナリズムや間文化主義(interculturalisme)の研究で著名な社会学者・歴史学者であるジェラール・ブシャール。1963年ラヴァル大学卒業(法学士)。1964年弁護士資格取得。1988年以来、進歩保守党所属の連邦議会議員として、ラヴァル大学時代の友人であるブライアン・マルルーニー(Brian Mulroney)進歩保守党政権では環境大臣(1989-1990)を務めた。ケベック党の創始者ルネ・レヴェックの熱烈な支持者であった彼は、ミーチ湖協定の元来の意義を弱めようとする連邦政府の対応に抗議し、1990年に進歩保守党を脱退し、ケベック州の主権獲得を目的とする連邦政党としてケベック連合を設立し、その党首となる。1995年のケベック州の州民投票では、ケベック州首相ジャック・パリゾーに対して、主権独立ではなく、カナダとの経済的・政治的連携を伴う「主権・連携」構想で州民投票を実施するように要請し、選挙戦では前面に立って戦った。州民投票後は、パリゾーの辞任を受けて、ケベック党党首 ・州首相(1996-2001)を務めた。(荒木隆人)

ブシャール-テイラー報告(Bouchard-Taylor Report)
ケベック州政府から委託をうけた諮問委員会が編纂した報告書。原題はFONDER L’AVENIR: Le temps de la conciliation(『未来の構築:和解の時』)で、2008年5月に発表された。委員長がフランス語系からジェラール・ブシャール、英語系からチャールズ・テイラーの2名であることから、一般に『ブシャール=テイラー報告』として知られる。その趣旨は、ケベック独自の多文化共生の在り方を分析した点にある。本文は310頁、その縮小版でも101頁に及ぶ。この報告書刊行の背景となったのが、現代ケベック社会の急速な変容である。ケベックはフランス語社会を基盤としつつも、民族的・文化的多様化が著しい。異質な文化原理や宗教をもつマイノリティ集団―具体的にはイスラーム教徒・シク教徒など―が、伝統的・価値的に優位なフランス系のマジョリティ社会に流入し、権利を主張し始めるとどうなるか。こうした状況下では、多かれ少なかれ不協和音が生じる。ならば、既存の社会的規範を堅持しつつ、マイノリティ文化と「どう折り合い」をつけたらよいのか。そこから、本報告書のねらいは次の三つに置かれている。(1)ケベックのホスト社会とマイノリティ文化との価値的「調和」を描くこと。(2)移民のケベック社会への「統合」の仕方を示すこと。そして(3)フランス語系文化を絶対的基盤としつつ、多様性を受け入れ、ケベックの新しいアイデンティティを「再構築」していくこと。これらの底流にあるのは、開かれたケベックの精神、および多文化的・自由主義的な理念である。ただその一方で、フランス語系マジョリティの歴史的記憶を浸食しているのではないか、との根強い批判もある。なお、本報告書(要約版)は邦訳されている。『多文化社会ケベックの挑戦』(G.ブシャール/ C.テイラー<編>、竹中/飯笹/矢頭<訳>、明石書店、2011年)。(竹中豊)

フッターライト (Hutterites)
16世紀にヤコブ・フッター(Jacob Hutter)を指導者として東欧で誕生したキリスト教再洗礼派の一宗派。再洗礼派であったため、迫害を逃れるために19世紀後半に北米に渡った。移住当初は400名程度だったとされるが、現在北米にはおよそ5万人のフッターライトが存在し、カナダでは、アルバータ州、マニトバ州、サスカチュワン州、ブリティッシュ・コロンビア州に居住している。フッターライトは、外的社会と距離をとるため、100名ほどの構成員からなるコロニーを形成し自給自足の共同体生活を送っている。コロニーの構成員が増えるとコロニーを分割し、移住する。コロニーは、牧師、総支配人(コロニーの財務管理責任者)を中心とした評議会によって運営されるが、男女の性別役割分担が深く根付いており、評議会は成人男性のみで構成される。コロニー内の日常言語として現在でも上部ドイツ語が使用されており、教育は幼児期からフッターライトの価値観などを学ぶドイツ語学校と、公教育を部分的に受け入れた世俗の英語学校でおこなわれる。フッターライトは同じく再洗礼派であるメノナイトやアーミッシュと近い信仰体系を有しているが、私有財産制度を否定し、財産の共同所有原則を採用している点に大きな特徴がある。現在多くのコロニーでは、この共同所有原則を維持するために土地を管理する法人を設立し、財産を共同所有とする定款を作成している。そのため、フッターライト共同体からの離脱・追放は法的な問題となる場合もある(たとえば、Hofer v. Interlake Colony of Hutterian Brethren, [1970] S.C.R. 958)。また、フッターライトはアーミッシュに比べると近代文明を受け入れており、自動車や最新の農業機械なども活用している。アルバータ州政府が運転免許証に顔写真の添付を義務付けたことは、自身を偶像化してはならないという教えの解釈に反するとして、ウィルソン・コロニーのフッターライトが訴訟を提起した事例は有名である(Alberta v. Hutterian Brethren of Wilson Colony, [2009] 2 S.C.R.567)。(山本健人)

プティーン(poutine)
主にケベック州でファストフードとして若者に人気のある軽食のことである。大学の食堂などにはメニューとして必ずある。モントリオールなど人が多く集まるところには専門店がある。たっぷりのフレンチフライドポテトの上にチェダーチーズカード(凝乳)を置き、アツアツのグレイビーソース(肉を焼いた時の肉汁)をかけたもの。コレステロールが多く肥満を引き起こすと非難されるが、ケベック名物として広く知られ、観光客にも受け入れられている。(友武栄理子)

フライ,ノースロップ(Frye, Notrhrop 1912-1991)
ケベック州に生まれ、トロント大学ヴィクトリア・カレッジで哲学・英文学を、エマニュアル・カレッジで神学を修め、短期間の牧師勤務の後、オクスフォード大学で文学修士号を取得、1939年以降は終生母校ヴィクトリア・カレッジで教鞭をとり、教授(1947)英文学部長(1952)、学長(1959)に就任、1978年にヴィクトリア大学総長に。王立協会評議員、現代言語学会会長等を務め、トン・ピアス賞、ロイヤル・バンク賞等を受賞。ブレイク研究を通じて多様な文学範疇における神話・象徴の役割を究明した『恐るべき均斉』Fearful Symmetry(1947)、批評の原理と技法を多角的に分析した『批評の解剖』Anatomy of Criticism(1957)、聖書の文学性および西欧文学への影響を論じた『偉大な法典』The Great Code(1982)と『力ある言葉』Words with Power(1990)をはじめ著書は20冊を越え、文学批評家として世界的な権威。カナダ文学も1930年代より批評を通じて育成に努め、『カナダ文学史』Literary History of Canada(1965)の「結語」においてその特性を「駐屯地心理」(garison mentaliry)との定義に基づいてプラス評価した。フライの後継者は「主題中心主義的批評家」(thematic critics)と呼ばれ、マーガレット・アトウッド(Margaret Atwood)もその一人。(渡辺 昇)

ブラウン,ジョージ(Brown, George 1818-1880)
連合カナダ西部の改革的政治家兼ジャーナリスト。1844年トロント『グローブ(Globe)』紙創刊。東部の英系トーリー派やフランス系カトリック勢力に対し、西部の土地獲得要求を掲げる「クリア・グリット(Clear Grits)」を率いた。人口比例代表制や宗教教育廃止等を主張。1864年に至り連合カナダの政治的危機打開のため、連邦実現を目指して政敵J.A.マクドナルド等保守党勢力と妥協、いわゆる「大連立」内閣を成立させた。これにより連邦形成への動きは一気に加速、彼も同年10月の「ケベック会議」に参加し、「建国の父祖」の1人となった。自治領成立後間もなく公職を退いたが、『グローブ』紙を通じて自由党を指導、批判的立場を貫いた。(江川良一)

ブラックフット(Blackfoot)
現在のアルバータ州サスカチュワン川以南のカナダ西部から合衆国モンタナ州のミズーリ川以北にひろがる大平原で、19世紀末までバッファロー狩猟を中心とする生活文化を築いていた先住民集団。アルゴンキン語系。ブラックフット(シクシカ)、ブラッド(カイナイ)、ピーガンの3集団を核に、同盟者であるサーシー、グロ・ヴァーントを加えた強大な連合体「ブラックフット連合(Blackfoot Confederacy)」を形成していた。現在は米加両国の各保留地に分かれて居住している。(富田虎男・岩﨑佳孝)

フランコフォン(Francophone)
フランコフォンとはフランス語話者のこと。今日のカナダは多民族国家であるゆえ、フランコフォンは先祖をフランスに持つ人たちばかりとは限らない。たとえばフランス語圏出身のハイチ系・ベトナム系・アフリカ系などまでが、フランコフォンに含まれる。カナダにおけるフランコフォン人口は約720万人(2016年の国勢調査。以下同様)で、総人口の約20.6 パーセントにあたる。ただその人口分布をみると、カナダ全域に平等に分散しているわけではない。フランコフォン人口がもっとも多いのは、フランス語を公用語とするケベック州で、約821万人(州人口の71.2パーセント)である。次に多いのが大西洋沿海にあるニューブランズウィック州(以下、NB州)で約234万人(州人口の31.6パーセント)。同州のなかでは、北東側にアカディアンと呼ばれるフランコフォンが多く居住し、モンクトンはその中心都市。さらにオンタリオ州の北部にはフランコ・オンタリアンと呼ばれる人たちが多く、人口数だけでいえばNB州のフランコフォンの2倍近い約561万人である。ただしオンタリオ州自体の総人口がカナダ最大のため、そこでの比率は4.4パーセントにとどまる。他方、ケベック州・NB州以外の州・準州内におけるフランコフォンの人口比は、極端に低い。。すなわちNB州を除く大西洋沿海諸州の平均は2.8パーセント、西部諸州は2.6パーセント、そしてブリティッシュ・コロンビア州は1.6パーセントで、いずれも5パーセントを下回る。こうした状況から、カナダにおけるフランコフォンの分布には、非常にはっきりとした「地域的偏り」がある。(竹中豊)

フランス系カナダ人(French Canadian)
フランコフォン参照。

フランス語憲章(La Charte de la Langue Française)
ケベック州の「フランス語憲章 La Charte de la langue française」は、同州内の多数派であるフランコフォン(フランス語話者)と彼らの言語であるフランス語の社会的・経済的地位を上昇させることを目的として、1977年に制定された。従来、州内最大の商業都市モントリオールでは、少数派のアングロフォン(英語話者)の言語である英語がビジネスにおける支配言語であり、ケベック州に定着する移民は英語を使って仕事をし、その子供たちは英語系の学校に通っていた。フランス語憲章(101号法)は制定当初、ケベック社会におけるフランス語の優位性を明確に規定する非常に強い拘束性を有する法律であり、その適用範囲は、州レベルの立法・司法・行政の言語や公教育の言語のみならず、民間企業や専門職などの仕事言語、商業用看板や広告の表示言語などにも及んだ。フランス語憲章担当の大臣職が設けられ、フランス語の適用をケベック社会全般に定着させるため、同憲章の施行を監督する「ケベック・フランス語局 Office québécois de la langue française」などの言語機関を設置している。教育言語については、例外を設けるも、公立の義務教育は原則としてフランス語で行われると規定され、商業用サイン表示に関しては、フランス語のみによる表示が義務付けられた。さらに、50人以上の従業員を有する民間企業には徹底的なフランス語化プログラムが実施され、業務言語のフランス語化が推し進められた。
 制定当初、フランス語憲章がケベック社会にもたらした変容と波紋は大きく、批判を受けるなかでケベック州政府は、1993 年にフランス語憲章の改定法となる86 号法を制定し、同憲章の規定の一部を改定した。商業用サイン表示に関しては、条件付きでバイリンガル表示が容認された。教育言語に関しては、カナダ全域で英語による教育を受けた親の子は英語系学校に通うことが認められた。
 2021年、フランス語憲章の一部の規定をより強化する法案がケベック州議会に提出された。(矢頭典枝)

ブラント,ジョセフ(Brant, Joseph 1742/43-1807)
イロコイ連合の一部を構成するモホークの首長のひとり。イロコイ名サイエンデンジア。姉メアリの夫である英国の北部インディアン局長官サー・ウィリアム・ジョンソンおよび後任の甥ガイと誼を通じ、通訳として英国に協力し、1775-76年には渡英しジョージ三世からメダルを授与された。アメリカ独立戦争では英陸軍大尉に任命され、中立の立場をとっていたイロコイ連合を英側につけ、ニューヨークとオハイオ各地を転戦し、アメリカ人を苦しめた。戦後の1785年にはその功によりカナダ総督から現オンタリオ州グランド川流域に広大で肥沃な土地を供与され、モホークを率いそこに定住した。86年には再度渡英し、モホークへの戦時補償を得た。オハイオ川流域へのアメリカ人の進出に抵抗するため、英国援助の下で五大湖から合衆国南部におよぶ先住民集団の大連合結成を構想し続けたが、内部分裂や武力抵抗の破砕によって不首尾に終わった。晩年はグランド川のほとりの豪邸で豊かな生活を営みながら、モホークの救済や聖書のモホーク語への翻訳に従事する日々を送った。(富田虎男・岩﨑佳孝)

ブリティッシュ・コロンビア州(British Columbia)
カナダ太平洋岸を細長く一州で占め、南はアメリカ合衆国ワシントン州に接する。その面積は94.7万km2で日本の総面積の2倍半にも及ぶ。16世紀以来、太平洋探検の一環として、ドレイク、ヴァンクーヴァー等、数々の航海者が訪れたが、背後にロッキー山系の高い険しい山々が連なるため、東部からの陸路による到達は19世紀に入るまで困難だった。1858年イギリスの直轄植民地となり、それまでの呼び方のニューカレドニアから現在のブリティッシュ・コロンビアへと改称、1871年、カナダ連邦に加入した。山勝ちの地形は美林を育み、また、金・銅・亜鉛・石炭の鉱産物にも富んでいるが、とくに山が海岸まで迫る地形からハイダ・グワイ(クィーン・シャーロット諸島)、ヴァンクーヴァー島などをはじめとする屈曲に富んだ海岸線となり、北太平洋を環流してきた黒潮の延長にあたる暖流の影響もあって、世界屈指の好漁場が形成される。明治以来、日本からの移民の多い州であった。(大島襄二)

ブリティッシュ・コロンビア大学(University of British Columbia:UBC)
1908年に創立され、ブリティッシュ・コロンビア州のヴァンクーヴァーとオカナガンにキャンパスを持つ。66,000人を超える学部生・大学院生と、約18,000名の教職員・スタッフを抱えるカナダ西部最大の研究総合大学。経営や教育、建築、工学、医学、美術などの様々な学部が提供されている。バートラム・ブロックハウス(ノーベル物理学賞受賞)やロバート・マンデル(ノーベル経済学賞受賞)、ジャスティン・トルドー(第29代首相)など、多くの著名人を輩出している。(新山智基)

プリンス・エドワード・アイランド州(Prince Edward Island)
カナダ東部、沿岸諸州の一つ。セント・ローレンス湾内の面積5,660km2、四国の三分の一に過ぎない1島だけからなるカナダでは最小の州。1864 年、この島のシャーロットタウンで、沿岸3州の連合を策する会議がおこなわれ、これにオンタリオ、ケベック両州の代表も加わって、これがカナダ連邦成立の契機になったという歴史的会談であったが、この州自体は1867年成立の連邦には参加せず、1873年「カナダ全自治領の方がこの州に合併したのだ」といわんばかりの高い見識で連邦入りしたという。1534年フランス人ジャック・カルティエが来島し、サン・ジャン島(Saint-Jean)と命名したが、1798年、イギリスのケント公エドワード皇太子の名をとって改称した。全島平坦で赤茶けた土からなり、ジャガイモの産地として、大西洋沖で操業する漁船の農産食料補給の基地としての役割を果たしたが、この島自体も周辺がロブスターその他の好漁場である。島の北岸のキャヴェンディッシュ(Cavendish)には、この島出身の女流作家モンゴメリーの『赤毛のアン』の舞台となった「緑の切妻の家」があり、日本人の女性観光客が後を絶たない。(大島襄二)

プリンス・エドワード・アイランド大学(University of Prince Edward Island)
プリンス・エドワード・アイランド州の州都シャーロットタウンにある同州唯一の大学(州立)。セント・ダンスタンズ大学(1855年設立)及びプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(1860年設立)を前身とし、2大学を統合する形で1969年に設立された。略称UPEI。文学部、教育学部、理学部、ビジネス学部、看護学部、持続可能なデザイン工学部、獣医学部を有する。フルタイム学生数約5,000人に加え、パートタイム学生約380人が学ぶ。州で唯一の大学であることから、州民に開かれた大学を目指している。大学院博士課程を有する獣医学分野では地元の獣医病院と密に連携しコミュニティ・アウトリーチ活動を積極的に行っている。(田澤卓哉)

プリンス・ルパート(Prince Rupert)
ブリティッシュ・コロンビア州の北西部、太平洋岸にある港湾都市。人口1.2万人(2011年)。カナダ大陸横断鉄道の一つのカナディアン・ナショナル鉄道の終点で、1914年に開通した。フィヨルド内に不凍港をもち、ヴァンクーヴァーに次ぐカナダ大西洋岸第2の貿易港となっている。内陸の穀物や鉱産資源、あるいは沿岸部の森林資源を輸出する。製材、造船も行われる。漁業基地としても重要で、水産加工が行われている。(正井泰夫)

ブルームボール(Broomball)
ブルームボールはカナダが発祥とされるスポーツである。一般的にはスケートリンクや雪上などでおこなわれるが、アメリカの暖かい気候の地域などでは陸上で行われることもある。アイスホッケーやサッカーのように、相手陣地にあるゴールにボールを入れることで点数を競い合う。もともとは箒(broom)が競技用のスティックとして用いられたことからブルームボールと呼ばれるようになったが、現在では三角形のゴムパットが先につけられたスティックが一般的に使用されている。また特徴として、アイスホッケーでは選手はスケートと防具を着用して氷上を滑りながら競技するのに対し、ブルームボールの選手は運動靴をはいて転倒しやすい氷上や雪上を走りながら競技する。その意味では、北海道などで行われている長ぐつアイスホッケーともにている。ブルームボールではアイススケートではなく運動靴を着用することから「手軽に楽しめる」スポーツと語られることもあるが、「手軽」すぎるためにアイスホッケーでは必須の防具やヘルメットを着用しないままプレーされることも多く、そのため、リンクの上で転倒したときの痛みはなかなか強烈である。ブルームボールは、競技スポーツとしてもレクレーションとしてもなじみのあるスポーツである。競技スポーツとしてはリンク上にいられる人数上限(1チーム6名)をはじめとして様々なルールがあるものの、学校などでレクレーションとして実施されるときにはルールは緩やかに設定されることも多く、大人数が入り乱れながら和気あいあいと実施される社交的スポーツでもある。 (山田亨)

ブルック,フランシス(Brooke, Frances 1723-1789)
ロンドンにおいて週刊の『オールド・メイド』Old Maidの編集、作品や翻訳出版で文名を博した。ケベックの従軍牧師の夫の許へ1763年に渡加、1768年まで在留。翌年に書簡体小説として『エミリー・モンタギューの経歴』The History of Emily Montagueを刊行、ケベック住民や先住民の習俗、周辺の風光、税金・信仰の自由・英仏関係等の諸問題の描写で好評を得た。これにより彼女はカナダ最初の小説家、また初期のフェミニストと評価されている。(渡辺 昇)

フルフォード,ロバート(Fulford, Robert Marshall Blount 1932- )
ジャーナリスト。1932年2月19日、オタワ生まれ。トロントで少年時代を過ごし(グレン・グールドと同窓)、モールヴァン・コレジエイト中退。1949年より『グローブ・アンド・メイル』紙の下働きを始め、やがてスポーツ記事や文学・芸術記事を書くようになる。『マクリーンズ』誌、『トロント・スター』紙などで健筆を揮い、有力な批評家となり、映画、ジャズなどの批評も手がける。1968~87年、『サタデー・ナイト』誌編集長。その後、コンチネンタリズムからナショナリズムに転向、リベラル派の論客として知られる。著書多数。1984年、カナダ勲章オフィサー。(宮澤淳一)

フレーザー川(Fraser River)
ロッキー山系に源を発し、ブリティッシュ・コロンビア州南部、アメリカ国境近くを西流して太平洋に注ぐ延長1,368kmの長河。1887年、和歌山県人工野儀兵衛が郷里の三尾に送った電報「フレーザー川にサケが湧く」の一言が後の和歌山県人の大挙移住を促した。河口のスティーブストンは低湿地であったが、そこにサケ加工の工場、キャナリーが林立し、日系漁民が住み着いた。なおヴァンクーヴァー空港はこの川の沖積部に立地している。(大島襄二)

プレーリー(Prairie)
アルバータ州南東部からマニトバ州南西部にまたがる大平原。ほぼ中央をカナダ太平洋鉄道が通り、かつての大草原は今日、春小麦の大農牧地となる。メキシコ湾岸から連なる本流より西のミシシッピー川流域の草原がプレーリーで、その北端に当たる。中緯度の大陸内部の半乾燥地にみられる草原であるが、ユーラシアのステップに比べて降水量が多く、丈の高い草が生える。木がないのは乾燥のほか、野牛などを追ったインディアンの焼き払いや野火によると考えられる。合衆国では西へ雨量が減り、グレートプレーンズへ移るが、カナダでは南の国境へ向かってより乾燥し、北は湿潤となって森林へ移る。雨量は夏に集まり、年間500mm内外。腐植物の肥沃な土壌。1875年の鉄道開通以来ヨーロッパから農民が入植し、開拓は急進展した。雨量の年による変動が大きく、危険を分散させるため、春小麦の過度の単作を避け、混合農業に力を入れる。(島田正彦)

フレデリクトン(Fredericton)
カナダ東南部に位置するニューブランズウィック州の州都。セントジョン川に沿って街の中心部が広がり、州都であることから州議会議事堂が置かれている。英国ジョージ三世の次男の名から「フレデリックの街」と名付けられ、1785年に現在の名前となった。人口は約5.8万人で、人口規模ではモンクトン(7.2万人)、セントジョン(6.7万人)に次ぐ州内第三の都市である。政治、文化、芸術、教育分野において州内で重要な役割を担っており、高等教育機関としてはニューブランズウィック大学とセントトマス大学の2大学に加え、オンライン教育のフレデリクトン大学があるほか、州政府から州のアートギャラリーとして指定されたビーバーブルック美術館等の文化施設がある。また、州内のIT産業が集積していることで知られる。(田澤卓哉)

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War 1753-1763)
英仏間で争われた北米大陸における植民地戦争の一つ。17世紀半ばから、ヨーロッパでの王位継承をめぐる戦争があったが、いずれにおいても英仏は敵同士で、ヨーロッパでの戦争が北米の英仏領植民地にも波及した。しかし、北米の覇権をめぐる最後の戦いになったフレンチ・アンド・インディアン戦争は、ヨーロッパでの七年戦争より2年早い1754年に始まった。この戦争の名称は、イギリスから見て「敵はフランス人とインディアン」ということである。
 当初は、先住民と協力したフランス側が優勢に戦いを進めた。そのため、1755年7月には、ノヴァスコシア植民地の人口の大半を占めていたアカディアンが、中立を保つと約していたにも関わらず、追放された。1758年、ウィリアム・ピットがイギリス首相になると、形勢はイギリス優位に転じた。1758年、イギリスはルイブールを陥落させ、これにより、セント・ローレンス川をさかのぼることが可能になり、1759年のアブラム平原の戦いでケベック陥落、1760年のモントリオール陥落により、フランスの敗北は決定的になった。1763年パリ講和条約によって、フランスは、ニューファンドランド沖のサンピエール・ミクロン島を除く北米の領土を失い、ヌーヴェル・フランスのミシシッピ川以東はイギリス領、以西はスペイン領になった。 (木野淳子)

フロンティナック,ルイ・ド・ブアド(Frontenac,Louis de Buade,Comte de 1622-1698)
カナダがフランス国王の直轄地(1663年)になって以降の歴史で、もっとも話題性の高い
統治者の一人。ヌーヴェル・フランス総督を2度(1672-82年、1689-98年)にわたり務めた。行政官としては最も果敢な人物の一人とされる。人物的にはかんしゃく持ちで私利私欲に富む策略家ともいわれ、植民地統治のもう一方の要である地方長官らとの内輪もめが絶えなかった。だが、植民地指導者としては、敵対する先住民イロコイの撃退、イギリス植民地への攻撃など、フランス植民地の軍事戦略固めに尽力する。また、先住民ヒューロンなどとの毛皮交易に際しては、物々交換としてブランディ持ち込みをめぐって教会指導者(ラヴァル司教)と衝突を繰り返す。独善と傲慢との重複する人物である一方、外敵からヌーヴェル・フランスを守り礎を強化した点で、功罪を含め、その評価は多様である。(竹中豊)

平衡交付金(Equalization Payments)
 平衡交付金(Fiscal Equalization)は、カナダの10州のうちどの州も過度な税負担を住民に求めることなく標準的水準のサービスを行えるための財源を、使途の自由な財源という形で保障する目的で連邦が州に交付するものであり、1957年に導入された。平衡交付金により州間の財政力格差を是正することは、1982 年憲法法第36 条第2 項に明文で規定されている。現行制度は、州の代表的な収入項目(個人所得税、法人所得税、消費課税、資産課税及び天然資源収入)について、各州が全州平均税率を採用したと仮定して人口1人当たり財源調達力の金額を算定し、それが全州平均未満の州に対して、平均に不足する額に人口を乗じた金額を連邦が交付するものである。また、財源不均衡の一大要因となっている天然資源収入については、部分的に財源調達力の金額に含める措置がとられている。さらに、平衡交付金総額の伸び率は名目GDP成長率(3カ年移動平均)に連動している。2009年度、平衡交付金を受けたのはケベック州、マニトバ州、ニューブランズウィック州、ノヴァスコシア州及びプリンスエドワードアイランド州の5つであり、その合計交付額198億ドルは、連邦一般会計歳出(3735億ドル)の5.3%であった。(池上岳彦)

併合宣言(米加)
1849年に英語系のモントリオール商人やトーリー党員など300名によって署名されたアメリカとの併合宣言。イギリスとの友好的・平和的な分離や、公平な条件の下に北アメリカの主権国家を併合させていくことを求めたものである。しかし、圧倒的多数の大衆から拒絶されたことで、署名をしたトーリーたちは1850年以降、併合論を持ち出すことはなかった。(福西和幸)

ベーシックインカム(Basic Income)
社会の成員全員に一定の基礎的所得を無条件で給付する制度。日本国憲法第25条では、人間には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を謳っている。他方、第27条では、勤労が権利であると共に義務である旨が述べられており、この両者の関係に時に矛盾が生じるようにみえる。働きたくても働けない人には、社会保障で対応できる。しかし働く気が不足している人には最低限度の生活を営む権利も認められないのか。また、給付対象者の線引きは可能なのか。このテーマに対して近年よく聞かれる解決案の1つがベーシックインカムである。すなわち、働く意思や資力を調査せずに、一律にお金を配るならば、諸々の確認と仕分けに使う中間コストと時間が不要になる。すでに児童手当などが資力調査を行わずに実施されており、それを他の全年齢層に広げられないかという議論である。この考え方に、「小さな政府」を主張する人たちも社会の平等や弱者救済を主張する人たちも賛成している点が興味深いが、それぞれの目指すベーシックインカム像や目的が異なるため、いざ実施となると足並みを揃えるのは難しい。カナダにおいては、1970年代のマニトバ州での実験(ミンカム)や、2018年に始まり、翌年途中で打ち切りとなったオンタリオ州のパイロット実験などが、具体的な事例として注目を集めている。(田中俊弘)

べチューン,ノーマン(Bethune, Henry Norman 1890-1939)
ノーマン・べチューン(Henry Norman Bethune, 中国名:白求恩,1890-1939)はその無私の志と卓越した技術を持つ外科医として、カナダのみならず世界に広く知られる。彼の最大の功績は、世界初の移動輸血システムを組織し、最も戦火の激烈な戦場の数々を縦横無尽に駆け回り負傷兵に多数の輸血を施したことだろう。常に新しい手術器具の開発と手技の向上に余念なく、新しい術式についてその当時の外科医が必ず参照すべき文献を数多く残し、今日もなお、肋骨剪刀にその名を残している(Bethune Rib Shears)。
 1890年3月4日オンタリオ州グレイヴェンハーストGravenhurstに牧師の父、外科医の祖父の下に生まれたべチューンは、トロント大学医学部在学中に第一次世界大戦が勃発すると衛生部隊に入る。1916年繰り上げ卒業の後、英国海軍へ入隊、大戦終了後はそのまま英国で外科専門医のトレーニングを受ける。専門医修練終了後、結核に罹患するも主治医に自ら人工気胸形成術を提案し、回復。1933年、モントリオールで優秀な胸部外科医として多忙な日々を送る中、結核には個別治療よりも広範な社会医学的アプローチで対峙すべきとの考えに至り、カナダ国民全体を対象とする普遍的な医療制度の構築について改革の提案を行うも、この時点では受け入れられなかった。1935年、ソ連の医療制度視察から帰国し、共産党員となったべチューンは1938年にカナダを離れ、以後はスペイン人民戦線あるいは中国の八路軍と共に、外科医として、近代医学の教育者として、共産党のアイコンとして、多方面に活躍した。1939年、中国兵の治療中の事故により敗血症で死亡すると、毛沢東はその死を悼み、随筆「ノーマン・ベチューンを偲ぶ(紀念白求恩)」で彼の国際主義、責任感、利他的精神を大いに称賛した。この文章は文化大革命時の推奨文として中国で広く読まれ、ベチューンの名は中国におけるカナダの代名詞となるに至った。(内野三菜子)

ヘリティッジ・ラングイッジ(Heritage Language)→ 継承語
継承語を参照。

ベル,アレクサンダー・グラハム(Bell, Alexander Graham 1847-1922)
 スコットランドで生まれ、カナダ、アメリカ合衆国にて活動した科学者、発明家。幼少期から好奇心旺盛で、様々な機械の発明を行う一方、聴覚障碍を持つ母親の世話をする中で音声生理学への関心を深めた。弁論術、発話学教育に携わる父の影響から発声生理学の教師となり、1870年に23歳でカナダに移り住んだ後、自宅のあるオンタリオ州ブラントフォードと職場があるマサチューセッツ州ボストンを往復する多忙な生活を送った。こうした生活の中でも音声生理学や発明に対する熱意は持ち続けており、仕事の合間に音声による空気の振動の波形と同様の電気の波を起こし、電線を通して音声を伝達するという実験を続けた結果、1876年に電話の開発に成功した。ベルは、電話機発明の翌年にベル電話会社を設立し、これは現在アメリカ最大の電話会社アメリカ電信電話会社(AT&T)となっている。ベルの業績は電話の発明にとどまらず、これ以外にも無線電信や航空機技術の研究にも及び、さらには科学誌『サイエンス』創刊の支援や、『ナショナル・ジオグラフィック』を発行するナショナル・ジオグラフィック協会を創設するなど、科学分野全般の発展に貢献した。ベルは、1882年にアメリカ合衆国の市民権を取得したが、カナダへの愛着は深く、ノヴァスコシア州ケープブレトン島の邸宅にて晩年を過ごした。(福士純)

ボーデン,ロバート(Borden, Robert Laird 1854-1937)
ノヴァスコシア州グランプレ出身の法律家・政治家。ハリファックスで法律家として活躍した後、友人のチャールズ・タッパーに勧められて1896年に下院に立候補して政界入りした。1901年にはタッパーに代わって保守党の党首となり、ウィルフリッド・ローリエ自由党政権と対峙した。加米互恵条約の締結を目指した自由党に反対して1911年に政権党となると、ローリエに反対する自由党政治家を内閣にも取り込みながら第一次世界大戦時のカナダ政府を率いた。この大戦中にカナダは帝国戦時内閣での協力を通して外交上の発言力を増していくが、他方で、徴兵制の導入が、ケベック州フランス系の保守党離れを引き起こした点も否めない。また、第一次世界大戦中にドイツ系やウクライナ系を対象に、「敵性外国人」として強制収容などを行った戦時措置法(War Measures Act)の施行責任者としても批判的に見られる。同法は、後に第二次世界大戦中には日系人が、1970年にはケベック州の独立派フランス系が対象となった。100カナダドル札紙幣には彼の肖像画が描かれている。(田中俊弘)

ボールドウィン,ロバート(Baldwin, Robert 1804-1858)
アッパー・カナダ植民地・連合カナダ植民地期の穏健改革派。1837年の急進的改革派による反乱では中立を保った。翌年、父のW・ボールドウィンとともにダラム伯に責任政府導入を提言した。これは『ダラム報告』に影響を与えたとされる。1842~43年にはカナダ・イースト(旧ロワー・カナダ)の穏健改革派でフランス系のL=H・ラフォンテーヌと手を組み責任政府実現を図ったが、総督メトカーフに阻まれた。だが1848年の選挙で穏健改革派がカナダ・ウェスト(旧アッパー・カナダ)、カナダ・イースト双方で勝利すると、総督エルギンはボールドウィンらに行政評議会(「内閣」)を組織することを求めるに至り、ここに責任政府が実現した。(細川道久)

北西部騎馬警察
現在のカナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police)の前身。1860年代にルパーツランドを獲得したカナダにとって、それまで2世紀間も放任状態にあった先住民の統治をはじめ、この広大な北西部の統制が問題となった。そこでマクドナルド首相は、当時すでに有効に機能していたアイルランド警察隊をモデルとして、1873年5月の法令により、準州の治安維持を目的とした警察機構を誕生させた。警官は、同年中にまず150人が派遣され、翌年春には更に同数が加わって計300人の警察隊となり、次第に北西部騎馬警察の名称で呼ばれるようになった。騎馬警察は、先住民にウィスキーを売りつけていた合衆国の商人を退け、また、先住民との友好関係を築いて、彼らを平和裡にインディアン居留地へと向かわせた。更に1890年代半ばには北方へと移動し、ゴールドラッシュのユーコンで秩序の維持に務めた。(田中俊弘)

北米自由貿易協定(NAFTA)
北米自由貿易協定(North American Free Trade Agreement[NAFTA])とは、アメリカ、カナダ、メキシコの3カ国間で、1992年12月に調印され、1994年1月に発効した自由貿易協定のことである。10~15年をかけて加盟国間の農産物、工業製品貿易にかかる関税や非関税障壁を一部の例外を除いて撤廃し、金融・投資の自由化や知的所有権保護を目指した。総人口3億6,000万人、GDP総額6兆5,000億ドルを擁する、世界最大規模の自由貿易地域が実現された。
協定調印に向けての交渉は、米加自由貿易協定(FTA)が発効した翌年に当たる1990年6月にアメリカのブッシュ(George H.W. Bush)大統領とメキシコのサリナス(Carlos Salinas de Gortari)大統領の間で始まり、それにカナダのマロルーニー(Brian Mulroney)首相も防衛的な立場から米墨間交渉へ参加することを表明した。その理由は、加米間、米墨間でそれぞれ自由貿易協定が締結され、加墨間で締結されない場合にはアメリカを中軸国とし、加墨がアメリカのみとつながる関係(=「ハブ・アンド・スポークス」)が樹立され、加墨両国はお互いに有利な貿易協定から排除されることを危惧したからであった。最終調印までに2年半を要したため、アメリカの協定批准はクリントン(Bill Clinton)政権に持ち越された。批准時の問題点としては、米墨国境地帯の環境問題、アメリカやカナダからの雇用機会流出の可能性などが指摘されたが、「北極圏からティエラ・デル・フィエゴまで」を民主主義と自由貿易で結ぼうというレーガン(Ronald Reagan)大統領の夢が、その一歩を踏み出したともいえる。
なお、関税上の優遇措置を認める条件として、NAFTAでは詳細なルールが設けられている。繊維・衣服について、完成品が北米産と認められるためには、原糸または繊維の段階から域内産でなければならない。自動車については、域内原産比率が62.5%以上を達成したものが北米産と認定され、関税が免除される。NAFTAはアメリカやカナダという先進国とメキシコという発展途上国間に結ばれた自由貿易協定のため、経済的格差や制度が大きく異なることから生じる軋轢を回避する措置として、環境と労働に関する補完協定も同時に結ばれた。2020年7月にCUSMAの発効と同時に、NAFTAは失効した。(「カナダ・アメリカ・メキシコ協定(CUSMA)」参照。)(小浪 充/栗原武美子)

ホジンズ,ジャック(Hodgins, Jack 1938- )
BC州出身の小説家。ヴァンクーヴァー島を舞台にし、ユーモラスに土地の人物像を描いた短編集『スピット・デラニーの島』Spit De1aney’s Island(1976)でデビュー。『世界の発明』The Invention of the World(1977)以後の長編には、神話的要素も加わって、生き生きした作品となっている。『ジョゼフ・バーンの復活』The Resurrection of Joseph Bourne(1980)によって総督賞を得た。(浅井 晃)

ポスト・コロニアリズム(Postcolonialism)
独立後の旧植民地の政治・思想・文化的状況を分析したり、植民地支配を行なった旧宗主国の植民地主義の政治・思想・文化全般を過去から現在まで批判的に検証したりする様々な思想や研究視角の総称。独立を達成してもなお、政治・経済面で完全には自立していない点や自前の思想を有していない点など、旧植民地において植民地的状況が継続している現実を批判的にとらえる見方や、逆に、クレオール化など新しい状況が生み出されている点を積極的に評価する見方などがある。また、旧宗主国にあっては、植民地主義の歴史の検証にとどまらず、それをもたらした近代以降の思想・学問体系全般をとらえ直そうとする試みである。(細川道久)

北極海諸島
北米大陸の北部、北極海に存在する島嶼群を指す。最大の島はバフィン島(面積507,451?)であり、ヴィクトリア島(217,290?)、エルズミア島(196,236?)と続く。面積400?以上の島だけでも50を越え、島嶼群の総面積は132万?以上に及ぶ。最北端はエルズミア島コロンビア岬の北緯83度07分、ここは地球陸域の最北端を成す。気候は極めて寒冷で、エルズミア島、デヴォン島、バフィン島の東部は広大な氷床に覆われる。全域がツンドラで、島嶼群の北半分では極度に寒冷かつ乾燥した気候のため植物が疎生し裸地が広がる。ここを高緯度極地帯、植物がやや密生する南の地域を低緯度極地帯として区別することがある。ジャコウウシ、ホッキョクグマ、ホッキョクキツネ、シロイルカ等がこの地域に生息する。所々にイヌイットの集落がある以外、人はほとんど定住していない。コーンウォリス島のレゾリュート・ベイは北極地域交通の拠点として機能する。(小島 覚)

ポトラッチ(Potlatch)
カナダの太平洋沿岸からアラスカ南東部にかけての地域に暮らす先住民族の伝統儀式。本来は人間の成長段階(出生、成人、結婚、死など)を祝うためのごくふつうの式典だが、19世紀後半になると、式の主催者がみずからの社会的な威信をかけて莫大な財を投資するようになった。しかしこうしたポトラッチの過激化は、当時のカナダ政府には単なる浪費にしか映らず、ついには1885年法的に禁止されるにいたった。1951年に禁止法が撤廃されると、ポトラッチは先住民の文化復興の核として地域一帯で再開されている。なお、かつては数週間、現在なら3日ほどかけて実施される式のほとんどの時間は歌とダンスに費やされるなど、ポトラッチには娯楽としての要素も多分にある。(立川陽仁)

ホワイトホース(Whitehorse)
ユーコン準州の州都で、ファースト・ネイションの the Kwanlin Dun First Nation とthe Ta’an Kwach’an Councilの人々が伝統的に暮らしてきた土地でもある。
ユーコンは鉱物資源が豊富であり、1800年代半ばから始まったゴールドラッシュを契機にこの地域に外部から人が流入したが当初はホワイトホースより北にあるドーソンシティが州都だった。ゴールドラッシュが下火になったのを契機に1953年にホワイトホースが設置された。現在の人口は25,085人(2016年統計)だが、近年ユーコンノミニープログラム(Yukon Nominiee Program)によって移民を受け入れることに積極的な姿勢を示し、増加の一途をたどっている。
亜寒帯に属し、年平均気温は―0.1度、観測史上最低気温は―56.1度(1906年1月)、最高気温は35.6度(1969年6月)である。土地のほとんどを占める美しい自然の中でのトレッキングやカヌーイング、オーロラ鑑賞などを目当てに、多くの観光客が訪れる。州花はヤナギラン、州木はサバルパイン・ファー(モミ)、州鳥はワタリガラス。(山口未花子)

ポンティアク戦争 (Pontiac’s War 1763-1765)
フレンチ・アンド・インディアン戦争後、英人の排除と伝統的生活への回帰をうたうデラウェアの預言者ネオリンによる宗教的運動の高まりとともに、とくに親仏派先住民の間に土地を侵犯する13植民地人への反発が強まった。1763年春、パリ講話条約で北米のフランス利権が失われると、オタワ首長ポンティアックはヒューロン、デラウェア、マイアミ、セネカなどの先住民諸集団とともに蜂起し、フロンティアの英軍砦のほとんどすべてを占領し、多くの英兵と植民地人を殺した。包囲に耐えたデトロイトを含む3つの砦のうち、ピット砦では病院の天然痘菌を毛布とハンカチに塗布して渡す細菌戦が行われ、多くの先住民がこれに感染し倒れた。フランスの援軍が来ないことを知ったポンティアックは秋に戦闘を止めたが、残りの先住民による抵抗は続き、1765年に英国と先住民の間に最終的な講和がなされた。(木野淳子・岩﨑佳孝)

ボンバルディア社(Bombardier Inc.)
カナダのケベック州モントリオールを本部とする製造業。1937年にジョゼフ=アルマンド・ボンバルディア(Joseph-Armand Bombardier)が、スノーモービルを製造・販売することから始まった。現在は、航空機と鉄道車両を主たる事業とする。航空機では中小型機の市場で高いシェアを有する。鉄道車両では、車両製造から運行制御システム等の保安設備まで幅広く製造しており、鉄道部門では世界最大の生産設備を保有。世界に事業所があり、従業員数は約68,000人。(山田滋己)

マ行

マーシャル,ロイス(Marshall, Lois 1925-1997)
カナダを代表するソプラノ歌手(のちにメゾソプラノ)。1925年1月29日トロント生まれ。12歳よりトロント音楽院で名教師ウェルドン・キルバーン(Weldon Kilburn)に師事(のちに夫となる彼は、1971年まで伴奏者)。1947年、サー・アーネスト・マクミランの指揮するバッハの『マタイ受難曲』の独唱者としてデビュー。ポリオの後遺症で足が不自由であったためにオペラ出演は限られたが、その歌唱力は国外でも認められ、名指揮者たちと共演。ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団、1953年録音)は名盤として有名。1968年、カナダ勲章コンパニオン。1997年2月17日、トロントで没す。(宮澤淳一)

マーシュ報告
1943年3月16日、マーシュ報告が新聞紙上に公表された。「カナダ社会保障に関する報告書」は、マッギル(McGill)社会科学研究所グループの所長であったレナード・マーシュ(Leonard Marsh)によって勧告されたため、その名を冠してマーシュ報告と呼ばれる。マーシュ報告は、イギリスのベバリッジ報告のカナダ版と称され、戦後カナダの包括的社会保障制度の構築に大きな影響をもたらした。老齢年金(OAP)、雇用保険(EI)、児童手当(CB)、追加的な所得補償(Income Supplement)等がそうである。マーシュは、カナダ福祉国家の礎を築いたのである。
 マーシュ報告の勧告を受けて、戦前に制定されたのは1944年家族手当法(The Family Allowance Act)である。同法は、16歳以下の就学児童生徒又は病気を理由に就学困難な子供を対象とし、年齢や子供の数に応じて支給の等級を設けた。家族手当は、カナダで最初の普遍的福祉給付プログラム(universal welfare payment program)であった。
1946年5月までに、16歳以下の92%、333万3,763人の子供たちが家族手当を受けており、一家族当たり支給平均月額は14ドル18セント、子供一人当たり5ドル94セントであった。マーシュ報告では、支給最低額平均で子供一人当たり7ドル50セントを提案しており、実際には提案した額を下回った。
 次に、戦前の年金制度には老齢年金法があり、1927年に施行された。同法の下では、年金受給の条件として資力調査や所得調査があった。また受給者には70歳以上の高齢者に月額20ドル、年額240ドルが支給されたが、受給されるには一定の条件があり、年収365ドルまでが受給の条件とされた。マーシュ報告では、このような条件には受給対象者となる機会を制限する要因、法的な規制や行政上の規制があると指摘した。このような勧告を受けて、1947年の年金改正法では、年金受給者の条件を緩和し国外居住者にも拡大した。また毎月の給付額も増やし、年収の上限も引上げた。
 1966年までに、マーシュの提案した老齢年金等の包括的社会保障制度は、立法化されており、今日マーシュが立案した社会扶助や公共福祉プログラムから、カナダ人の多くは便益を受けているのである。(広瀬義朗)

マイノリティ文学
英系・仏系以外の民族集団の文学。A.M.クライン、モーディカイ・リッチラーらにより一足先に主流に食い込んだユダヤ系以外は、1960年代後半~1970年代以降、国の多文化政策・能力優先の新移民政策などに支えられ、活発な動きを見せている。ドイツ系メノ派ルディ・ウィーブ、ウクライナ系ジョージ・リーガ、チェコ系ジョウゼフ・スクヴォレッキ、イタリア系ニノ・リッチらヨーロッパ系の他、アジア系では日系ジョイ・コガワ、カリブ出身インド系ニ一ル・ビスーンダス、インド系ロヒントン・ミストリらが活躍、特にスリランカ系ブッカー賞(『イギリス人患者括』)作家マイケル・オンダーチェは今や主流を凌駕する。一方、先住民文学は素朴な自己主張からトマス・キングらの洗練された作品へと移り、カナダでは数少ない黒人もオースティン・クラーク、ディオン・ブランドらカリブ・アフリカからの移住者により活性化されている。(堤 稔子)

マクドナルド,ジョン・A(Macdonald, John A 1815-1891)
法律家、建国期カナダを代表する政治家。カナダの初代首相(1867-73、1878-91)。スコットランドのグラスゴー生まれ。5歳で移り住んだキングストンで育ち、1836年に弁護士資格を獲得して開業した。この地から出馬して1844年に保守党議員として当選すると、以後47年間にわたって政治トとカナダ・ウェストから1人ずつ首相を出していた)。コンフェデレーション(連邦結成) “最大”の父祖とされる。1867年、彼はカナダ自治領の初代首相に就任し、イギリスからナイト爵位(サーの称号)を与えられた。以後、通算約20年の首相在任期間に、カナダは“海から海へ”と版図を広げ、更に大陸横断鉄道の建設によって東西を結ぶことに成功した(1885年)。1873年にはカナダ太平洋鉄道をめぐるスキャンダルで自由党のアレクサンダー・マッケンジーに政権を奪取されるが、1878年に、保守党の綱領に「ナショナル・ポリシー」を掲げて政権に復帰すると、1891年6 月に死去するまで首相を務めた。昨今では、彼が連邦首相だった時代の先住民や中国人移民に対する政策が問題視されている。(田中俊弘)

マクドナルド,J.E.H(Macdonald, J. E. H 1873-1932)
英国のダーラムから両親とカナダに移住。画家、デザイナー。ローレン・ハリスと共にグループ・オブ・セブン結成の原動力となる。トロントの商業美術会社、グリップ(Grip)のアート・ディレクターに就任。同僚のトム・トムソンや、グループ・オブ・セブンのメンバーとなるアーサー・リズマー、フランクリン・カーマイケル等の画家としての成長を助けた。1913年にアメリカで開催されたスカンディナヴィア美術展から、カナダと共通する北方性とその表現法に、求めていたアプローチ、技法のヒントを受ける。壮大な自然への崇敬を大胆なタッチで描く。色彩は暗く、強靭で豊か。デザイナーであった彼の構図はデザイン性が指摘される。オンタリオ州のアルゴマ地方の風景が主要作品の題材となる。(伊藤美智子)

マクドナルド、ラナルド(MacDonald, Ranald 1824-94)
チヌークと白人の混血者。「日本で最初の英語教師」と呼ばれる。1824年、現在の合衆国オレゴン州アストリアで生まれた。父はハドソン湾会社に勤務するスコットランド人の交易商人、母はチヌーク首長の娘。マクドナルド出産後母はすぐ亡くなり、チヌークの集落、次いでメイティ女性と再婚した父の家庭で育てられた。1834年、レッド・リバー植民地フォート・ゲリーの学校に入り、その後銀行の会計係の職に就いた。カナダ太平洋岸に漂着した日本人漁師のニュースで伝えられた日本人の容姿から、母方の先住民血統とアジアとのつながりを感じ、職場で白人からの差別を体験したこととも重なり、日本への憧憬を強めた。1848年、ハワイから水夫として捕鯨船プリマス号に乗り組み、日本近海に到達すると小さなボートで焼尻島に上陸し、その後漂流民を装おい利尻島沖でアイヌ猟師に助けられた。幕府の命で長崎に送られ、崇福寺の座敷牢に6か月幽閉された。彼の穏やかで礼儀正しい態度は日本人の多くに好感情を抱かせ、差別的な扱いをうけることはなかったという。長崎奉行は外国船との交渉のため、14人の若く優秀な通詞たちにマクドナルドから英語を学ぶことを許した。7か月の投獄の間、彼は牢の格子越しに彼らに英語を教えながら自身も日本語を学び、上陸直後から紙に書き留めていた日本語を英和辞書にまとめた。なおマクドナルドが日本を去った5年後の1854年に、通詞のひとり森山栄之助はペリー率いる黒船来航の際に幕府のために通訳をつとめた。マクドナルドは10か月の日本滞在ののち、1849年にアメリカの軍艦に収容され、日本を去った。1893年には日本における体験を記した回想録『日本―日本最初の英語教師ラナルド・マクドナルドの冒険譚(1848~49)(Japan, Story of Adventure of Ranald MacDonald, First Teacher of English in Japan, A. D. 1848-49)』が出版された。翌94年、マクドナルドは合衆国ワシントン州で死去した。(岩﨑佳孝)

マクミラン,サー・アーネスト(MacMillan, Sir Ernest 1893-1973)
指揮者・作曲家・教育者。1893年8月13日、オンタリオ州ミミコ生まれ。10代より音楽活動を開始、20代でオルガン演奏、合唱指揮、執筆、作曲に熱中。教育現場にも携わり、やがて1926~42年にトロント音楽院(現ロイヤル音楽院)院長、1927~52年にトロント大学音楽学部長を務める。また、1931~51年、トロント交響楽団指揮者、1942~57年、トロント・メンデルスゾーン合唱団指揮者。1935年、ナイト。1970年、カナダ勲章コンパニオン。1973年5月6日、トロントで没す。20世紀カナダ音楽界の重鎮として回顧される。(宮澤淳一)

マクラレン,ノーマン(McLaren, Norman 1914-1987)
アニメーション作家。スコットランド出身で、当初は英国郵政省の広報課に勤めたが、1941年にカナダ映画製作庁(NFB/ONF)に移り、アニメーション部門の創設メンバーとして活躍した。音響面では、フィルムの光学サウンドトラックへの描画や擦過により音響を生み出すマイクレス音響技法、そして、映像面では、本来自在に動く人間を動かぬオブジェとしてコマ撮りしたピクシレーション技法や、直接フレームに描画・擦過したカメラレス映像技法を得意とし、多くの場合、ストーリーに立脚しない短編映画を創作した。『隣人』(1952)、『ブリンキティ・ブランク』(1955)、「線」三部作(1960-1965)といった代表作があり、『カノン』(1964)や『シンクロミー』(1970)には、作曲技法に関する探究の成果もみられる。また、ユネスコの派遣で中国(1949年)やインド(1953年)に赴いて、現地の若者にアニメーション製作研修を開講し、この経験に基づいて、『ペンポイント・パーカッション』(1951)や5本からなる『アニメーション講座』(1976-1978)といった教育的作品も製作している。1987年1月27日、心臓発作によりモントリオールの病院で没す。(栗原詩子)

マクルーハン,マーシャル(McLuhan, Herbert Marshall 1911-1981)
「メディアこそがメッセージである」The medium is the message. の標語で知られるメディア研究の先駆者。1911年7月21日、エドモントン生まれ。マニトバ大学、英国のケンブリッジ大学で英文学を専攻し、16世紀英国の作家トーマス・ナッシュの研究で博士号を取得(1943年)。1946年よりトロント大学セント・マイケルズ・カレッジ(カトリック系)に赴任する。1940~50年代の米国の広告文化を考察したのが1951年の初著作『機械の花嫁』The Mechanical Brideであり、以降、メディアの変化が人間に及ぼす影響について関心を深める。1962年、視覚偏重により直線的・継起的な論理を駆使する「活字人間」の誕生を論じた『グーテンベルクの銀河系』The Gutenberg Galaxyを出版。2年後の続編『メディアの理解(メディア論)』Understanding Mediaでは電子メディアの登場で聴覚や視覚が復権し、人間の思考が非体系的で同時的になったと説いた。さらに彼は同書でグローバル・ヴィレッジという概念を強調。これは、理想郷の予言ではなく、電子メディアにより即時の伝播と同時多発性を帯びた混迷の世界像であった。メディアを「ホット」(高精細度・低参加度=ラジオ・映画・活字・写真・レクチャーなど)と「クール」(低精細度・高参加度=電話・テレビ・漫画・スピーチなど)に分類するなど、巧みな言説によって1960年代の北米で注目された(日本では1967~68年にブーム)。1980年12月31日、トロントで脳卒中により没。自身のメディア論の再構築を試みた遺著『メディアの法則』は、1988年、息子エリックとの共著で出版された。1990年代のインターネットの発達に伴い、再評価が始まり、今日ではカナダを代表する知識人として認められている。(宮澤淳一)

マクレナン,ジョン・ヒュー(MacLennan, John Hugh 1907-1990)
小説家、エッセイスト。ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島の生まれ。医師であった父親はスコットランド系移民の3代。ハリファックスのダルハウジー大学を優等で卒業。その後、オックスフォード、プリンストン大学などで学び、マッギル大学で教壇に立つ傍ら、創作活動に入る。『気圧計上昇』Barometer Rising(1941)をはじめ、『二つの孤独』Two Solitudes(1945)、『断崖』The Precipice(1948)と次々に作品を発表、文学を通してカナダに内在する本質的な諸問題を追求した。さらに『各人の息子』Each Man’s Son(1951)、『夜の終りを告げる時』The Watch That Ends the Night(1959)において、問題を国家のアイデンティティから個々人の内面性に移し、カルヴィニズムの観点に立って、人間の罪意識、愛と死の問題に言及した。マクレナンは小説以外にも、『クロスカントリー』Cross Country(1949)、『スコットランド人の帰還』Scotchman’s Return(1960)など、すぐれたエッセイ集を書き残し、小説を含め4つのカナダ総督賞に輝いた国民的作家である。(千田明夫)

マーティン、ポール (Martin, Jr. , Paul Edgar Philippe, 1938-)
ポール・マーティンはカナダの実業家・第27代カナダ連邦首相(在任2003年?2006年)。外交官で自由党国会議員・厚生大臣として優れた社会福祉政策の立案者として著名なポール・ジョセフ・マーティンを父としてオンタリオ州ウインザー市に1938年に生まれる。トロント大学・同法科大学院を修了後1966年に司法試験に合格する。モントリオール所在カナダスティームシップ会社に就職し、同社を国内貨物事業会社からグローバル貨物企業 へと成長させ、1981年にその所有者となった。
 政策としては同性婚の合法化や医療制度改革などを断行した。対外的には温室効果ガス排出の削減目標を各国に割り当てる京都議定書に反対した米国とは環境問題や貿易問題などで対立し課題を抱えた。2005年11月、クレティエン首相の下でケベック州の反独立を推進するための政府の広告費が代理店通して自由党に渡ったという「スポンサーシップ疑惑」など前首相の政治的腐敗が公表されると、自分自身の潔癖は保つことができたものの、下院で内閣不信任案が可決され、辞任に追い込まれた。翌年の総選挙でS・ハーパーの率いる保守党に敗北し、自由党党首を辞任し政界から引退した。(水戸考道)

マッギル大学(McGill University)
ケベック州モントリオール市およびその近郊にキャンパスがある、創立1821年のカナダ最古の大学。イギリス人毛皮商人のジェームス・マッギルの寄付により創立される。カナダを代表する総合大学のひとつで、研究大学としても世界的に高い評価を得ている。フランス語圏のケベック州にあるが、授業は基本的に英語で行われるなど、独自の教育ポリシーをもつ。特に医学部が有名で、カナダ初の医学部を設立している。またモントリオール市内に教育関連病院を持ち、マッギル大学健康センター(McGill University Health Centre)を形成している。これまで複数の首相やノーベル賞受賞者を排出している。(大岡栄美・岸上伸啓)

マックマスター大学(McMaster University)
オンタリオ州のハミルトンにあり、伝統的に医学と工学に強く、70以上の研究機関と31,000人を超える学部・大学院生を抱え、世界ランク80位(Times Higher Education, 2022)という優秀な研究大学として知られる。1887年中部カナダでバプティスト教会によって創設。上院議員ウィリアム・マックマスターの資産提供で、その名が冠されている。大学は立法議会の下で認可され、当初はトロントのマクマスター邸で開校、1930年に現在地のハミルトンへ移った。1957年に特定の宗派に属さない個人的な高等教育機関になる。神学部はバプティスト教会の下に置き、他学部として人文学部を組織、後に医学部、1974年に経営学部、人文学部、社会科学部などを増設し今日に至る。(杉本公彦)

マッケンジー,ウィリアム・ライアン(Mackenzie, William Lyon 1795-1861)
アッパー・カナダの改革者、ジャーナリスト。スコットランド生まれで、1820年にアッパー・カナダ植民地に移住し、1824年、『コロニアル・アドヴォケイト』紙を創刊。同紙を通じ、改革派の主張を伝え、アッパー・カナダの寡頭支配であるファミリー・コンパクト(家族盟約)及びその支持者を攻撃した。1828年の選挙で植民地議会議員に初当選し、1834年にはトロント市初代市長となった。住民には人気があった一方、ファミリー・コンパクトとその支持者からは敵視され、1831年から34年の間に5回も議員除名された。当初は、イギリスの制度の枠内での改革を主張していたが、1835年に急進化し、選挙制の立法評議会を主張し、穏健な改革派と袂を分けた。1837年秋、ロワー・カナダでパピノーの反乱が勃発すると、それに合わせ12月にトロントで蜂起したが、広く住民の支持を得ることができず、直ちにアメリカに亡命した。1838年、アメリカ側から国境付近を攻撃したが、失敗に終わった。1849年恩赦によりアメリカから戻ると、ジャーナリスト、政治家としての活動を続けた。1861年、亡命から戻ったマッケンジーのために彼の支援者が用意したトロント、ボンド・ストリートの家(現在は記念館)で死去した。 (木野淳子)

マッセイ,ヴィンセント(Massey, Charles Vincent 1887-1967)
カナダ・カウンシル創設の提言者で、カナダ最初のカナダ出身総督。マッセイの輝かしいキャリアは、1926年に初代駐米公使に任命されたことから始まる。1935年から戦争を挟んで1946年まで駐英高等弁務官を務め、「習慣も態度も、英国人より英国的」と言われた。1949年には、カナダ最高の文化人として、カナダの文化的発展を目指す「芸術・文芸・科学の国家的発展に関する政府委員会」の委員長に任ぜられた。その報告書(いわゆる「マッセイ・レポート」)は、「芸術、文芸、人文科学、社会科学の奨励のためのカナダ・カウンシル」の設立およびカナダ放送協会や大学などに対する政府助成の拡大を進言したことで知られる。1952年には、それまで英国人が占めていた総督の地位にカナダ人として初めて任命され、カナダ国民の尊敬を受けて1959年まで職責を果たした。それ以降、英国系カナダ人とフランス系カナダ人がほぼ交互に総督に任命され、1999年以降はそれ以外の民族的出自を持つカナダ人も任命されている。(吉田健正)

マニトウ(Manitou)
マニドゥ(Manidoo)ともいう。東部森林地帯に住むアルゴンキン語系に属する集団(オジブワ、クリー等)の言葉で、「不可思議」「神秘」「霊的存在」「神」を意味する言葉。あらゆる自然現象、動植物は、これらの「作用」「働き」「あらわれ」としてみなされる。厳しい自然環境に住む民の中に深く根付いたこの概念は、自然を克服、支配するのではなく、自然を受け入れ自然と共に生きるという教えとして、様々な民話を通しても語り継がれている。(広瀬孝文・岩﨑佳孝)

マニトバ学制問題(Manitoba Schools Question)
1870年のマニトバ州連邦加入にあたり、1867年憲法第93条「教育」がマニトバ法によって同州のために修正され、1871年の同州学校法によっても確認された。同条は宗派上の少数派擁護を目的として公立学校の宗派別設置を認めたもので、マニトバ法の修正によってもその内容の根本は変更されず、プロテスタントとカトリックの宗派別公立学校制度が存続した。当時は、プロテスタント系学校は英語、カトリック系学校はフランス語を教授言語としていたので、教授言語に関する明確な法制化は行われなかった。1890年、州政府はカトリック系学校への公費支出を廃止した。これはフランス語による公立学校教育の廃止も意味した。この制度改正への反対運動は訴訟事件に発展し、1896年の連邦選挙にまで影響を及ぼした。その後若干の緩和策はあったが、多くのフランス系住民が母語を失っていった。
この事実は1970年代になって少数派擁護の観点から問題視され、1978年にマニトバ州は初等・中等教育の私立学校に対する財政支援を本格的に実施するようになった。1993年、カナダ最高裁は同州の学校法が1982年憲法に違反しているとの決定を下し、フランス語系公立学校が再び設置されるようになった。(小林順子/溝上智恵子)

マニトバ州(Manitoba)
西部平原3州の東端にあり、東はオンタリオ州、西はサスカチュワン州、北はノースウェスト準州とハドソン湾に接する。面積は650,087km2であり、ウィニペグ湖・マニトバ湖をはじめ多くの湖がある。カナダ全土の6.5%にあたる。人口約134万人(2021年)は、州別では第5位である。穀倉地帯であると同時に、北部には水カ発電が盛んで電力を輸出している。東欧からの移民が比較的多く、英語・仏語の他に多文化が栄えている。レッドリバーとアッシニボインリバーとの流域を中心に発展しているが、国道1号線(トランス・カナダ・ハイウェイ)沿いに州都ウィニペグやブランドンが点在する他には大都市はない。ライディング・マウンテン国立公園や州立公園が多い。州花はプレーリークロッカスで、バイスンが州旗にデザイン化されている。マニトバ大学、ウィニペグ大学、ブランドン大学がある。ウィニペグにかつてカナダ小麦局がおかれるなど、農業関係の施設が多い。オンタリオ州境の近くがカナダ東西の中央点である。(草野毅徳)

マニトバ大学(University of Manitoba)
マニトバ大学は州都ウィニペグにある州内最大の州立総合研究大学である。1877年に制定されたマニトバ大学法(University of Manitoba Act)のもと、キリスト教系の教派の異なる3カレッジが連合を組んだことを起源としている。複数のキャンパスやセンターを有しており、メインキャンパスのフォート・ゲリー・キャンパスはウィニペグの南方郊外に位置し、4カレッジ・60以上の学部・研究科および研究所が置かれている。ウィニペグの中心部にあるバナタイン・キャンパスには、医学、歯学、薬学、看護学、理学療法学といった医学系の教育・研究組織が置かれ、またダウンタウンに立地している2つのセンターには応用系の社会福祉学部と経営学部を構えている。生物・農業・獣医系にも強く、ウィニペグの20キロ南には多様な農園や植物園を有する広大なグレンラ研究センターを構える。キャンパスが地域の4先住民族の伝統領域とメイティの故郷に建てられた歴史を踏まえ、近年は各先住民族やメイティとの関係改善にも取り組んでいる。(山田亨)

マンロー,アリス(Munro, Alice 1931- )
短篇作家。故郷オンタリオの閉鎖的な田舎町等を背景に、女性、あるいは芸術家として、人生の真実を探る主人公を描いた秀作が多い。総督文学賞3回。国際的名声も高い。代表作『幸せな影法師の踊り』Dance of the Happy Shades(1968)、『娘たちと女たちの生活』Lives of Girls and Women(1971)、『愛の進展』The Progress of Love(1986)、『若き目の友』Friend of My Youth(1990)他。(堤 稔子)

マリア・シャプドレーヌ(Maria Chapdeleine)
フランス人であるルイ・エモン(Louis Hemon 1880-1913)によって書かれ、1916年に出版された中編小説。当時フランスでベストセラーとなる。エモンは1911年からおよそ1年半ケベックに滞在し、その時の経験をもとに同小説を書き上げた。小説では主人公マリアの恋愛を中心に、過酷な自然状況の下で慎ましく暮らす当時のケベック開拓者一家の生活が情感をこめて描かれている。恋人や実母の死を乗り越えて懸命に生きるマリアは、民族の誇りを語りかける「内なる声」を聞く。そしてマリアは自分の運命とケベックの進むべき道が実は重なり合っていることを自覚するのである。なお同小説の邦題は『白き処女地』。(寺家村 博)

ミーチレーク協定(Meech Lake Accord)
ミーチレーク協定は、1987年6月、ブライアン・マルルーニ連邦首相とケベック州ロベール・ブーラサ首相を含む10州首相によってミーチ湖畔で調印された、1982年憲法改正についての合意である。1982年まで、カナダ憲法の改正権はイギリス議会が有していたが、その発動は連邦と全州の合意による改正の申し出に基づくという慣行が認められていた。しかし、イギリス議会による最後の憲法改正となった1982年憲法制定については、ケベック州の同意なく行われたために、同州は、同憲法施行後もその受け入れを拒否していたのである。この問題を解決するため、ケベックの要求を容れた憲法改正を行い、カナダの統合維持を図ろうとしたのがこの協定であり、ケベックを「独自の社会」(distinct society)として位置付けること、一部の連邦憲法条項改正にケベックを含む全州の一致を必要とすること、移民に関する州の役割の拡大等の内容を含んでいた。この協定に基づく憲法改正は、1990年6月23日まで連邦及び10州全議会での承認により成立するとされたが、ニュー・ブランズウィック及びマニトバ州議会が承認を与えず、不成立に終わった。(佐藤信行)

ミーンズテスト(Means Test)
ミーンズテストとは、社会保障の一環として実施されている公的扶助の受給に際して行われる申請者の資産等を供給者たる行政が実施する調査のことである。カナダの場合、最低生活水準としての保護基準は州によって異なるが、この申請者の所得水準が貧困ライン(poverty line)を下まわっているか否かを調査する方法として所得調査が行われることが多い。この調査は申請者にスティグマ(Stigma、恥辱)を与えることがある。スティグマが残るために、申請者は公的扶助の申請をためらうことに繋がりかねない。いずれの国においても、この心理的抵抗を解消することが課題となっている。(岡本民夫/広瀬義朗)

ミッチェル,ジョニ(Mitchell, Joni 1943- )
シンガーソングライター。地元西部カナダやトロントのナイトクラブなどで歌っていたが、その後合衆国へ移住。1968年に作詞作曲した『青春の光と影』(Both sides, now)が大ヒット。彼女自身はアルバム『青春の光と影』(Clouds, 1969)の中で歌っている。そのジャケットの自画像を含め、自分のアルバムのデザインを手がけ、画家・写真家としても知られている。CSN&Yと親交。アルバム『ブルー』(1971)はフォーク・ロックの名盤として今でも高い評価を受けている。1970年代後半にはジャズに傾倒。1997年にロックの殿堂入り。多くのアーティストに影響を与え、2007年H.ハンコックがジョニに捧げたアルバム『リヴァー』に本人もゲストとして参加、アルバム部門でグラミー賞の最優秀賞を獲得。(小畑精和)

ミッチェル,W.O.(Mitchell, W.O.1914-1998)
サスカチュワン州生まれの平原州を代表する劇作家、小説家である。とくに『誰が風を見たか』Who Has Seen the Wind(1947)は、少年のナイーヴな目を通して見た平原の町における人生の諸相を描いた傑作である。ほかにインディアン居留地の教師の苦闘を描いた『消失点』The Vanishing Point(1973)や画家を主人公にした『芸術のため』For Art’s Sake(1992)などがある。(浅井 晃)

ミドルパワー外交
第二次世界大戦後、カナダは自国を「ミドルパワー」?大国でも小国でもない中堅国であり、かつ、複数の国家間を仲立ちする仲介国?と位置付けてきた。カナダにとっては、アメリカ合衆国など大国との良好な関係を維持することこそが国益にもっとも適うはずだが、中堅国・仲介国としての機能を果たすべく、時に大国の意に染まない独自の外交路線を推し進めてきた。それがカナダにとって国際社会における自国の存在意義に関わるからであろう。ミドルパワー外交の代表的事例とされるのが1956年のスエズ危機への対応である。エジプトのスエズ運河国有化宣言に対して、イスラエルの他、イギリスとフランスが当事者として関わったために国連安全保障理事会が機能しない状況で、カナダ外相レスター・ピアソンの提唱で大国抜きでの多国籍国連緊急軍(初の多国籍でのUNEF)が派遣された。ピアソンはその功績でノーベル平和賞を受賞したが、「世界の警察」であろうとするアメリカ合衆国とは異なり、「平和維持」を重視するミドルパワー認識は、カナダ国民から強く支持されて、国連平和維持活動は、その後長らくカナダ外交の象徴と化した。ただし多くの研究者は、ミドルパワーという認識は曖昧であまりにも単純化された概念であり、必ずしもカナダ外交の実態を捉えていないと批判的に見ている。(田中俊弘)

ミンカム(MINCOME)
1970年代半ばにマニトバ州で実施された、一種のベーシックインカムの実験。ミンカムとは、「最小限の所得(Minimum Income)」を元にした造語である。ちょうどアメリカ合衆国でも、「貧困との戦い」が宣言され、負の所得税(Negative Income Tax)などが具体的に提案されていた時代に、カナダでは1974年から5年間かけて、マニトバ州ドーフィンなどで一定収入以下の全員を参加対象者とする大規模な実験が行われた。実験参加者に生活に必要なお金を配ることで、それが本当に貧困対策になるのか、また、働かなくなるなどの問題が生じないかといった検証がなされたのである。結果として、危惧された労働意欲の低下は深刻ではなく、期待された貧困対策としては一定の成果がみられた。学校中退率が低下し、精神疾患や疾病も減少している。ただし、これらは、正式な検証結果ではない。最大の問題は、この実験が不況による財政難と政権交代などにより、途中で打ち切られてしまった点にある。最終的な報告書が作られず、実験データすら、忘れ去られて放置されていた。この教訓を踏まえたはずの2017年のオンタリオ州のパイロット実験も、同様に政権交代で中断されてしまうこととなる。(田中俊弘)

ミント(Royal Canadian Mint, 造幣局)
1907年までカナダの貨幣はロンドンのロイヤル・ミントで主に鋳造されていたが、1908年にロンドン造幣局の支所がオタワに開設された。1931年のウェストミンスター条約により自治領がイギリスと対等の地位を確立した結果、オタワの造幣局支所はロンドンから独立して、ロイヤル・カナディアン・ミントと改称された。その後、ハルに支所が、ウィニペグにも造幣局が開設された。オタワとウィニペグの造幣局ではメイプルリーフ金貨をはじめとするカナダの貨幣とともに、いくつかの外国の貨幣も鋳造している。(松原豊彦)

民話
民話とはイーディス・ファウクが『カナダのフォークロア』(Folklore of Canada,McClelland and Stewart 1979)において指摘している民間伝承(フォークロア)の一部を構成するもので、口述で伝えられているものまた既に記述されているものという違いがあるが、言葉によるある種のストーリ性をもつものをさして言われる。それらは必ずしも古い時代のものというよりそれらが今にいたるまで何らかの方法によって語り継がれているという要素が決め手である。自らの共同体の起源、信仰・習慣・事象の淵源、生きぬいてきた歴史を語り継いでいくことを意図したもの、それらが神話と再分類されることもあるが、また、ある地域の人物や連中の行状記を面白く綴り伝えるものもある。カナダには、民話を作ってきた人たちから分類して4種類のものがある。すなわち、元々の住民であるインディアンたちのそれ、またフランス系カナダ人たちのもの、それに、アングロ系(アイルランド、英国など)カナダ人のもの、最後に種々のエスニック系(ウクライナ、ユダヤ、その他多くの地域から移ってきた人たち)のものとに分けられる。カナダでは、上記4つの系の民話そのものが多く蒐集されているだけでなく、それらについての研究も進んでいる。先にあげたファウクの書物、浅井晃氏の『カナダの風土と民話』(こびあん書房、1992)が参考になる。(多湖正紀)

ムーア,メイヴァ(Moore, Mavor 1919-2006)
プロデューサーや批評家、さらに演出家や俳優として多彩な才能を発揮し、その活躍の場は演劇に限らず、ラジオやテレビなど多方面に渡り、カナダの芸術分野に大きく貢献した。1946年には、俳優であった母親ドラ・メイヴァー・ムア(Dora Mavor Moore)と共同で「ニュー・プレイ・ソサエティ」をトロントで創設し、中心となって活躍した。また、カナダ国営放送局でプロデューサーとしての職に就き、数々のテレビ番組の制作にかかわった。しかし演劇に対する情熱が失われることはなく、その後、シャーロットタウン・フェスティヴァルや、セント・ローレンス・センターの創設にも従事し、カナダにおける演劇人の活躍の場を積極的に広げ、カナダ演劇の発展に寄与した。オペラやミュージカル作品も残しており、中でも特筆すべきは、ハリー・ソマーズ(Harry Somers)作曲のオペラ『ルイ・リエル』(1967)である。ムアが共同で台本を執筆したのだが、カナダの建国100周年を祝って委託されて作られたという点においても重要な作品である。(宮澤淳一)

ムース
和名はヘラジカ。ムースという呼称は、動物記を書いたシートンによれば、イギリスからの移民が先住民クリー語のヘラジカmoos-wa(「木の小枝を食べるもの」の意)を借用したところからきているという。ヨーロッパではヘラジカはエルクと呼ばれていたが、イギリスからの移民は農民が多くヘラジカを知らなかったため、現地の言葉を採用したと考えられる。現在北米ではエルクはアメリカアカシカを指す言葉として用いられている。
 シカ科最大の動物であるヘラジカは北米では4つの亜種に分類される。このうち最大の大きさを誇るアラスカムースでは、雄の成獣で体調300cm、体高185cm、600キロにもなる。オスの手のひらのような形の枝角、大きく垂れ下がった口唇、喉の「ベル」と呼ばれる肉垂れによって特徴づけられる。夏は広葉樹の葉や水草を好んで食べるが、冬季には灌木の枝、樹皮なども食べる。
 カナダ北方の狩猟小屋の入り口にはヘラジカの角が飾られるなど、狩猟の獲物としても人気が高い。先住民にとっては、重要な資源であり肉を食料とするだけでなく、鞣した皮からモカシンやドラムなど様々な道具が作られる。(山口未花子)

ムーディ,スザンナ(Moodie, Susanna 1803-1885)
イギリスのサフォーク州生まれ。19歳ですでに小説を出版する。1832年、夫と5ヵ月の娘とともにアッパー・カナダに移住したムーディは、それから7年間、未開の荒野で厳しい開拓生活を送る。夫が州長官になり、ベルヴィルに移った後、著作活動を再開した。彼女の開拓生活は『奥地の生活に耐えて』Roughing it in the Bush(1852)と『開拓地の生活』Life in the Clearings(1853)の2冊に描かれている。(平林美都子)

村岡花子(1893~1968)
村岡花子は『赤毛のアン』『少女パレアナ』『王子と乞食』『フランダースの犬』など時代を越えて愛読されている英米文学を翻訳する一方で、童話や随筆も数多く執筆した。また、女学生の頃から矯風会活動に加わり、女性の地位向上のため、子どもたちの生活を豊かにするために様々な婦人運動、社会活動にも積極的に取り組み、教育分野や評論活動においても活躍し、政府の各委員会、文化団体の役員なども歴任した。
 山梨県甲府市に生まれ、カナダ人の女性宣教師が創設した東洋英和女学校に、1903年(明治36年)に給費生として入学し10年にわたる寄宿舎生活を送る。1913年(大正2年)に東洋英和女学校高等科を卒業し、山梨英和女学校で英語教師を5年間勤めた後、銀座の日本基督教興文協会(現 、教文館)の編集者となる。
 1919年(大正8年)に印刷会社を営む村岡儆三と結婚し、翌年には長男の道雄が誕生するが、1926年(大正15年)に道雄を病気で亡くしたことをきっかけに、日本中の子どもたちのために外国の家庭文学を紹介していくことを自らの使命とし、1927年(昭和2年)にマーク・トウェイン作の『王子と乞食』を翻訳出版する。以後、翻訳家としての地位を確立していく。
 1931年(昭和7年)にはJOAK(NHKの前身)の嘱託となり、子ども向けニュースの解説をするラジオ番組「子供の新聞」のコーナーを受け持ち、「ラジオのおばさん」として全国で親しまれ、太平洋戦争開戦まで担当を続けた。
 1930年代以降、緊迫していく国際情勢の中、村岡花子はカナダに帰国する宣教師ロレッタ・ショーからL.M.モンゴメリ作のAnne of Green Gablesを託される。その物語は、ショーにとっては少女時代の思い出につながり、花子にとっては東洋英和女学校の寄宿舎での生活や共に過ごしたカナダ人の恩師たちに通じるものであった。太平洋戦争の開戦とともに敵国人となったカナダの恩師たち、友人たちへの友情の証として秘密裏に翻訳が進められたAnne of Green Gablesは戦後、1952年(昭和27年)に『赤毛のアン』として出版され、多くの日本の少女たちを魅了し、現在に続くロングセラーとなった。
 村岡花子は生涯カナダの地を訪れることはなかったが、75歳で亡くなるまでカナダとの深い心の結びつきが消えることはなかった。(松本郁子)

メイプル街道
観光用キャッチフレーズとして近年使われ始めたもの。ナイアガラの滝からオンタリオ湖岸、セント・ローレンス川に沿ってケベック市に至るクイーン・エリザベス・ハイウェイ(Queen Elizabeth Highway)を主軸とする延長約1,000kmのコース。カナダでは「文化遺産の道(Heritage Highway)」と呼ばれる。ナイアガラ・オン・ザ・レーク、トロント、キングストン、ケベック市という歴史的観光都市が列なり、沿道にカナダ国旗のデザインになっている大型カエデMapleの木が多いのでこの名がある。名前どおり、秋の紅葉の時期が美しい。(大島襄二)

メープルシロップ(Maple Syrup)
サトウカエデの樹液を煮詰めて濃縮した甘味料である。フランスからの開拓移民が北米の先住民から製造方法を伝授された。カルシウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラルに富む。カナダは世界のメープルシロップの85%を産し、中でもサトウカエデの自然林が多く分布するケベック州はカナダ産メープルシロップの93%を占める。直径30センチ以上の木に差し込んだチューブから麓の砂糖小屋に集められ40分の一まで煮詰められる。まだ地面に雪が残り、寒さの厳しい採り入れの初期に採れる琥珀色の度合いの薄いメープルシロップが高級品である。さらに濃縮されたものがメープルシュガー、メープルバターとなる。ケベックでは長い冬を越して、春の訪れを祝う風物詩の意味合いがある。(友武栄理子)

メイティ(メティス)(Metis)
本来はフランス人毛皮交易者とファースト・ネーションズ(旧称インディアン)またははイヌイットとの混血。後にイギリス人毛皮商人を父とする者も広義にはこう呼ばれるようになった。当初はバッファローの狩猟やハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company)の雇人として働いていた。18世紀後半頃からレッドリバー植民地を中心に、平原地帯の東端から南方にかけて居住したが、毛皮交易の推移と共に北部森林地帯へも広がって行った。ファースト・ネーションズと違って彼らはポテトなどの耕作も行い、宗教ポストとしての集落を営んだ。政治的・経済的・社会的によく組織された誇り高き集団であった。しかし歴史的には不遇であり、特にカナダ建国後は、彼らの土地所有権を認めず敵視さえしがちのヨーロッパ出身の系入植者によって、生活権を脅かされ始めた。彼らはルイ・リエル(Louis Riel)の下に結集して、1869年と1885年の2度に渡って反乱を起こしている。その後も、公認(有資格)インディアン(Status Indian)と同等の法的地位を要求し続けたが成功せず、1982年の憲法改正によって、漸く彼らがカナダの先住民の1つであることが公認された。1992年、彼らはファースト・ネーションズやイヌイットと共に、先住民としての自治権の正当性を連邦と州に認めさせたが、貧困や生活条件の不利といった現実的問題を解決するには至っていない。(江川良一)

メノナイト(Mennonites)
16世紀初頭の宗教改革で成人の洗礼を主張した再洗礼派教徒のオランダ人メノ・シモンズが組織した宗教集団。現在、41ヵ国に73万人、カナダには10万人ほどが住む。カナダへの移住は、アメリカ革命後に始まり、主に平原州を中心に定住しており、本部はウィニペグにある。社会変化を受け入れないでドイツ語の方言を話し数百年前の生活様式を維持しようとする保守派と、社会の変化に柔軟に対応しようとする進歩派とに大きく分かれる。アーミッシュは17世紀のスイスに起こったより保守的なメノナイトの一派。(広瀬孝文)

メディケア
医療保障制度 参照

メディスン・ハット(Medicine Hat)
メディスン・ハットはアルバータ州南東部にある市。1906年に市制を施行した。人口は約6万3千人(2021年)。地名の由来は、先住民の言葉で「Saamis」(伝統医術を行う者の帽子)を英訳したものであると言われている。1883年にカナダ太平洋鉄道メディスン・ハットまで拡張し、市の中心を流れるサウス・サスカチュワン川を跨ぐための鉄橋建設に合わせて町が発展した。現在、天然ガス採掘やレンガ生産が同地域における主要な産業となっている。また、郊外にはカナダ軍のサフィールド基地がある。(吉田謙蔵)

モゥワット,ファーリー(Mowat, Farley 1921- )
オンタリオ州生まれだが、しばしばカナダの北極圏に長期滞在し、その体験を基にして北極圏の自然・環境問題を主題にした多数の小説、評論を書いている。『オオカミよ、なげくな』Never Cry Wolf(1963)などの子供向け物語の中にも、あるいは、評論『今日の極北カナダ』Canada North Now(1976)の中にも、現代文明によって危機に瀕している自然環境、野生動物、先住民族に対するモゥワットの側隠の情が表明されている。(南 良成)

モザイク社会
歴史的にみて、カナダは世界でも有数の移民受け入れ国である。その受け入れた移民がカナダ社会においてどのようになることが期待されているか、カナダの移民受け入れの理念は何かは、時代によって異なる。19世紀には、フランス系カナダを除いて、エスニック集団はイギリス系多数派集団に同化することが理想と考えられた。しかし、その理想は、多様な人口が混じり合って新たなエスニック集団が作られるという「人種のるつぼ」論(アメリカ合衆国が好例)に取って変わられた。さらにその考えに代わってカナダ社会に受け入れられたのが、「モザイク」という理想である。この考え方では、多様なエスニック集団がそれぞれのエスニック集団の文化的特性や特徴を保持しながら、まとまってカナダ社会を形成することになる。「モザイク」の概念は1970年代のマルチ・カルチュラリズムの先駆である。カナダのモザイクは、時代によって新たな移民を受け入れつつ、変化してきていると言えよう。(飯野正子)歴史的にみて、カナダは世界でも有数の移民受け入れ国である。その受け入れた移民がカナダ社会においてどのようになることが期待されているか、カナダの移民受け入れの理念は何かは、時代によって異なる。19世紀には、フランス系カナダを除いて、エスニック集団はイギリス系多数派集団に同化することが理想と考えられた。しかし、その理想は、多様な人口が混じり合って新たなエスニック集団が作られるという「人種のるつぼ」論(アメリカ合衆国が好例)に取って変わられた。さらにその考えに代わってカナダ社会に受け入れられたのが、「モザイク」という理想である。この考え方では、多様なエスニック集団がそれぞれのエスニック集団の文化的特性や特徴を保持しながら、まとまってカナダ社会を形成することになる。「モザイク」の概念は1970年代のマルチ・カルチュラリズムの先駆である。カナダのモザイクは、時代によって新たな移民を受け入れつつ、変化してきていると言えよう。(飯野正子)

森の走者(Coureur de Bois)
クールール・デ・ボワを参照。

モンクトン(Moncton)
ニューブランズウィック州南東部の都市。世界で最も干満の差が激しいことで知られるファンディ湾の最奥部から近く、プチコディアック川の湾曲部に位置している。都市名は18世紀半ばのイギリスの軍人であり、ノヴァスコシア植民地の副総督を務めたモンクトン(ただし、つづりはMonkton)に由来する。
豊富な森林資源を背景に、19世紀半ばに造船業が発達したものの、帆船の時代の終焉とともに、いったんは衰退する。しかし、1871年にインターコロニアル鉄道の拠点となったことで復活をとげ、1875年に再び市制が施行された。
 モンクトンの発展の原動力は、ニューブランズウィック州とノヴァスコシア州とを結ぶ細長い陸地であるシグネクト地峡からほど近いというその位置にある。ニューブランズウィック州内各地から陸路でノヴァスコシア州に向かうには必ずモンクトンを経由しなければならないために交通の要衝となった。また、プリンスエドワード島にも近く、とくに1997年にノーサンバーランド海峡をまたぐコンフェデレーション橋が完成すると、プリンスエドワード島観光の拠点のひとつとなった。
 交通・運輸以外の主要産業としては、コールセンターが多く立地しているのが特徴的である。その背景として、アカディアンとよばれるフランス語を母語とする人口が約3分の1を占めており、フランス語と英語に堪能な二言語話者が多いことがあげられる。
 現代のモンクトンは、アカディアン社会の中心地としても重要である。とくに、1963年に開学したモンクトン大学の存在は大きく、州内各地からアカディアンの若者が集まる都市となっている。モンクトン大学はフランス語でコモン・ローを教授する世界初の大学という点で異色の存在でもある。
 モンクトンには、モントリオールとハリファクスとを結ぶVIA鉄道のオーシャン号が停車する。また、2000年代初頭に拡張されたグレーター・モンクトン・ロメオ・ルブラン国際空港が立地し、カナダの諸都市と空路で結ばれている。(大石太郎)

モンゴメリー,ルーシー・モード(Montgonmery, Lucy Maud 1874-1942)
カナダ東部プリンス・エドワード島生まれの女流作家。代表作は、『赤毛のアン』(Anne of Green Gables,1908)。1歳9か月で母親と死別し、プリンス・エドワード島のキャベンデッシュに住む母方の祖父母に引き取られ、孤独な幼少期を過ごした。15歳で、再婚生活を送っていた父親と暮らし始めるが、継母と折り合いがつかず、わずか1年で島に戻ることとなる。25歳の時に父親も亡くした。幼少期から詩や?説などを投稿しており、教師時代、更には新聞社で勤務していた時期も作家になる夢を諦めず、執筆活動を続けた。 ハリファックスの?学で英?学を学んだ時期もあった。投稿してもなかなか採?されなかったが、『赤毛のアン』で成功をおさめて、67 歳で亡くなるまでに、数々の作品を出版している。『赤毛のアン』の主人公アンは、作者の孤独な少女時代と重なる部分も多い。祖父母の死後、かねて婚約中であった長老派教会の牧師と結婚した。故郷を離れ、夫の赴任先であるオンタリオ州へと移り住み、2児の母親となるが、出版社との長引く裁判や夫の病など苦労もあった。1942年、モンゴメリはトロントで死去するが、愛してやまない故郷プリンス・エドワード島のお墓に眠っている。(石井英津子)

モントリオール(Montreal)
ケベック州南西部、セント・ローレンス川とオタワ川が交わる三角州に位置する、人口約352万人(大都市圏では400万)のカナダ第2の大都市。毛皮を求めて到来するフランス人と先住民との対立は17世紀にフランス軍が来るまで続き、1760年にイギリスの支配下に置かれてからも、経済の中心は毛皮取引であり、モントリオールは毛皮取引で発展したといわれる。その後、国際貿易と製品輸送の中心となり、19世紀後半から工業が主要産業となる。今日では、貿易と工業とサービス業が、この国際都市の経済活動の中心である。19世紀初めにイギリスからの移民が増加し、他の国からの移民も多数入ってきたにもかかわらず、イギリス系人口が過半数を占めるに至った。しかし1867年以降はフランス系人口が過半数を占めることになり、現在に至るまで北米におけるフランス(語)系の都市としてユニークな文化を保持してきている。2016年国勢調査によると、モントリオール大都市圏の住民のうち63%がフランス語を、11%が英語を、そして22.5%がその他の言語を第一言語としている。2011年の、それぞれ70%、14%、16.5%と比較すると、仏・英以外の言語の使用が増えていることがわかる。カナダに入国した移民が定住先としてモントリオールを選んでいることを示している。これらの移民がモントリオールの保持してきた文化をどのように変えていくのか、あるいはモントリオールのユニークさは不変か、議論の分かれるところである。(飯野正子)

モントリオール議定書(Montreal Protocol on Substances that Deplete the Ozone Layer)
1985年のウィーン条約に基づき、1987年に採択、1989年発効された「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」(正式名称)は、オゾン層を破壊する可能性のあるフロンガスやハロンガスなどの生産、消費の規制措置(全廃)を定めたものである。代替フロンとして用いられていたハイドロクロロフルオロカーボンも、温室効果ガスの影響が強力であることがわかり、全廃となった。2010年11月に開催された第22回締約国会合(バンコク)では、オゾン層破壊物質バンク対策やハイドロフルオロカーボンの扱いが議論されている。2010年11月現在、締約国は196ヵ国にのぼる。(新山智基)

モントリオール・グループ
1920年代にマッギル大学にいたJ.M.スミス、F.R.スコット、エイブラハム・クラインらの詩人は、T.S.エリオットの影響のもと、当時カナダ詩壇に優勢だったロマンチシズムを批判してマッギル運動を起こした。雑誌『マッギル隔週評論』McGill Fortnightly Review を発行した。レオ・ケネディやE.J.プラットらも加わり、1930年代まで続いた。彼等はモントリオール・グループとして知られた。(浅井 晃)

モントリオール大学(Universite de Montreal)
ケベック州モントリオール市内にあるフランス語系の公立の総合大学。1878年ラヴァル大学(北米最古のフランス語系大学)の分校として開設され、1920年独自の大学となる。神学、法学、医学、学芸、環境デザイン学、文理学、歯学、薬学など200を超す専攻コースを開設している。付属のモントリオール理工科大学、モントリオール商科大学(HEC)を含めると学生数は約70,000人(2021年)。フランス語系の大学としてはパリ大学についで世界2番目の規模を誇る。ヨーロッパ、アフリカ、中東からの留学生が多い。(友武栄理子)

モンロワイヤルの丘(Mont-Royal)
モンレアル(モントリオール)の町の中央に位置する小高い丘。「王の山」を意味する中世フランス語はMont RoyalとMont Realの二つの表現があった。丘の名は前者が、町の名は後者が現在まで残った。サン・ローラン河を遡ってきた探検家ジャック・カルティエがこの地に辿りついたとき(1535年)、丘に登り周囲を見回し、この丘をフランス国王フランソワ1世に捧げたのが名の由来。今でも町の象徴であり、山頂部は公園として、冬場にはスケート場や簡易ゲレンデも設けられ、四季を通じて市民の憩いの場となっている。町の中心部に近い南斜面西側には英系の高級住宅街「ウェスト・マウント」、北斜面東側に仏系の高級住宅街「ウートルモン」があり、かつての英仏格差を象徴している。(小畑精和)

ヤ行

ヤング,ニール(Young, Neil 1945- )
カナダを代表するシンガーソングライター。1945年11月12日、トロント生まれ。1966年、ロサンゼルスに移住し、バッファロー・スプリングフィールドでのバンド活動を経て、1968年11月、ソロ・アルバム『ニール・ヤング』を発表。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)にも参加しつつ、1970年に第3作『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』を発表。全米1位のヒット曲「孤独の旅路(ハート・オヴ・ゴールド)」を収録したソロ第4作『ハーヴェスト』(1972年)の成功で不動の地位を得る。以後もフォーク・ロックを基調に反骨的で多彩な演奏活動を展開し、1995年には「ロックの殿堂」入り。2009年、カナダ勲章オフィサー。(宮澤淳一)

ユーコン準州(Yukon Territories)
カナダ北西部の準州で、面積53.4万km、人口35,874 人(2016年)、州都ホワイトホース。東部にロッキー山脈、北部にブルックス山脈、南西部にセント・イライアス山脈があり、全体として山がちで、広い平野はない。亜寒帯針葉樹林帯が多いが、内陸部や北極海岸にはツンドラ帯がひろがる。主産業は鉱山業で、ファロの鉛・亜鉛、メヨの銀、エンダコのタングステンなどが重要てあるが、中でもクロンダイクの金は有名である。1884年、ユーコン川支流のクロンダイク川(一帯はクロンダイクと呼ばれるようになった)の支流ステュアート州で砂金が発見され、続けてフォーティーマイルやバーチ・クリークで金鉱が発見され、一躍有名になり、ゴールドラッシュが起きた。近くのドーソンはユーコン川の河港であり、南部のホワイトホースからはアラスカのスキャグウェイに鉄道が通じている。豊かな森林・観光資源の開発は、まだほとんど行われていない。(正井泰夫)

ユダヤ系カナダ文学
ユダヤ系カナダ人によって書かれた文学であることはいうまでもないが、言語としては英語、フランス語・イディッシュ語・ヘブライ語が用いられる。多く明確なユダヤ的価値観を反映し、宗教・倫理・文化的にはユダヤ的伝統の継続性を重視する。抑圧され迫害されてきた自民族への帰属意識が強く、しばしば国外放浪やアイデンティティの不安定・分裂が主要テーマとなる。他に場所の意識、移民としての家族状況、世代間の軋轢、受難、ホロコーストの影響なども作品の対象となる。カナダにおけるユダヤ系作家の活躍は20世紀前半より見られ、主要作家はA.M.クライン(A.M.Klein 1909-1972)、アーヴィング,レイトン(Irving Layton 1912-2006)、ミリアム・ウォディントン(Miriam Waddington 1917-2004)、モーディカイ・リッチラー(Mordecai Richler 1931-2001)、レナッド・コーエン(Leonard Cohen 1934-)、マット・コーエン(Matt Cohen 1942-1999)などと多彩。(渡辺 昇)

ユトレヒト条約
1713年4月から1715年2月にかけてスペイン王位継承戦争とアン女王戦争に関して、イギリス、スペイン、フランスとその同盟国間で結ばれた一連の講和条約の総称。この条約で、イギリスはフランス・スペインの合併禁止やフィリッペ5世の復位を承認するかわりに、アン女王の英国王位の承認やヨーロッパにおけるジブラルタルやミノルカ島を、北米ではニューファンドランド島、アカディア、ハドソン湾地域をフランスからそれぞれ獲得し、北米イギリス領の拡大をみたが、フランスもケープ・ブレトン島を含むセントローレンス湾の島々を維持した。
 アン女王戦争 (Queen Anne’s War, 1702~13年)は、ヨーロッパで勃発したスペイン王位継承戦争に呼応する形で、北米大陸で起こった植民地戦争である。(下村雄紀)

ヨーク大学(York University)
ヨーク大学は、1959年に創立された、オンタリオ州トロントに本部を置く州立大学。広いキャンパス、55,000人を超える学部・大学院生、そして200を超える多様な学位プログラムを抱え、カナダで3番目に大きな大学として知られている。高等教育機関のキャンパスの中ではカナダで一番広いキールキャンパスと、英語とフランス語の両言語での教育に力を入れているリベラル・アーツを主とするグレンドンキャンパスから成る。大学院は、27の研究機関を含み、特に有名なのがオズグッドホール・ロースクールとシューリック・ビジネススクールで、国内のみならず世界中から高く評価されている。日本からの交換留学生を受け付けており、提携校には慶應義塾大学・早稲田大学・名古屋大学・明治大学・獨協大学などがある。(杉本公彦)

ラ行

ラヴァル司教(Bishop Laval, Francios de Montmorency 1623-1708)
ヌーヴェル・フランス初のカトリック司教。ケベックには1659年に赴任し、司教として1674-88年までその任にあった。その後は聖職者としてのみならず、神権政治とも言えるほど植民地の発展に“政治的”辣腕を振った。イエズス会に属し、国家教会制によるフランス本国のカトリックよりも、教皇至上主義的な教会を植民地生活の一部として根づかせ、フランス系カナダ人の精神的基盤つくりに大きな足跡を残した。ヌーヴェル・フランスが1663年に国王直轄地になると、総督・地方長官と並んで最高評議会の中心となり、その宗教的使命に基づく情熱と決断力をもって、しばしば政策を左右した。先住民ヒューロンヘの布教を通じて毛皮交易上の協力関係を築き上げた。敵対する先住民イロコイへも危険をおして精力的な伝道を押し進めたが、これは不成功に終わる。1663年、ケベックにフランス系カナダ人宣教師養成のための神学校「セミネール・ド・ケベック」を創設し、これが北米大陸初の大学である現在のラヴァル大学の基となった。(江川良一・竹中豊)

ラヴァル大学(Universit? Laval)
1852年創設。ケベック市にある北米最古の仏語系大学。ラヴァル司教が主導したケベック神学校が前身。現在は神学部、法学部、医学部等17学部、学生数約4万5千人を擁する。仏語圏独自の社会科学系研究のほか、医療系や地理・環境系研究に優れる。政治家も多数輩出。(山口いずみ)

ローウェル=シロワ報告(Rowell-Sirois Commission)
連邦結成以来70年間にわたるカナダ連邦制度の変容を包括的に検討することを課題として1937年に設立した「連邦・州関係に関する政府委員会」(1937-40年)がW・L・マッケンジー・キング自由党政権に提出した報告書。2人の委員長ニュートン・ローウェルとジョセフ・シロワの名前から、一般的には「ローウェル=シロワ報告」と称される。世界大恐慌に対して、カナダの連邦制度が十分に機能しなかったという反省を背景に検証が行われ、特に州の財政責任が増大しすぎて財政危機に陥っている点を確認して、連邦政府の財源確保や州への全国調整補助金による国富の再分配を提案した。また、年金や失業保険、そして個人、企業共に所得税を連邦政府の管轄として、その代わりに州の負債に対しては、連邦政府が責任を取るべきとの提案もなされた。この報告書の内容がその通りに実現したわけではないが、カナダの連邦制度における財政調整制度の重要な原点となったのである。(田中俊弘)

ラクロス(Lacrosse)
カナダ東部のアルゴンキン系先住民の間で始まり、世界各地に広まった北米最古のチーム・スポーツ。1638年にフランス人宣教師Jean de Brebeuf が初めてこのゲームを見て、ラケットが牧杖に似ているところからラクロス la crosse(→lacrosse)と命名したという。先住民社会では、宗教的な意味をもっていたほか、若者の戦闘訓練に使われ、また部族間の試合では賭けの対象となって勝敗が部族の経済的浮沈に影響したといわれている。19世紀以降、カナダの白人の間にも広まった。ゲームは、袋状の網を張ったラケットで固いゴムボールを投げ合いながら、相手ゴールにトスすることによって得点する。現在は、英米やオーストラリアなどにおいて盛んなフィールド・ラクロス(1チーム10人)とカナダが中心のボックス(室内)・ラクロス(1チーム7人)がある。(吉田健正)

ラサール,シュール・ド(LaSalle, Sieur de 1643-1687)
17世紀にヌーヴェル・フランスで活躍した探検家。五大湖周辺からミシシッピ川を下りメキシコ湾河口まで到達した。1643年にフランスのノルマンディ地方のルーアンで生まれ、中等学校の教員経験も持つ。その後1667年にモントリオールに渡ると、アジアへの道を求めて探検に着手した。先住民に聞いた大河オハイオ川こそが自分の目指すルートだと考えて1669年から翌年にかけてその川を探すが、発見できなかったようである。その後、1682年にはミシシッピ川を下る探検に着手して、川の全流域をフランス領と宣言すると共に、同地に国王ルイ14世に因んだルイジアナという地名をつけた。それから一旦フランスに帰国していたラサールは、1684年に300人の植民者を乗せた船でメキシコ湾に向かった。彼らとともに、ミシシッピ河口に植民地を建設しようとしたのである。しかし、到着までの過程で船の座礁などで多くが生命を落とした。彼自身も1687年、現在のテキサス州ハンツヴィルで、残っていた仲間に暗殺されて、その一生を終えた。(田中俊弘)

ラシーヌ運河(Lachine Canal)
 19世紀のカナダの発展は、セント・ローレンス川を航行可能な水路に改良することが出来るかどうかにかかっていたといってもよい。この川を交通輸送の動脈たらしめるのを妨げていたのは途中に存在する早瀬であり、大西洋からこの川を遡ってくと最初に現れた障害物はモントリオール郊外のラシーヌの早瀬であった。これを迂回するために1824年に建設されたのが全長14kmのラシーヌ運河であった。その後、この運河は大規模な水路へと改良されていったが、この運河沿いに運河用水を利用した製造工場が多数建設されたことから、カナダ産業革命の揺藍の地といわれている。(加勢田博)

ラッシュ=バゴット協定(Rash-Bagot Agreement)
1817年4月に英米間に成立した五大湖等における相互軍備制限協定。シャンプレーン・オンタリオ両湖の保有艦数は互いに1隻ずつ、他の4湖では2隻ずつとし、艦の規模は100t以内、各々の火カは18ポンド以下の砲1門と定められた。交渉に当たった駐米公使チャールズ・バゴットと、合衆国国務長官代理リチャード・ラッシュの名を取って呼ばれる協定。1812年戦争の戦後処理の1つだが、国境周辺のこの相互非武装化の試みは、その後の先例とはなりえなかった。(江川良一)

ラフォンテーヌ・ルイ=イポリート(La Fontaine, Sir Louis-Hippolyte 1807-1864)
政治家。1830年に政界入りしたラフォンテーヌは、パピノーの熱心な支持者ではあったが、1837年の反乱では武力に訴えることに反対し、仏系カナダ人の権利を守るため、むしろ英系改革派との協力を重視した。穏健な仏系改革派のリーダーとして、1841年にアッパー、ロワー両カナダが連合カナダ植民地として統合された後、アッパー・カナダの改革派R・ボールドウィンらと協力し、責任政府の実現に尽力した。議会における仏語の再度の使用を実現し、1848年に責任政府達成後の初の連合カナダ植民地首相として、保守派の反対にもかかわらず、反乱損害補償法制定や反乱者の恩赦を行い、責任政府を率いた。(木野淳子)

ラララ・ヒューマンステップス(La La La Human Steps)
モントリオール出身の振付家エドゥアール・ロック(Edouard Locke, 1954-)が1980年に結成したダンスカンパニー。ロックとメインダンサーのルイーズ・ルカバリエ(1999年まで在籍)とのコンビが作り出した作品群は、80年代に世界的隆盛を迎えたヌーベルダンスの中でもひときわ高い評価を得、コンテンポラリーダンスに革新をもたらした。ロックの作品は、正確無比なダンステクニックと映像、音楽とが融合され、圧倒的なスピード感で観客を魅了する。ロックは、ニューヨークの著名なダンス賞であるベッシー賞の他、カナダ国内の主要な振付賞を受賞。ケベック勲章、カナダ勲章も授与されている。なお、2015年で活動を停止。(曽田修司)

ランプマン,アーチボールド(Lampman, Archibaid 1861-1899)
英国国教会牧師を父としてオンタリオ州に生まれ、トリニティー・カレッジ卒業後、高校教師を経て生涯を郵政局員として過ごした。自然派詩人として鮮明で単純なイメージや語法を用い、ロマン派的伝統に拠ってカナダ特有の風景、特に荒野の音・動き・色彩を詩化して、カナダ・アメリカ両国において評価された。詩集に『きび畑の中で』Among the Millet(1888)、『大地の叙情詩』Lyrics of the Earth(1895)、『アルシオネ』Alcyone (1899)がある。(渡辺 昇)

リガ,ジョージ(Ryga, George 1932-1987)
アルバータ州出身のウクライナ系カナダ人であり、戯曲に加え、テレビやラジオ、さらに映画の脚本や、小説や詩など、幅広いジャンルの作品を残している。しかしながら、リガの名を最も有名にしたのは、代表作の戯曲『リタ・ジョーのよろこび』(1967)である。これは、植民者に搾取されてきた先住民の悲劇を扱ったものであり、先住民を描いた最初の重要な作品として知られている。オタワにあるナショナル・アーツ・センターが開館した記念すべき1969年に同センターでも上演され、さらに1971年には、ロイヤル・ウィニペグ・バレエが本作品のバレエ版を発表している。この他にも、1960年代のヒッピー文化における世代間の隔たりを描いた『草と野苺』(1969)など、カナダ社会を照射するリガの作品は、社会に潜む不均衡を鋭く描き出している。一方で、しばしば踊りや歌を巧みに取り入れ、現在と過去や、現実と虚構を混在させる劇作法は、エンターテインメント性にも特徴がある。(神崎舞)

リーコック,スティーヴン(Leacock, Stephen 1869-1944)
イギリス生まれの作家。マッギル大学の政経学部の教授を勤める。ユーモアと風刺あふれるエッセイ風の多くの作品を書いた。代表作に『小さな町の陽気なスケッチ』Sunshine Sketches of a Little Town(1912)がある。カナダのマーク・トゥエインと言われ、カナダで毎年出版される最も優れたユーモアのある作品に、彼の名を冠したスティーヴン・リーコック・ユーモア賞が与えられる。(浅井 晃)

リーニー,ジェイムズ(Reaney, James 1926-2008)
トロント大学で英文学を学び、マニトバ大学やウエスト・オンタリオ大学で教鞭をとる。傍ら、文筆活動を精カ的に行っている。文学分野でカナダ総督賞を獲得しており、カナダ国内では評価の高い詩人かつ劇作家である。代表作品として戯曲『千鳥』The Killdeer (1960)がある。(南 良成)

リエル,ルイ(Riel, Louis 1844-1885)
「レッドリバーの反乱」(1869~70年)及び「ノースウェストの反乱」(1885年)におけるメイティの指導者。マニトバ州の創設者とされる。「レッドリバーの反乱」では、イギリスのハドソン湾会社の支配下にあったレッドリバー植民地が居住者であるメイティらに相談されずに連邦政府に譲渡されることに対して、臨時政府を樹立して抵抗した。カナダ政府との交渉を通じて、マニトバ法(マニトバ州のカナダ自治領参加を制定した法)の基となる合意を取り付けることに成功したが、反乱は武力鎮圧され、リエル自身はアメリカ合衆国に逃亡した。フランス系カナダ人には、フランス語とカトリック教徒の文化的権利を守る英雄と見なされた。1885年には、サスカチュワンのメイティやインディアンの法的権利獲得のため、アメリカから呼び戻され、ノースウェストの反乱を起こしたが、物量に勝る政府軍に降伏した。反乱後、反逆罪の判決を下され、絞首刑に処された。1992年、連邦議会がリエルのマニトバ州創設者としての歴史的な役割を認める旨の決議を採択したほか、マニトバ州は2008年から2月第三月曜を「ルイ・リエルの日」と定めるなど、彼のカナダ西部発展への貢献に一定の評価がなされている。(田澤卓哉)

リジャイナ(Regina)
サスカチュワン州の南部にあり、1905年創設以来同州の州都。人口は約22万人で、都市圏人口は約25万である(2021年)。カナダ太平洋鉄道とトランス・カナダ・ハイウェイ(1号線)が通り、春小麦などの物資集散地。第二次世界大戦後発展著しく、近年セメント・紙加工など工業も興る。市街中心は人造湖ワスカナの周囲に政庁・議会・大学などの集まる半乾燥地の中の緑地帯。1882年まで北西準州の首都。1920年まで北西騎馬警官隊の本部があり、今も後身のカナダ騎馬警官隊の訓練場がある。(島田正彦)

リジャイナ宣言(Regina Manifesto)
1933年に協同連邦党(Co-operative Commonwealth Federation, CCF)が党の方針として出した宣言。1932年に設立されたカナダの社会主義政党である共同連邦党は、今日の新民主党(New Democratic Party, NDP)の前身である。1933年、共同連邦党は最初の全国党大会をサスカチュワン州リジャイナで開催し、そこでJ・S・ウッズワース(J.S. Woodsworth)を初代党首に選び、党の方針としてリジャイナ宣言を採択した。同宣言で、政府管理による経済計画の導入、金融の社会主義化による銀行コントロール、交通・通信・電力会社の国有化、価格と生産を安定させる農業プログラムの策定、国際貿易の規制強化、農民が適正価格で必要なものが購入できるようにするための協同組合機関の設立、労働条件の決定権限を労働者に与え、労働災害への保険を提供する新しい労働法の制定、政府運営のヘルスケアでの無料の医療提供など、14項目を掲げて、民主主義下で社会主義的な経済・社会政策を採用することによって、不公平で非人間的な資本主義を根絶することを目指した。国民皆保険(ユニバーサル・ヘルスケア)など、これらの提案のいくつかは後に実現している。(田中俊弘)

リシャール,モーリス(Joseph-Henri-Maurice Richard 1921-2000)
モントリオール生まれのアイスホッケー選手である。“ロケット”リシャールと愛称され、仏系カナダ人にとって英雄的な存在である。1942-1960年の間、NHLモントリオール・カナディアンズの名右ウイングとして活躍した。アイスホッケーはカナダ発祥のスポーツで、国技である。この世界も英系が支配的で、仏系は差別的な立場に置かれていた当時、彼のゴールに向かう熱く、激しいプレーは、仏系カナダ人に勇気と誇りを与え続けた。生涯成績は出場試合数978、544ゴール、421アシストで、数々の新記録を打ち立てた。引退後、1961年に「殿堂」入り、背番号「9」の勇姿が5ドル紙幣に描かれるなど、功績は今も讃えられている。(藤田直晴)

リズマー,アーサー(Lismer, Arthur 1885-1969)
イギリス、シェフィールド出身の画家、美術教師。1911年、活動の場を求めてカナダに移住する。トロントで商業デザイナーとして出発し、1916年からはハリファックスのヴィクトリア美術・デザイン学校を皮切りに長く美術教育に携わる。オンタリオ州の荒々しい風景を前にして、リズマーは、初期の後期印象派的な画風から、独自の表現主義のスタイルを生み出し、強い色彩、厚塗り、荒々しい筆使いを用いた。1920年、グループ・オブ・セブンの創立メンバーの一人となる。リズマーの画風は現代感覚に合わないと見られていたが、近年、彼自身の深い表現主義に根ざしているとの再評価を得てきている。(伊藤美智子)

立憲条令、立憲条令 
カナダ法(1791年)(Canada Act)、 立憲条令(constitutional Act) 参照

立憲法 
カナダ法(1791年)(Canada Act)、 立憲条令(constitutional Act) 参照

リッチモンド(Richmond, B.C.)
ヴァンクーヴァー(Vancouver)都市圏の南部に位置する都市。人口は185,400人(2008年)。市南西部のスティーブストンは19世紀末サケ漁・缶詰業で栄えた村で、当時より主として漁民からなる日系人コミュニティが形成されている。現在のリッチモンドはヴァンクーヴァーへの通勤者のベッドタウンとなっている。移民人口の多いことで知られ、全人口の57.4%を移民がしめ、これはカナダ全都市中最高率である。特に近年は富裕な香港中国人の移民が増加し、市人口の45%が中国系である。市中心部には中国系のための巨大ショッピング・モールが複数あり、観光名所となっている。(森川眞規雄)

リッチラー,モーディカイ(Richler, Mordecai 1931-2001)
モントリオールのユダヤ系社会に生まれ、カレッジを中退して渡欧、1954年に内乱後のスペインを扱った『アクロバット』The Acrobatsを出版。10冊に及ぶ小説をはじめ、短編集、随筆集、児童向物語、アンソロジーなど刊行物は20冊を越え、ラジオ・テレビ・映画作品も手がけ、総督文学賞も2度受賞、英来においても評価が高い。ユダヤ的体験を多く主題とし、独特なアイロニックな語り口をもつが、直截な物言いから物議を醸すこともある。(渡辺 昇)

リドー運河(Rideau Canal)
カナダの西部への発展にとって、セント・ローレンス川の航行改良は不可欠の条件であった。しかし、1812年の英米戦争後、アメリカとの国境を成すこの川の航行改良は、軍事的見地から適切ではないと考えられた。その結果、イギリス政府はオタワ川を遡ってオタワからオンタリオ湖のキングストンに至る全長200kmのリドー運河を1832年に完成させた。この運河建設のためにイギリス陸軍工兵隊のバイ(John By)中佐が派遺され、その工事の拠点として後にオタワとなる町が発展したので、オタワは1855年までバイ・タウンと呼ばれていた。2007年、リドー運河は世界遺産に登録された。(加勢田博)

リトル・トーキョー(Little Tokyo)
日本からカナダへの移民が本格的になった1890年代以降、鉱山、伐材所、漁場で働く移民はブリティッシュ・コロンビア州に集中していた。当時は独立した店を持つ者はまだ少なかったが、1900年頃からヴァンクーヴァー近辺のヘイスティングス伐材所に近いパウエル通りには移民労働者のための宿屋を兼ねた飲食店、床屋、洗濯屋その他、小規模な店がどっとでき始めた。これが日系人のコミュニティに発展し、リトル・トーキョーと呼ばれるようになる。近年パウエル通りには日系人はほとんど住んでいないが、この通りに沿って仏教会や日系人のメソジスト教会日本語学校など、リトル・トーキョーの名残はあり、オッペンハイマー公園では毎年夏にパウエル祭が開催され、太鼓や神輿など日本に因んだ催し物が披露される。(飯野正子)

リドレス(Redress)
第2次世界大戦期の日系カナダ人強制移動・収容に対する公式謝罪と被害者への金銭的補償など、「過去の政府による過ちを正す」行為を指す。1980年代に展開されたアメリカ合衆国での日系人強制収容に対する補償運動を受け、カナダでは全カナダ日系人協会(NAJC)を中心に運動が展開された。個人への金銭的補償に対して一部日系人からの反対もあったため、NAJCはプライス・ウォーターハウス社に強制移動・財産没収による経済的損失調査を依頼。さらに金銭による補償を含めたリドレスに関するコミュニティの意識調査を行なった上で、1986年に補償要求を決定し、マルルーニー進歩保守党政権と交渉を開始した。アメリカ連邦議会で1988年8月にリドレス法案である「市民的自由法(Civil Liberties Act)」が成立したのを受け、同年9月22日にマルルーニー首相が、強制移動政策が人種主義によるものだったことを認める公式謝罪と個人補償21,000ドル、コミュニティへの補償1,200万ドル、カナダ人種関係基金の設立、戦時措置法違反者の名誉回復を含む、リドレス合意を発表した。
 強制移動・財産没収・強制分散・国外追放を経験した日系コミュニティに、戦争中の記憶は戦後も重くのしかかっていた。二度と差別の対象にならないために、多くの日系人は戦争中の体験について沈黙し、白人中心の主流社会で目立たないように言語や文化の独自性をできるだけ消して暮らそうとした。その結果、戦後生まれである三世たちは日本語を話せず、戦争中の親の体験も知らずに育った。しかし、カナダ社会が自国の人種主義的歴史を直視し、多文化主義へと舵を切ると、先住民や可視的少数民族(非白人を指すカナダの言葉)などの体験もカナダの重要な歴史として再認識されるようになった。このような社会全体の変化のなかで起こったリドレスは、さまざまな背景のカナダ人に支持されて成功したものであり、今後も豊かな多文化社会を築く上で重要な出来事として記憶され続けると思われる。(和泉真澄)

林産業
林産業とは、樹木の育成・伐採・製材およびパルプ・製紙に関わる産業全体を意味し、カナダ経済の重要な部門であり、主要な輸出部門でもある。416万km2に及ぶ広大な森林はカナダ全国土面積の45%を占め世界の全森林面積の10%に相当する 。
 北極圏を囲む1億6,600万km2の寒帯林は、世界の森林の約3分の1にも及ぶ。その約60%がロシアに、約30%がカナダに属する。カナダの寒帯林のうち伐採対象とされるのは年間約0.2%足らずで、公有林を伐採する企業は健康で自然な森林を再生させる義務がある。カナダの林産業界にとって、アジアは大切な輸出市場で、紙・パルプ・木製品などが中国・日本・韓国・インド等へ輸出されている。
 林産業は水産業にも直結しており、水産業の健全な発展のためには林産業の健全な育成と管理は肝要である。カナダは水資源も豊富であるが、これも林産業の健全な管理運営と直結している。(草野毅徳)

ルイジアナ植民地(French Colony of Louisiana)
1682年、ミシシッピー河口に達したシュール・ド・ラサール(Sieur de La Salle)が、全流域をフランス領と宣言、ルイ14世にちなんで命名したことに始まる。1699年ビロクシイ(Biloxi,現Mississippi州)に砦が築かれ、1718年にジャン・バブティスト・ル・モアン(Jean Baptiste le Moyne)がニューオーリンズを建設して、この植民地が形成された。1720年代、セント・ルイス周辺から砦と毛皮交易所を鎖状に連ね、五大湖方面のヌーヴェル・フランスと連携。毛皮取引上、東方の英領カロライナ商人に脅かされ、ヤズー(Yazoo)、ナッチェズ(Natchez)、チカソー(Chickasaw)等の先住民諸部族の攻撃を受けて、ルイジアナ・ヴァレーに封じ込められた。1763年、ヌーヴェル・フランス消滅と共に英領。1783年のパリ条約でミシシッピー以東は合衆国領。大河以西は1803年、ナポレオン(Napoleon)により合衆国へ売却された。(江川良一)

ルクレール,フェリックス(Leclerc, Felix 1914-1988)
ケベックで最も愛されている歌手、作家の一人。いくつかの仕事を経て、ラジオ局の司会を務めるようになり、そこでシナリオを書き、歌うようにもなる。その才能を音楽プロデューサーのJ.カネッティに見出されて、フランスでも大成功を収める。「私と私の靴」Moi, mes souliersや「春の讃歌」Hymne au printempsなどのヒット曲や、『帆の中のハンモック』Le Hamac dans les Voilesなどの短編集で知られている。1974年8月13日アブラム平原で開かれた「スーパーフランコフォニー祭り」コンサートにG.ヴィニョー、R.シャルルボワとともに出演し、10万人以上の観衆を集めたのは今や伝説となっている。その模様はアルバム「私は狼と狐とライオンを見た」J’ai vu le loup, le renard, le lionに収録されている。(小畑精和)

ルパージュ,ロベール(Lepage, Robert 1957- )
ケベック出身の俳優、舞台演出家。趣向に富んだ装置と映像を駆使したスペクタクルな舞台演出で知られ、「映像の魔術師」と呼ばれる。常に新作が世界的な注目を集める演出家の一人。1985年の『ドラゴン・トリロジー』などで注目を集めた。1994年に自らの創作集団「エクス・マキナ」を結成。中国や日本など、東洋の文化に興味を持ち、代表作の一つである『ヒロシマ~太田川七つの流れ』には歌舞伎や文楽など日本の伝統芸能に関する造形の深さが活かされている。『ヒロシマ』[1995]が日本で上演された後も、『月の向こう側』[2002]、『アンデルセン・プロジェクト』[2006]、『ブルードラゴン』[2010]、『エオンナガタ』[2011]、『針とアヘン』[2015]、『887』[2016]などの作品がたびたび日本で上演されている([ ]内の数字は、日本での上演年)。世界最大のサーカス・カンパニー「シルク・ドゥ・ソレイユ」の大規模なショー(『KA』、『トーテム』)やメトロポリタン・オペラの演出(『ニーベルングの指環』など)も手がけている。(曽田修司)

ルパーツランド(Rupert’s Land)
1670年にイギリス国王チャールズ2世がハドソン湾会社に特許状を与えた領地で、チャールズ2世の従兄ルパート王子がハドソン湾会社の初代総督であったため、その名にちなんで命名された。領地はハドソン湾に川が流入する全ての土地という現在のケベック州北部からオンタリオ州北部、平原諸州、ノースウェスト準州の一部までに及ぶ広大なもので、ハドソン湾会社はそこで定住の試みはせず、毛皮交易を成功裡に独占して行い、1870年までに領地内に97の交易の拠点を建てた。
 コンフェデレーションへの機運が高まるにつれ、カナダの北部及び西部の土地の大部分を占めるルパーツ・ランドが重要視され、1867年に成立したカナダ自治領政府は、この土地のカナダへの移譲を求めた。これを受けて、1868年にはイギリス議会でルパーツ・ランド法が可決され、これによって特許状の期限切れの後ハドソン湾会社の領地をカナダへ移譲することを保証した。翌年、ハドソン湾会社は、カナダ政府の申し出た30万ポンド、交易拠点周辺の一定の土地、及び今日の平原諸州内に広大な土地を与えるという条件でルパーツ・ランドを移譲し、カナダの版図に重要な西部の土地が加わることとなった。しかし、移譲に際し、ルパーツ・ランド内のレッドリバー植民地のメイティの意向が全く無視されたため、1869年10月11日にルイ・リエル率いるレッドリバーの反乱が起こった。(木野淳子)

ルミュー協約(Lemieux Agreement)
1907年、加日両国政府間に締結された移民問題に関する協約。これはアジア系移民排斥を狙いとした同年9月のヴァンクーヴァー暴動の後、カナダ労働相ロドルフォ・ルミューが訪日し、移民問題について日本政府と交渉。この交渉において日本政府は労働目的の移民を年間400名に制限することを申し入れる。その結果、日本人移民のカナダ渡航は著しく制限される。(渋谷 進)

レイク・ルイーズ(Lake Louise)
アルバータ州バンフ国立公園の湖(水面の標高は1,536m)で、「ロッキーの宝石」とも称され、その名はヴィクトリア女王の娘であるルイーズ・キャロライン・アルバータ(Louise Caroline Alberta)王女に由来している。かつては、「小さな魚の住む湖」とも呼ばれていた。湖の周りには、スキー場や登山コースなどがあり、観光地としても知られ、フェアモント・シャトー・レイク・ルイーズ(Fairmont Chateau Lake Louise)をはじめとするホテルが立ち並んでいる。(福西和幸)

レスブリッジ(Lethbridge)
アルバータ州の南部、アメリカとの国境に近い都市。第二次世界大戦中、強制収容されていた日系人のうち、この地に移住させられた農業関係者が多数住み着いたが、その人たちが日本とカナダの友好を祈って寄贈した日加友好日本庭園がある。一方、郊外にあるインディアン戦争公園(Indian Battle Park)は昔のフープ・アップ(Whoop Up)砦を復元したもの。また国境を挟んでカナダ側のウォータートン(Waterton)湖とアメリカ側のグレイシャー(Glacier)湖を連ねるウォータートン・グレイシャー国際公園(それぞれの国で国立公園)はカナディアン・ロッキーの最南端にあたる。(大島襄二)

レッドリバー(Red river、レッド川)
「レッドリバーの反乱」で有名なこの大河は、米国ノース・ダコタ州に源を発し、マニトバ州を北流してウィニペグ湖へ注ぐ。カナダ領土に入っても蛇行し、時に氾濫を起こす。そのため水色が赤茶色なので、この名がある。冬は凍り、時にはトラックが走る程の厚さの氷の川となる。ウィニペグ市内での流域にはマニトバ大学や公園、別荘地が建ち並ぶ。サスカチュワン州から東流しているアシニボイン川との合流点がウィニペグ市の中心地で、マニトバ州議事堂、ウィニペグシティホール(市役所)、CNのウィニペグ駅、カナダ小麦局、穀物研究所等の官公庁や企業が立ち並ぶ。いわゆる「レッドリバーの反乱」で有名なルイ・リエルの像もこの川岸に建っている。かつて、開拓時代にヨーロッパ人がハドソン湾からウィニペグ湖を経て、レッドリバー沿いに南下して今のウィニペグに定着したとされ、川沿いにはかつての教会や毛皮交易所等の歴史物が散見され、歴史観光地となっている。(草野毅徳)

レッドリバーの反乱(Red River Redellion 1869)
1869年から1870年にかけて現在のウィニペグ付近で起こった、ルイ・リエル(Louis Riel)指導のメイティによる、カナダ政府に対する反乱。1869年のいわゆる「ルパーツランド買収」は、新生カナダには必要な一壮拳であったが、その地元民を無視した頭越しの取引でもあった。ハドソン湾会社とメイティに敵意を抱いた白人入植者が強引に進出し始めると、従来の生活基盤を脅かされたメイティ達は、リエルに率いられてギャリー砦(Fort Garry、現ウィニペグ市)を奪取、居住地の支配権を握ってリエル首班の臨時政府を樹立した。彼は連邦へ参加の条件として、フランス語とカトリック教地域の保全、メイティの土地所有権の保障、自治州政府の創設等を要求してオタワと交渉した。ジョン・A・マクドナルド(John A. Macdonald)首相はほぼその条件を呑む一方、現地での騒擾鎮圧のため、本国イギリスと共同の「レッドリバー遠征隊」を送った。軍隊が砦に接近した時、リエルはアメリカ合衆国へ逃亡し、この反乱は終結した。1870年、反乱が依然続く中で、レッドリバー植民地はマニトバ(Manitoba)州となったが、州創設を制定したマニトバ法では、リエル達の要求項目のほとんどが認められていた。(江川良一/田澤拓哉)

レファレンダム(Referendum)
一般には政策など政治問題についての国民投票を意味する。カナダでは1980年ケベック州でおこなわれた「主権―連合」構想についての州民投票を指す場合が多い。1960年代以来のケベック・ナショナリズムを背景として、1980年5月、ケベック党のルネ・レヴェック(Rene Levesque)ケベック州首相は、ケベックの政治主権とケベック以外のカナダとの経済連合の実現をめざして、連邦攻府と交渉する権限をケベック州政府に与えるか否かを問う州民投票をおこなった。このレファレンダムでは州民の約60%が「否(Non)」と投票し、ケベック党の「主権―連合」構想は一時的に挫折した。しかし1994年9月のケベック州選挙で勝利したジャック,パリゾー(Jacques Parizeau)ケベック党政権は、1995年中にも再びレファレンダムをおこなうことになった。(渋谷 進)

レベック,ルネ(Leveque, Rene 1922-1987)
ケベック州の分離独立運動を率いた政治家・ジャーナリスト。1976年から85年までケベック州首相を務めた。1922年にニューブランズウィック州キャンベルトンの病院で生まれ、ケベック州東部にある小さな町ニューカーライルで育った。英語系住民の多い町だったこともあり、レヴェックは若い頃から仏英両言語を操るようになった。学生時代からジャーナリズムに触れ、第二次世界大戦時には、米国の国営放送「ボイス・オブ・アメリカ」の仏語放送に携わる記者としてロンドンに渡り、その後、米軍に記者として従軍し、ナチス・ドイツのダッハウ強制収容所における惨状を目撃する。戦後もジャーナリストとして活躍し、1950年代後半には情報番組の人気司会者として、名が知られるようになった。
 1960年の州議会選挙に自由党から立候補し当選。英語系住民に州経済の中枢を押さえられ、従属的な立場に置かれていた仏語系住民の尊厳回復と開花を目指した政治活動を展開。ルサージュ政権の目玉閣僚の一人として、英語系資本が握っていた電力の州有化などを実施。その後、自由党を離党、ケベック州の分離独立を目指すケベック党を結成。1976年に政権を獲得すると、仏語の公用語化を進める「仏語憲章」を1977年に制定。1980年には、ケベックの政治的独立とカナダとの経済連合を掲げた「主権?連合」構想を掲げて州民投票を実施するも6割の反対票により否決。その後、ケベックの分離独立をめぐる政権内の政治的対立で孤立し1985年に辞任。1987年にモントリオールで逝去。
 ケベックナショナリズムの旗手ではあったが、英語系住民が多いニューカーライルで育ったことや、戦時中の強烈な体験もあり、自民族中心主義の危険性を認識していた。そのため、基本的人権の尊重に基づいた少数派の権利保護を強く意識したケベックナショナリズムとケベック社会のあり方を模索し続けた。(古地順一郎)

連合法(Act of Union)
アッパー、ロワー両カナダを単一政府の下に統合させる法令。仏系の「イギリス化」を目指す『ダラム報告(1839)』の勧告に従い、1840年7月に英議会を通過し、翌年2月に発効した。その規定には、両カナダからの同数の代表による単一政府の形成、負債の統合、政府の公用語からの仏語排除などがあり、人口が多く負債額が少なかったロワー・カナダに不利な内容であった。(田中俊弘)

連邦議会(Parliament)
カナダの連邦議会は、国王、上院、下院から構成されている(1867年憲法第17条)。立憲君主制を採用し、英国王を元首とするカナダ(英国王はカナダにおいては「カナダ国王」となる)では、全ての法律は国王の名の下に公布される。カナダでは総督が国王の代理を務めている。総督の任期は5年で、連邦首相の助言に基づき国王が任命する。理論上、行政権は国王(総督)にあるが、実際には首相の率いる内閣が下院の信任を得ながら行使している。首相と閣僚には、原則として下院第一党の党首と議員がそれぞれ就任するが、場合によって上院議員が閣僚に任命されることもある。このように、議会内に行政権と立法権が共存するのは、議院内閣制の特徴の一つである。上院は105名の議員から構成されている。上院議員は30歳以上のカナダ国民で、首相の助言に基づいて総督によって任命される。以前は終身制だったが、現在は75歳定年制である。上院議員には国内各地域を代表する役割だけでなく、脱党派的な視点で法案を審議する機能も求められている。任命制のため民主的正統性を欠くとの批判も多く、上院改革は政治的な議論の俎上に繰り返し上がるテーマである。下院は338名の議員から構成されている。選挙(小選挙区制)によって選出され、立候補するためには投票日に18歳以上のカナダ国民であることが求められる。任期は憲法の規定では最大5年と定められているが、2007年に選挙法が改正され原則として任期4年目の10月第3月曜日に総選挙が実施されている。選挙区の区割り・議員数は、国勢調査の人口数に基づき10年ごとに調整される。法案は、本会議、委員会での審議を通じて可決される。歳出や徴税に関する法案は、まず下院に提出されなければならない。また、下院開会日には、「クエスチョン・ピリオド」と呼ばれる与野党の論戦が毎日行われ、首相や閣僚が野党党首らと丁々発止のやり取りを展開する。(古地順一郎)

連邦刑法典
民法と並んで市民生活に大きな影響を与える法である刑法について、アメリカ合衆国のように州法とするか連邦法とするかは、同じく連邦制国家であっても対応が分かれるが、カナダでは連邦法とする選択がなされている。古くは1774年ケベック法が、ケベックにおけるフランス法由来の民法典体制存続を認めつつ、刑事法についてはイギリスのコモン・ローによると定めていたように、刑事法も判例法を中心としていたが、現在では全カナダに適用される連邦議会制定法たる刑法典が刑事実体法の中心に置かれており、コモン・ローにのみ根拠がある犯罪類型は、裁判所侮辱罪を除き存在しない(1955年廃止)。特徴的な内容としては、死刑の不存在(1976年廃止)、ヘイトスピーチの犯罪化などがある。なお、刑法典を含む刑事法の運用は、州裁判所を第一審としカナダ最高裁判所を終審とする単一ピラミッド型の司法制度が担っている。(長内了/佐藤信行)

連邦離婚法
1968年まで、カナダでは離婚に関する法は州ごとに異なっており、内容面でも、一切の離婚を認めないケベック法や妻からの離婚主張を制限する多くの州法など、多くの課題を抱えていた。そこで同年、連邦議会は、全国に統一的な効力をもつ連邦離婚法を制定したのである(7月2日施行)。同法は、離婚原因についての夫婦平等原則の下、広範囲な有責主義による離婚原因を認めると共に、破綻主義に基づく離婚も認めている。1986年、連邦議会は同法を改正して、1年間の別居により婚姻の破綻を証明できるとする等、離婚をさらに容易なものとした。ただし、離婚には必ず裁判所の関与が必要であり、日本法が認めているような、当事者の合意に基づく行政手続のみでの離婚は認められていない。(佐藤信行)

ロイヤル・ウィニペグ・バレー(Royal Winnipeg Ballet)
1939年に創設されたカナダ最初のバレエ団である。当初はウィニペグにおいてグウィネス・ロイド(Gweneth Lloyd)と、ベティ・ファラリー(Betty Farrally)によって旗揚げされた私的なバレエ・クラブであったが、1949年にウィニペグ・バレエと名を改め、プロフェッショナルのバレエ団となった。1953年にエリザベス2世の治世下において、英連邦のバレエ団として初めて「ロイヤル」を呼称することを認可された。1960年代半ばからは、国外巡業も活発に行っており、アテネやパリ、さらにカイロやモスクワなどに加え、カストロ率いる革命後のキューバでも、北米のバレエ団として初めて公演を行った。その芸術的水準の高さは国際的に定評があるが、近年は地元の観客の開拓にも力を入れている。上演される演目も古典のみならず、2013年にはマーガレット・アトウッド(Margaret Atwood)の『侍女の物語』を、そして2016年には真実と和解委員会の調査から着想を得た『ゴーイング・ホーム・スター―真実と和解-』を上演し、高い評価を得ている。(神崎舞)

ロイヤル・バンク・オブ・カナダ(Royal Bank of Canada)
ロイヤル・バンク・オブ・カナダ(Royal Bank of Canada)は、カナダ5大銀行(他の4行はCanadian Imperial Bank of Commerce, Bank of Montreal, Bank of Nova Scotia, Toronto-Dominion Bank)の中で最大の銀行であり、個人・商業金融、資産運用、保険、投資サービスなど多様な金融サービスを展開している。1864年、ハリファックスの商人によって創設された商人銀行がカナダ連邦政府の認可を受けて1869年に登録されたthe Merchants’ Bank of Halifaxがその起源である。1907年には本社をモントリオールに移し、カナダの経済発展を金融の面から支える主要銀行として発展している。現在はトロントも本社機能を担う2本社制をとっている。雑誌Fortuneのグローバル500では毎年カナダを代表する企業として登場し、現在、従業員86,000人を抱え、カナダを含む世界29カ国で、1,700万人の顧客を相手に活躍する一大金融サービス企業である。(榎本 悟)

老人福祉
老人福祉の中心となる所得保障である公的年金には、65歳からの普遍的な老齢所得保障制度(Old Age Security:通称OAS、Guaranteed Income Supplement:通称GIS、Allowance)があり、さらに所得比例のカナダ年金(Canada Pension Plan:通称CPP)またはケベック年金(Quebec Pension Plan[Le Regime de rentes du Queébec]:通称QPP)がある(「年金制度」参照)。高齢者の医療保障は、州レベルの公的健康保険(メディケア:medicare)がそのまま適用される(「医療保障制度」参照)。介護サービスを含めた福祉サービスは、州によって提供内容がかなり異なっている。(岩﨑利彦)

労働組合
カナダでは19世紀初頭には労働者が労働条件に対する要求を行い、場合によってはストライキのような方法を用いることがあったが、当時、労働組合(以下、組合)やその活動は違法であった。トロント市での大規模なストライキに端を発し、1872年に制定された労働組合法(Trade Union Act of 1872)は、組合を法認し、その活動に刑事免責を与えた。1886年には、実質的に最初のナショナルセンターであるカナダ労働組合評議会(Trade and Labour Congress of Canada[TLC])が結成された。アメリカ労働総同盟(American Federation of Labor[AFL])の影響を受けるTLCは、AFLの分裂により、AFLから追放された産業別労働組合(Congress of Industrial Organizations[CIO])とつながりのある組合を追放した。追放された組合と全カナダ労働会議(All-Canadian Congress of Labour[ACCL])が1940年にカナダ労働会議(Canadian Congress of Labour[CCL])を結成した。2つのナショナルセンターは、1955年のAFLとCIOの統合に伴い、1956年に統合し、カナダ労働組合会議(Canadian Labour Congress[CLC])が結成された。CLCは、1962年に協同連邦党とともに立ち上げた新民主党(New Democratic Party[NDP])を政治同盟者と位置づけているが、1980年代以降、傘下の組合によっては、NDPと必ずしも一枚岩とはいえない時期があった。カナダ自動車労組(Canadian Auto Workers[CAW])とカナダ情報通信・エネルギー・製紙労働組合(Communications, Energy and Paperworkers Union of Canada[CEP])が統合したUniforが、2018年にCLCを脱退し、独立した。(中川純)

労働法(Labour Law)
カナダで労働法(labour law)という場合、集団的労働関係に関する法領域を指し、個別的労働関係を取り扱う雇用関係法(employment law)とは区別されるのが一般的である。連邦および各州がそれぞれ独自に労働法を制定しているが、現行法の基本的な枠組みには共通している部分がある。たとえば、適正交渉単位制、排他的交渉代表機関の認証制度、労使双方に対する不当労働行為制度、これらの制度を運用する行政機関(労働関係局)の設置などである。これらは、ワグナー法以来のアメリカ団体交渉制度をモデルとしたものである。しかし、カナダ労働法には、アメリカ法とは異なる特徴がある。たとえば、労働関係局による自動認証制度(automatic certification)である。これは、排他的交渉代表機関として組合が認証を受ける選挙において、使用者の不当労働行為が被用者の投票行動に影響を及ぼしたと考えられる場合、労働関係局がその組合に対し自動的に認証を与えるものである。加えて、強制チェックオフ制度(Rand formula)がある。これは、労使関係の安定性を確保するために、非組合員を含むすべての労働者に対して、使用者が強制的に組合費を給料から天引きするものである。宗教上の理由で組合に加入できない場合には、組合費と同等の金額を慈善団体に支払うことでそれに代えることとなっている。(中川純)

ローガン山(Mt.Logan)
ユーコン準州南西端近くにある高山。海抜高度6,050mでカナダ最高峰、北アメリカ第2の高峰である。ローガン山一帯はセント・イライアス山脈で、北極圏・南極圏内を除くと、世界で最も氷河が大規模に集中しており、両極・ヒマラヤに次いで第4の極地ともいわれることもある。1925年、マッカーシー、ランバートらが初登頂した。(正井泰夫)

ローリー,マルカム(Lowry, Malcolm 1909-1957)
英国の裕福な生家を離れて1928年船員となり、翌年ケンブリッジ大学に入学、卒業の1933年に航海体験記『群青』Ultramarineを出版。完成度に固執して寡作、生前出版は他に『火山の下で』Under the Volcano(1947)があるのみ。後者はメキシコを背景に人間ドラマの比喩的構成、自伝的要素の虚構化に優れる。編集者加筆の死後出版は約8冊。世界を放浪し、カナダには1940年から54年まで在留したが、終生アルコールに依存、それが命取りとなった。(渡辺 昇)

ローリエ,ウィルフリッド(Laurier, Sir Wilfrid 1841-1919)
政治家、第8代首相(1896~1911)、自由党党首(1887~1919)。初のフランス系首相。イギリス系とフランス系の間の文化的摩擦が悪化した時期に、国家統一のため巧みな妥協策を追求した。英帝国会議では、英帝国統合へのいかなる努力も拒否し、カナダが国家としてのアイデンティティを保てる方向にしようとした。また英系と仏系の対立を招いた1891~1896年のカトリックの教育の権利をめぐるマニトバ学制問題や、1899年のブーア戦争でのカナダ人志願兵派遣の問題では、彼の妥協策で対立を回避した。経済的繁栄もあって一時的にセクション間の緊張は弱まったが、1905年創設のアルバータ、サスカチュワン両州で学制問題が再燃し、再び分離学校を廃止した結果アンリ・ブーラサ率いる仏系ナショナリストの厳しい批判を招き、さらに全カナダに真の二文化主義を確立する最後の機会を失した。1910年の海軍服務法は、英系には不充分、仏系には過度と受け止められ、1911年の合衆国との互恵の提唱ではロバート・ボーデン率いる保守党にイギリスへの忠誠を危うくすると批判され、ついに同年9月21日の総選拳で敗北した。(木野淳子)

ローレンシアン・シィールド
カナディアン・シールド参照

ローレンシアン学派
ローレンシアン学派は、カナダ国民経済発展の主軸がカナダ―アメリカという縦軸にではなく、セント・ローレンス川と五大湖水域とを結ぶ横軸(一方ではカナダ西部の後背地に拡大し、他方ではイギリスを経てヨーロッパ大陸に延長される)にあると信じる立場である。ハロルド・アダムス・インニスの高弟の一人で、忠実な伝記作家でもあるドナルド・G・クレイトン教授は、この立場を「セント・ローレンス川を、カナダ横断の、東西両地域総合体系を確立した商業的・政治的大動脈として位置付ける」と要約している。
 ローレンシアン学派及びステープル理論は、インニスが始めた経済史学の、いわば「横と縦の両者」を構成するものである。カナダの自然環境がこの国の経済発展全体に与えたインパクトを強調する立場が前者であり、インパクトを受けたカナダ国民経済がレスポンスとして「主要輸出産品の生産・販売」という主体的姿勢で対応し、カナダ主要輸出産業発達史が、そのまま、この国の国民経済発展史であることを力説する立場が後者なのである。
 ローレンシアン学派とステープル理論、そしてこれら二つの方法論を採用する学究グループとしてのトロント学派という三つの主柱をもつインニス経済史学こそ、カナダ人による、カナダの、カナダ人のための近代史学、国民主義的史学の成立を意味するものといえる。(杉本公彦)

ローン・ピアス文学功労章(The Lorne Pierce Medel for Distinguished Service to Literature)
1926年カナダの文学振興を目的に設立された。2年毎に、英語あるいは仏語による創作・文学批評の分野での功労者一名に、ピアス博士寄贈の金メダルとカナダ学士院からの1,000ドルが贈られる。評論はカナダを主題にしたものが優先選考される。受賞者にノースロップ・フライ(1958)、モーレイ・キャラハン(1961)等がいる。(伊藤美智子)

ロス,シンクレア(Ross, Sinclair 1908-1996)
銀行員として仕事の傍ら小説を書く。長編『われとわが家にかかわりては』As for Me and My House(1941)でカナダの小説家としての地位を確保するが、それは出版より4半世紀が経ってからであった。クララ・トマス(Clara Thomas)は『カナダ英語文学史』(渡辺昇訳)Our Nature-Our Voice(1972)において、これは特定の場所・時間に置かれた女性についての、カナダ最初の深層研究であると評している。彼の作品として、短篇集である『真昼のランプ』The Lamp at Noon(1968)、長編として『井戸』The Well(1958)、『金騒動』The Whirl of Gold(1969)がある。(多湖正紀)

ロブスター(Lobster)
アメリカからカナダにかけての大西洋岸漁業ではもっとも収益性の高い魚種。日本のイセエビとはまったく別種で、ザリガニに近く、オマール(Homurus)エビとも呼ばれる。鋏が大きく頑丈でそこに身も多い。カナダの沿岸諸州では海域を細分してそれぞれの禁漁期を定めるほか漁獲対象の体長制限も厳しく、水揚げ地では政府の監視官が規格に満たないものにはその鋏に輪ゴムをはめて再放流している。この漁業にはかまぼこ型の木製トラップが用いられ、そのミニチュアはペンダントのデザインにもなっている。(大島襄二)

ロマノウ報告(Romanow Final Report)
2001年4月に連邦政府がカナダの医療保障制度全般を見直すために設けた、前サスカチュワン州首相であるロイ・ロマノウ(Roy Romanow)を委員長とする連邦医療保障将来委員会(Commission on the Future of Health Care in Canada)によって、2002年11月に提出された最終報告書。正式名称は『価値の樹立―連邦医療保障将来委員会最終報告書』(Building on Values: The Future of Health Care in Canada)。
 報告書は、47の勧告をおこなっているが、その核心は、「だれもが、普遍的にアクセス可能な、公的財源による医療保障制度の長期的な持続可能性を確実なものにする」ことにある。勧告のなかには、医療保障への連邦補助金の説明責任、連邦補助金の増額、高額薬剤費給付制度の実施、プライマリ・ケア重視、患者待機期間の短縮、ホームケアへの給付拡大などがある。(岩﨑利彦)

ロレンス,マーガレット(Laurence, Margaret 1926-1987)
小説家。故郷マニトバ州ニーパワ(Neepawa)に因む大平原の田舎町マナワカ(Manawaka) を背景にした5部作『石の天使』The Stone Angel(1964)、『神の戯れ』A Jest of God (1966)、『火の住人たち』The Fire Dwellers(1969)、『家の中の鳥』A Bird in the House(1970)、『占う者たち』The Diviners(1974)により、1960・70年代を代表する国民作家と仰がれた。

総督文学賞2回受賞(1966、1974)。1950~57年、夫の任地アフリカで過ごした修業時代は、処女小説『ヨルダンのこちら側』This Side Jordan(1960)、短篇集『明日の調教師』The Tomorrow Tamer(1963)他に結実、人種・環境・国のアイデンティティ問題等に関する作家の視野を広げ、代表作『石の天使』の主人公へイガーHagerの普遍性に、マナワカもの全体を貫くメティスはじめ少数民族への共感に、論集『異邦人の心』Heart of a Stranger(1976)の思想にも繋がった。(堤 稔子)

ロワ,ガブリエル(Roy, Gabrielle 1909-1983)
20世紀フランス系カナダを代表する作家の一人。マニトバ州の少数派であるフランス系の町、サン・ボニファスに生まれる。教師、ジャーナリストなどを経て1945年『かりそめの幸福』(Bonheur d’occasion )で作家としてデビューする。モントリオールの貧しい労働者階級が住むサン・アンリに生きるフランス系の人々を写実的に描いたこの作品はミリオンセラーを記録し、ロワはフランス系カナダ人として初めて、フランス文学界の栄誉であるフェミナ賞を受賞する。1950年代以降はそれまでの社会派の作風から一転し、郷土マニトバを舞台に市井の人々の姿を繊細で自伝的な筆致で描いた小説を書く。代表作の一つ、移民の子供たちと教師とのふれあいを描いた『わが心の子らよ』(Ces enfants de ma vie, 1977)など、様々な出自の移民や少数派に属する人々を描き、カナダの縮図のような作品を残す。自伝『絶望と魅惑』(La detresse et l’enchantement,1984)も有名。総督賞、カナダ勲章など数々の賞を受賞している。(真田桂子)

ロワー・カナダ(Lower Canada)
現在のケベック州南部で、1791年から1841年に存在した英領北アメリカ植民地の1つ。1763年にイギリス領となったケベック植民地ではフランス系住民が居住していたが、1783年以降、同植民地西部に王党派(ロイヤリスト)が到来したため、1791年カナダ法(立憲条令)によって、フランス系が居住していたセント・ローレンス川下流域をロワー・カナダ植民地、主に英語系が居住した上流域をアッパー・カナダ植民地として分割した。ロワー・カナダでは、引き続きケベック法体制が維持され、フランス系カナダが今日まで維持されることとなる。加えて、カナダ法によってアッパー、ロワー両カナダにそれぞれ議会が設置された。ロワー・カナダでは、人口の大半を占めるフランス系住民がカトリック教徒であったが、カトリック教徒も議会議員になれる特例が認められた。そのため議会ではフランス系議員が多数派を占めるようになり、イギリス人総督とイギリス系商人が占める寡頭支配のシャトー・クリーク(城塞閥)と対立した。しかし、1812年戦争では、アメリカの侵略に対しフランス系カナダ人民兵が勇敢に戦い、2度の攻撃を跳ね返し、イギリス支配下にとどまった。
 1812年戦争後、1830年代のイギリスからの移民の本格化、移民によって持ち込まれた病気の蔓延、小麦の国際価格の下落や不作などによって、ロワー・カナダの社会情勢が不安定になった。議会の権限の拡大を主張したL=J・パピノー議長率いる改革派とシャトー・クリークの対立は深刻化し、パピノーの急進化によって1837年11月に反乱が勃発した。しかし、ロワー・カナダ住民の支持は広がらず、反乱はすぐに鎮圧された。反乱の原因を調査したダラム総督の勧告を受け入れたイギリスは、1840年の連合法で、ロワー・カナダのフランス系住民をイギリス系に同化させるために、アッパー・カナダと統合し、連合カナダ植民地とした。その統治体制も一本化したが、旧ロワー・カナダはカナダ・イースト、旧アッパー・カナダはカナダ・ウェストと二つの行政区となり、最終的に1867年カナダ自治領誕生時には、二つの州に分かれることになる。 (木野淳子)

ロンドン(London)
オンタリオ州南西部最大の都市であり、人口は約40万人(2020年)。北緯43度とカナダのほぼ南端にあり、トロントとウィンザー、その対岸のデトロイトを結ぶ401号線の中間に位置する陸上交通の要衝でもある。1826年に建設された街の名前は、イギリス本国の首都ロンドンに由来し、アッパーカナダ植民地副総督シムコー(John Grover Simcoe)によって命名された。19世紀中葉には、カーリング社やラバット社に代表されるカナダのビール醸造業の中心地として発展したが、20世紀初頭以降はアメリカ合衆国国境と近接するという立地ゆえに、アメリカの資本投資、分工場設立が急増し、重工業化が進展した。近年は、金融・サービス、さらに2000年代後半のリーマンショックに端を発する経済不況以後はIT関連産業の発展も顕著である。ウェスタン・オンタリオ大学の所在地としても知られる。(福士純)

ワ行

ワイルド・ライス(Wild Rice)
イネ科マコモ属の一年草。草丈は1~3メートルになる。秋に茎の先に穂をつける。実は細長く黒い形でクルミのような風味がある。主食、副菜のほか、鶏や七面鳥などの丸焼きの詰め物として重宝される。古くから北米大陸の湿地帯(川べりや湖の岸に沿った浅い水辺)に群生し、先住民の重要な食糧であった。オンタリオ州で1930年頃、先住民から買い付けて販売されたことから始まり、その評判から1968年にShoal Lake Wild Rice Ltd.が設立され、今や世界にワイルドライスを輸出している。収穫時に40~60%の水分を含む実は未熟な状態から熟成させて、6~8%の水分で脱穀しパッケージに袋詰めされる。脂肪分が少なく、消化されやすく、たんぱく質、ビタミン、ミネラルに富み、カナダ産の自然食品として、輸出用換金作物として主にマニトバ州とオンタリオ州で栽培されている。(友武栄理子)

ワシントン条約(加米国境協定)
アラバマ号請求問題など、南北戦争以来抱えていた英米間の諸紛争の解決と、カナダ及びニューファンドランド領海における漁業権、そしてサンファン島の主権などを争点として、1871年にワシントンで締結された条約。カナダにとっては、漁業権の見返りに、1866年に失効していた加米互恵条約を復活させること、及びフィニアン進入に対する賠償を獲得することが課題であったが、英米各5名から成る合同委員会に加わったカナダ人がマクドナルド首相唯一人という状況で、カナダの利害は無視された。しかし、このワシントン条約は、カナダ議会が自らに関連する条項について批准権を持つことを英本国に認めさせた点で、また合衆国によるカナダ自治領承認への道を開き、加米間の「防備なき国境」を実現したという点で重要な意味を持ち、しばしば、外交自主権獲得過程の文脈で言及される。(田中俊弘)

ワタリガラス
アポロによって黒鳥にされたと言われる烏のうちで、ワタリガラスは大型である。烏は鳥類で一番進化したもので、その腐肉でもなんでも消化する強靭な胃で強力な体をもち長生きすること、運動神経のよさと高度な知能の発達によって、人間の憧れや憎しみの的となっている。カナダの北西海岸先住民たちの神話や民話ではワタリガラスは創造主のような存在であったり、いたずら好きの存在や悪者であったりと両義性を持つトリクスターとして登場する。北西海岸先住民社会では家族やクランの紋章になりトーテムポールに刻まれている。(多湖正紀・岸上伸啓)

ワトキンス委員会報告
トロント大学のメルヴィル・H・ワトキンス教授(Melville H. Watkins)を委員長とするカナダ産業構造特別委員会が、カナダ上院の要請を受けて1968年に提出した報告の通称。1960年代にカナダ国内に台頭した新しい経済ナショナリズムの潮流の中で作成された報告書の1つであり、外国資本、とりわけアメリカ合衆国の資本に大きく依存するカナダ経済の状況に警告を発して、国内企業の強化を訴えた。とはいえ、外国投資の流入自体は重視しており、その利益を享受しながら、カナダ経済の自律性の確保を目指すべきとする内容であった。具体的な策として、たとえば、多国籍企業に関する政府政策を調整する特別機関の設置を提案している。そして、外国所有企業の情報を多く収集して、政府がこれらの企業をしっかりと監督しながら、同時に新規多国籍企業の参入を容易にする体制を提示したのである。なお、本報告は『外国資本と国民経済:ワトキンス報告』(ペリカン社、1969年)の邦題で全訳が刊行されている。(田中俊弘)